2018年12月13日

(証し)子供に「学校行かない!」と宣言されたら?! 



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光言社編集者ブログより
「今、私に求められる『心情開拓』」
という題目のついた証しを紹介します。


息子(中1)が2学期の中間テストを間近に迎えたある日のことです。

会社から自宅に帰ると、娘たち(小3、小5)から
「お兄ちゃんが自分の部屋でずっとゲームをしていて、
ゲームができない」と訴えられました。

部屋に行き、息子に「ゲームをずっとやってるって?」
「テスト勉強は大丈夫なの?」と話し始めると、
くどくどとお説教に。

息子の顔はどんどん険しくなり、
最後に、「学校、行かないから!」と宣言しました。
私は、「行きたくなければ、行かなくていい。好きにしたら」
との言葉を残し、息子の部屋を出ていきました。

息子は翌日、学校を休みました。
小学生のときから、病気以外で初めての欠席です。
私は「本当に休んだ…」と驚くとともに、
一方的に話し続け、息子を追い込んだことを反省しました。

その後、息子は何度も学校を休むようになりました。
それまで家庭や学校でいろいろと我慢し、
ストレスを感じていたことがあったのだと思います。
反抗期が始まったのかもしれません。

私自身、中高時代は皆出席で、
「学校は行くもの」「部活、勉強は頑張るもの」と、
何の違和感もなく過ごしてきましたが、
そんな考えはガラガラと崩れました。

毎日が憂鬱でした。


そのようなとき、会社で先輩家庭に相談する機会がありました。

そこで、「神様に近づくいい機会が与えられたね。
こういうことでもなかったら、共に泣き、
共に喜んでくださる神様のことを振り返ることもなかったでしょう。
あなたの成長を、神様が願われているんだよ」と言われたのです。

本当にそうだと思いました。

カープで特別信仰的訓練や伝道実践に明け暮れていた頃は、
どんな些細なことでも神様と共有し、
その導きを切実に求めて歩んでいました。

そのような「心情開拓」が、今の私に必要なのだ
と感謝して受け止めることができたのです。


そして、『祝福家庭』の編集で出会った
先輩家庭の言葉に衝撃を受けました。

「10年間、親に反発し続けた娘が、
今、祝福に向かおうとしています」
私は「10年ですか…」と、言葉を失いました。

日々、一喜一憂している自分が恥ずかしくなり、
困難な事情を乗り越えてきた先輩家庭を本当に尊敬したのです。


神様は、人間の良心だけを見詰めて6000年間、歩んでこられました。

そのような神様の視点に立ち返る
きっかけを与えてくれた息子に感謝しています。
神様を慕い求め、息子の良心、
本性に目を向け続けていこうと思います。



子供というのは、なかなか
親の願い通りに育ってくれない・・・
往々にしてありますね。。。

子供の年齢が即、親になった年齢でもありますが、
子供たちの姿を通して、
親になる訓練を与えられているわけです。

お父様は、「家庭は愛の学校」と語ってくださいました。
先生の優劣というか、
好きな先生の授業はたくさん聞きたいし、成績も上がります。
嫌いな先生の授業は聞きたくないし、点数も下がります。

私は子供たちの前で、好きな先生になっているかな。。。
そんなことを考えたりします。

また、別の観点で言うならば、
真の先生である真の父母様の前に、
私は生徒として、息子として、
どういう者なのか、
そんなことも考えます。

「心情開拓」をしながら、
真の親の道を歩んでいることを、
肝に銘じていきたいものです。







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2018年12月12日

イエス様が、捨てられた群れを訪ねていかれた理由?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言、
「恨の多い主」より、続編です。



捨てられた群れを訪ねていかれたイエス様

イエス様は、家庭から捨てられ、教会からも捨てられ、
選民であったイスラエルの民からも捨てられました。

ベルゼブルだと追い詰められました。
選民に期待して来られたメシヤは、
仕事をすることができませんでした。

愛の実体であられるイエス様は、
かわいそうな人々や捨てられた人々を探し求め始めました。
ご自身と同じく捨てられた者の世界へ訪ねていって、
そこで愛と哀れみを施し、
ご自身を必要とする人たちを相手にされました。

ユダヤ教は違うといいますが、
ユダヤ教の指導者たちができないことをなさる方でした。


世の中には、自分より出来の悪い者を迫害する法がありません。
迫害は、実力のない側から実力のある側にするのです。

イエス様は、家庭と教団を失ってしまいましたが
大衆の中で基盤を確保し、教会をつくり、
その教会の中で家庭を成さなければならなかったのに、
弟子たちにまで不信されて立つ位置がありませんでした。

イエス様を中心とした天の権勢を
地上に引っ張り降ろさなければならない弟子たちだったのに
不信してしまいました。


イエス様が十字架にかけられたのは、
弟子たちにも原因がありました。

もちろん、マリヤがイエス様に神の息子として仕えたならば、
そしてマリヤの親戚たちがイエス様に仕えたならば、
マリヤを中心としてユダヤ教会で
神霊に満ちたユダヤ教信者たちが信じて、
祭司長たちにまで連結される道があったのです。

ところがイエス様が三弟子を連れてゲッセマネの園で
「十字架を免れるようにしてください」と祈られたのを見るならば、
三弟子に未練をもって連れて行かれたことは明らかです。

イエス様が、この地上で信仰基台と実体基台が成就されてこそ、
存在することのできる位置が準備されるようになっています。

このように信仰者は、信仰の子女を導くことができないならば
心霊の成長に問題が生じるようになります。


恨を抱くならば火がつきます。
恨を抱き火をつけようとするとき、
地上でつかなければ霊界ででもつくようになっています。

信仰が生きた、死んだというのは、
その人の恨と嘆息の内容が何なのかで知ることができます。

自分の事情による恨は、
内なる人(霊人体)が死ぬような問題の種になりますが、
主の恨を抱くならば内なる人が永生するようになるのです。

イエス様の弟子たちは、奇跡を見て
イエス様と共に迫害を受けながらも、
主の恨多い事情を知ることができませんでした。

恨は、どこから相続されるのかといえば、
迫害を受け口惜しい立場で相続されます。



同じ迫害でも、また困難なことがあっても、
どのように乗り越えるかによって、
神様に通じることもできるし、
自分の次元で留まってしまうことがある、
そのようなことを示唆しているのだと思います。

同じ恨でも、主の恨を抱く、ということ、
私が置かれている事情、環境を
神様に結び付ける、という
そのような発想の転換というか、
私に巣くっている自分中心の思いを
根こそぎ変えていく、
そこが重要なのだと思います。





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posted by ten1ko2 at 08:55 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月11日

誰を愛したら幸せになる?! 神様を愛するチャンピオンは、真の父母様 《自叙伝》



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浅川先生の自叙伝書写講話。
今回からは、「神様を愛する」です。


神様を愛することにより、
私の人生は完全に変わりました。

自分よりも人類をもっと愛し、
私と私の家族の問題より
人類の苦痛を先に考える人になったのです。

また、神様がつくられた
すべてのものを愛そうと努力しました。
山にある木も愛し、水にいる魚も
愛する心で見ました。

世の中のすべてのものから神様のみ手を感じようと、
触覚を鋭敏にしました。

そのように、心を神様の愛に合わせて変える一方、
使命を果たそうと、私が備えるべき
強健な体をつくるために努力しました。

いつ、いかなる時に神様が私を呼ばれても、
即座に走っていく準備をしたのです。


(『平和を愛する世界人として〜文鮮明自叙伝』327〜328ページ)


人間は誰しも幸福を求めて生きています。
では、どうしたら幸福になることができるでしょうか。

健康やお金も幸福の条件ですが、
何といっても幸福の素(もと)は、「愛」です。
人は愛することと、愛されることで幸福になるのです。

では、誰を一番愛したら幸福になれるでしょうか? 

「あなたにとって最も大切なものは何ですか?」
と聞かれたら、即座に何と答えますか?

一般的には、人が最も大切にし、愛しているもの、
それは自分自身ではないでしょうか。

自分の健康、自分の老後、自分の生活、
自分の容姿、自分の生きがい、すべては自分です。

人が写真を見れば、まず自分の姿を探します。
自分がよく写っていなければがっかりします。
どんなに両隣の人がかわいくきれいに写っていても、
満足できません。


さらに愛しているのは、自分の家族です。
もちろん、自分よりも家族を愛している人もいます。

あるお母さんが、保育園から電話があって、
「園バスが事故に遭って園児が重軽傷を負いました」
と連絡を受ければ、まず、
「私の子供は大丈夫でしたか」と尋ねるでしょう。
わが子が無傷であれば、ひとまず安心します。
それから他人の子供の心配をするのです。

テレビで、外国でテロや戦争で、
何人死んだというニュースを聞いても、
夕食が喉(のど)を通らないということはありません。
自分の家族が、その死傷者の中にいないからです。
しかし、わが子の留学先で事件が発生すれば、心配で取り乱します。


では、自分と自分の家族だけを愛すれば、
本当に幸福になれるのでしょうか。

考えてみると、従来、多くの人が、
自分と家族だけのために生きてきました。
自分と家族が不幸になることを望む者は、
そう多くはいなかったはずです。

でも、真の幸福な家庭、真の平和の社会や国、世界ができたでしょうか。
ただの一度もできませんでした。
やはり不幸な家庭と社会が続いています。

どんな時代よりも生活が豊かになったといわれる現代の日本社会で、
あなたは本当に幸福ですか?


文鮮明(ムンソンミョン)先生は、誰よりも、
人々の幸福を願い、そのために生涯を捧げてこられた方です。

幼少の頃より、「人々に幸福をもたらす者になろう」と決意され、
豊かな才能がありながらも、科学者の道を歩まず、
「人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人」
になることを目指して生きてこられました。

その人生の指針に、「『私さえ幸せに暮らせばよい、
私の家庭さえ守ればよい』という言葉は、
私の辞書にはありません」とあります。

では、まず、何を愛したらいいのでしょうか? 
文鮮明先生によれば、それが神様なのです。


では、神様を愛するとは、何をすることなのでしょうか。

日本では、毎年、年末年始になると、
多くの人たちが神社仏閣にお参りに行きます。
東京の明治神宮だけでも数百万人の参拝者が詰めかけます。
さまざまな願い事の成就を祈願します。

家内安全、無病息災、交通安全、安産、良縁、
そして受験合格まで祈願します。

作家の五木寛之さんは、日本の学生が結構信心深い理由として、
合格祈願を挙げています。
五木さんが、東京の湯島天神に参拝に行った折、絵馬を見ると、
合格志望校で最も多かったのが工学部系の大学だったそうです。
「頭のいい学生が信心深い?」と『霊の発見』という本で述べています。

人は自分の力の限界を感じたりすると、神様の力にすがろうとします。
しかし、考えようによっては、自分の願い事の成就のために、
神仏を利用しているとも取れます。
愛しているのは自分と家族であって、
その願いを成就するために、神様にすがっているのです。

ある神仏に祈願して、結果が思わしくなかった場合、
「あの神様は役に立たない」などと言って、別の神仏を選ぶ人もいます。
自分の願い事の成就のために、次から次へと神仏を変えていくことを、
信仰道楽と言う人がいます。

自分の願い事の成就だけのために、神様と向き合うのは、
どうやら神様を愛しているとは言い難いようです。


では、神様を愛するとは、何をすることなのでしょうか。

霊山や修道院にこもって、清貧な生活を送り、
その生涯を神様に捧げる修道者もいます。
確かに、心を神様のみに捧げるという意味では、
「神様を愛する」ことにはなります。

文鮮明先生も、山や教会で何時間も祈りを捧げられます。
神様を慕って、愛する心で、祈り続けて
教会の床が涙で濡れることもあったのです。

「私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、
神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。

……この年になっても、私はただひたすら
神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です」


と言われています。

しかし、神様とのみ向き合うことが神様を愛することであるなら、
文鮮明先生は「平和を愛する世界人」にはならなかったでしょう。
自叙伝にも書かれているように、
生涯を全世界人類のために捧げておられるのです。



「ご利益信仰」という言葉がありますが、
それで終わってしまっては、本当に神様を愛するとは
ほど遠いようです。

浅川先生の講話を通して、
神様という存在を「信じている」というのは、
第一段階なのだということを感じます。

お父様は、神様を信じているのではなく、
知っている、実感している、のだと思います。
だからこそ、本当の意味で、神様を誰よりも愛され、
また、全人類を愛してくださった、
それがお父様の道であったと言えるでしょう。

具体的なことに関しては、次の回になります。
お楽しみに。。。





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posted by ten1ko2 at 08:58 | Comment(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする