2023年01月28日

ご子女様と私たちへの愛の違いは何? 《真のお母様、感謝します*中村惣一郎先生》




201126.jpg


「真の愛」と口ではいいますが、
具体的にどのような愛なのでしょうか。

『心を打つ50の証し
真のお母様、感謝します』より、
中村惣一郎先生(777双)が
真のお母様の愛に触れた証しです。


真のお父様は、1965年1月28日、
第一次世界巡回路程の最初の訪問国として、
日本を訪ねてくださいました。

西川勝(崔奉春)先生(36双)から
お父様のお話を伺っていましたが、
当時はお父様とはお呼びせず、
「大先生」とお呼びしていました。

まだ一度もお会いしたことはなく、
お写真でもお顔を拝見することが
あまり多くはありませんでした。

イエス様の果たせなかった使命を成就されるために、
再臨主としておいでになったお方を
どのような心情でお迎えしたらよいのか、
戸惑っていたことを思い出します。

長年、真の父母様に侍り、子女様を
見守ってこられた申美植(シンミシク)先生(西川先生夫人)が、
深い心情でお父様をお迎えすることができるように、
私たちの心を整えてくださっていました。

このとき、真のお母様は韓国におられ、
お父様に同行された崔元福先生が
お母様からのメッセージを私たちに伝えてくださいました。

「愛という言葉の持つ
 限りない意味を込めて、
 あなた方を愛します」


というものでした。

まだ教会の基盤のない草創期、
お母様とお会いしたこともない、
お写真を拝見したこともない時代でした。
このみ言を通して心にしみるお母様の愛を感じました。

全国の食口たちも本当に慰めを受け、
勇気を与えられたと思います。


それから20年近く経った1983年夏、
お父様のお供をして、アメリカ・マサチューセッツ州の
プロビンスタウンでマグロ釣りをしたときのことです。

ある日、嵐が来るから早めにマリーナ(ボートの停泊所)に
戻るようにという連絡が入り、
私たちは午後5時位に着きました。

近くの出店を見ながら777双の兄弟と二人で
迎えの車を待っていました。

そこに普段着姿のお母様が来られました。
私たちがご挨拶すると、お母様は、
「お父様はまだですか?」と日本語でお尋ねになりました。

私たちは、「もうすぐ、
お帰りになると思います」とお答えしました。

お母様は、手に持っておられたドーナツを
ポッと割って、私たちに下さったのです。
それはあまりにも自然な行為でした。

とても不思議な感じがしました。
“これは何なのだろう?”と、
お母様を通して体験した感覚の世界を、
自分なりに尋ね求めてみました。

「このドーナツを食べなさい」と言われれば、
それに対して「ありがとうございます」
というような会話が普通であろうと思うのです。

しかし、そのときのお母様の印象は、
もっともっと近い感じだったのです。

私は、”そうだ!ご自身の子女である
興進様と私たちを同じように扱ってくださっている。
ご自分の子女様と他人の子女との差がないのだ”
ということに気づいたのです。

よく、「カインの子女を愛して、
それから、アべルの子女を愛する」と聞いていましたが、
お母様におかれては、その差がないのです。


【お父様がお母様について語られたみ言】

お母様は、真の母になり、
真の妻になり、真の娘になる、
その三つをすべてしなければなりません。
一つするのも大変ですが、
お母様はそれをすべて成し遂げました。

(天一国経典『天聖経』2・1・3・14)


(光言社・刊『真のお母様、感謝します』より)

私の心に響いた真の愛
中村 惣一郎(777双)
『真のお母様、感謝します』27
blessed lifeより


日本語を語られるお母様に
愛を感じます。

また、お母様がドーナツを渡されたお姿。。。
中村惣一郎先生は、「不思議な感じがしました」
そのように表現されています。

私たちがお母様に侍る心情と
お母様が私たちを愛する心情に
隔たりがあるのでしょう。

おそらく、中村先生は
そのとき初めて挨拶されたのですから
深い心情の因縁はなかったかもしれませんが、
お母様は子女様と全く同じように
接していかれました。

「真の愛は直短距離を通る」
そのように言われますが、
真の親の愛が、子女に向かう心情が
ドーナツを渡される姿になって
表れているのだと思います。

私がその場にいたとしても、もしかして
全く同じように対してくださるのではないか。
そのような真のお母様のご心情を
求めていきたいと思うのです。






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2023年01月27日

献金して、それを惜しめば神が嘆く 摂理はお金ではなく、愛(内面)が問題 《蝶野部長*精誠篇2》F

み旨を頑張った人は、神と世界を愛した条件が立つ




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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)

家庭連合の信仰を熱心にしている信徒あるいは
活動に関わっている方たち向けの
信仰的なガイダンスです。

※教理(統一原理)を学んだ基礎がないと
理解しにくい表現となっています。


(先回紹介したテロで息子を亡くして、
犯人を許すと言った
クリスチャンのご両親の場合のように)
内的蕩減と実体蕩減が、同時に
なるようなものもあるんですよ。

まずは内的蕩減が大切なんですが。

【神の御心を知り、環境に対して
責任を持とうとするのが中心人物。
神様は中心人物に信仰基台において
外的に命令された時も、実際の摂理の目的は、
その人間の内面にあった!】



(アベルに)「羊を供えよ」というのは、神様は
羊の肉が食べたいわけじゃないんです。
私を愛してるのか、どうなのかという
内面を見るためです。

だったら神様が(アベルに)聞いたら
いいじゃないか、と思うかもしれませんね。

でも、そうしたらアベルは、
「愛してます、愛してます、愛してますから
羊は供えなくていいでしょう、
愛してますから」と、こうなるでしょう。


皆さんが、神様と世界を愛してるのか
というのは、皆さんが摂理で頑張って
こられたのを見て、この人間は家庭よりも
世界を愛してるという条件が立っているのです。

でもその本人は、いや摂理、世界というよりは、
実は自分の孫の受験を変えるために
献金したんだという動機だとしても、
神様はそういうふうに取らないのです。

だって教会に献金してるじゃないかと、
これは神を愛したということなんだと、
神様がサタンの讒訴圏を、
パッと切ることができるんですよ。

ですから、信仰基台というのは
内面を表現するものなんです、実は。

だから、すべての食口たちは
私を、家庭を、犠牲にして、
神様を愛してきたという、喜びを
もってほしいんです。

頑張ったら頑張ったぶんだけ
もちろん万物は、手元から減っていくとしても
神様がどれほど感動するか。

でも、「ああ、あれがあったら助かるのに」
とか、ぶつぶつ言ってると、神様は耳を塞いで、
「ああ、ああ、聞かない、聞かない」と
言うというのです。


母の日のプレゼントをもらったのですが、
『うわぁ、うちの息子からもらった、
今日はこの息子が好きな美味しいとんかつ作ろう』
とね、苦労して、もう一生懸命料理をしてたと。

そしたら隣の部屋から、息子の舌打ちが聞こえると。
チッチってね。

「もうオカンの母の日のアレで
もう小遣い減ったー」と、文句を言っているのが
聞こえたといいます。

これは、実話です。
料理してたら息子が、弟と話している。

お母さんとしたら、自分を愛してくれてるから
プレゼントくれたんだと、喜んで
ロースカツでも一番いいのを買ってきて
料理作っているのに、こうやって(耳を塞いで)、
『もう、聞きたくない』と、こうなるじゃないですか。

神様を愛するため、御父母様を愛するために
(献金)したのに、あれがあったら助かるのにと言ってる、
神様は「ああ聞かない、この者は
私を愛するためにやったんだ」と、
こういうふうに(耳を塞ぐ)。

これは親の心なので、わかるでしょう、皆さん。


愛したというとき、これが信仰基台ですよ。

そして、その愛と一つとなった立場から
カインを見た時に、神様の心が分かって、
出てきて愛するっていうのが、実は実体基台です。

この信仰基台、アブラハムのイサク献祭で、
(息子のイサクを)「殺せ」と言ったのは神様ですよね。
でも、最後「殺すな」と止めたのも神様です。
神様どっちなの?ってことなんですよ。

殺せというのが、信仰基台の命令です。
今の時代には、ありえないけどですね。

殺せと言いながら、最後「殺すな」ということは
つまり、「殺せ」という外的命令は、
目的ではなかった、ということです。

内面が見れたので、もういいってことでしょう。
信仰基台は、内面を見させるために、
外的命令するのです。

だから、親子が一体化して、
完全に神様の命令の前に、
親の情、子供の情を越えた、
それが見れたので、「もういい」と言ったのです。


ノアの箱舟もそうです。

動物をいっぱい入れて、村の人をいっぱい入れるために
大きくしただけではないんですね。
まぁ実際、(村の人々は)入りませんでしたが。

それは、ノアがどれぐらい神を愛しているのかを、
神様が見るために、船を大きく作らせたという、
お父様のみ言があります。
1960年代のみ言です。

ちっちゃい船だったら、惰性で作れるんですね。
あんなにデカいのを、ほぼ一人で作った。
最初は子供が手伝ってたけど、途中から
手伝わなくなったという話もありますけど。

(これも)どれだけ神様を愛してるのか、
というのを見るためだった、というのです。


ですから、信仰基台を、本当に理想的にやったら、
実体基台というのは実は自動的なんです。
自動的と言ったら、ちょっと語弊がありますが、
ほぼ導かれるんですよ。

ところが、なぜ実体基台を失敗してきたか。
信仰基台が、外的なものだと
勘違いしてきたからなんです。

自分をつくることができなかった、ということですよ。

実体基台って、自分がいるでしょう。
人を愛しに行く話ですよ。
自分をつくってないから、
「愛せません!」ってなるのです。

信仰基台は、本当は、自分をつくることです。


だからよく考えると、信仰基台というのは、
成長期間の蕩減復帰なんですね。

そこに成長する要素がないと、
本当は信仰基台ではないのです。

創造原理においては、これは普通の成長期間です。
復帰原理においては、
成長期間を果たせなかったので、
信仰基台があるんですね。

成長期間は、外的蕩減条件ではない、
内的蕩減条件です。
だから信仰基台は、外的献祭で、内的蕩減条件なんです。
実体基台は反対です。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


信仰基台の根本は、神様を愛する、ということです。
神様のために、万物を捧げていく時に
神様はどれほど喜んでおられるでしょうか。

その動機と心情は貴いものです。
その聖なる思いを持続させていくことは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう。

外的環境が変わったとしても、
変わらない内的な心情、
心の姿勢が重要であると思います。




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2023年01月26日

自分勝手に生きる人は、精神的におかしな人?! ・・・現代人が不幸なワケ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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2023.1 HJ天宙天寶修錬苑


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「神を喜ばせる生活」の前半です。  

重要な所属関係

「自分という存在が本然の位置にいるか」、
「自分という存在は縦的関係を
はっきりともっているか」、
このことが人間としての根本であり、
存在位置なのです。

「私という者は、
人間としてしかるべき人なのか」、
このことを確認しながら生きていかなければ、
自分を捨てた人と同じになります。

縦的関係を確認せずに生きる人は
不幸の極みであり、わがままであり、
自分を捨てた人であって、
生きているように見えても、実は死んだ人なのです。

今この時は楽しそうに、誇らしそう(に)
見えるかもしれませんが、
実は、不幸におぼれやすいのです。

そのような人は、その時は誇らしく思っても、
あとで恥ずかしい道を行くようになります。


ですから、人は根本を、所属を
はっきりと知らなければなりません。

自分の立場を忘れて、父母のことや
師のことが眼中にない態度をとっている人は、
精神的におかしな人として見るしかないのです。

心理学者たちは、「多くの現代人は
精神病患者である」と言っています。

それは、自分の所属関係を
はっきりと決定していないからです。

父母も師も眼中になく、だれからも
干渉されず気ままに行動する人は、
明らかに精神病者なのです。


人間において所属関係、すなわち
因縁関係が一番重要です。

人間は、もともと自分を肯定して
生きるようには創造されていません。

ですから、自分勝手に、「私はただ
私のために生まれた」と考えてはなりません。

「私は創造主のものである。
所属した関係圏内で誇らしく生き、
責任を果たしていくべき私」なのです。

 
試練の中で、相対関係をもつことに
注意するようにとのみ言を聞いたことがあると思います。

人の心は、環境によって左右されやすいものです。
また、子供は環境によって支配されます。
ですから、子供は母親の目の届く範囲にいれば安全です。

ひな鳥はめんどりの近くにいなければ、
禿鷲などの外敵に襲われる危険性がいつもあるのです。

ひな鳥がめんどりと一緒にいる時
その生命が保たれるように、皆さんは
自分の存在位置をよく守っていなければなりません。

ひな鳥が禿鷲に対抗できないように、
皆さんも自分一人の力では行動できないのです。
もしそのようにすれば、この社会の
あらゆる不信の波が押し寄せてくるのです。

ですから、めんどりの懐で育つ雛のように、
人は神様の懐で育たなければなりません。

 
そのためには、所属関係を一番重要視することです。

もしもその関係が崩れてしまったなら、
世の中の大きな激しい波が押し寄せてきたとき
流されてしまいます。
到底その波に耐えることはできません。

皆さんはそのようなことを
何も知らないのに、自分勝手です。
ですから、小さなことから実践しなければなりません。


「むやみに話をしてはいけません」ということは、
縦的な位置を守らせる訓練なのです。

また、「時間を守りなさい」と言われ、
できるにもかかわらずそれをしない人は、
世の中の波に流されてしまいます。

神様は、「取って食べてはならない」
という戒めを下さいました。

しかし、アダムとエバはその戒めに無関心だったのです。

今日、神様は皆さんに、
「時間を守りなさい。
むやみに話をしてはいけません」と頼んでいます。

このような戒めに対する責任を果たすことは、
主従関係を大切にすることと同じです。

 
それでも、自分勝手に行動する人には
もはや希望がありません。

ごく小さなことに対しても、
自分勝手に行動する人には希望がないのです。

神様は、ごく小さなことに対しても
大事にする人には良い印象をもち、
大きな仕事を任せることができるのです。

またそれを守れなかった時には、
神様はどんなに失望されることでしょうか。

私たちは、大きなことよりも、小さなことで
気持ちが良くなったり、悪くなったりします。
ですから神様も同じなのです。

天は小さくて見るに足りないようなこと
だとしても、大事に守れる人を「義」とされるのです。

ですから、私たちは小さなことであっても
真面目に大事にし、
相対関係のことを考えなければなりません。

 
米一粒にも一年の年月が刻まれており、
一円のお金にも、血と汗が込められている
ということを知らなければなりません。

お金持ちとは一円のお金でも大切にし、
一粒のお米でも自分の全財産のように思う人です。
お金一円を軽んじ、米一粒を無視する人は、
そのゆえに恥をかき、
惨めな立場に立つことがあるのです。

失敗する人は大きなことによって
そうなるのではありません。
むしろごく小さなことを無視して、
惨めなことになるのです。

きょう皆さんには、このような
平凡な真理を大切にしてほしいのです。

小さなことを実践して、
自信に満ちるようになるのです。

人は、自分のために生まれたのではありません。
真の御父母様は、皆さんが小さな生活を
どのようにしているのかを注意深く見ておられます。

大きなことを願われているのではありません。
小さなことに真面目で、誠実で、万事に感謝している時、
真の御父母様はそれを御覧になって、
誇らしく思われるのです。

それが真の御父母様の心情なのです。

 
家を建てるためには、
基礎工事をしっかりしなければなりません。
人も基礎がしっかりしてこそ、
将来希望があるのです。

その基礎とは、人間がもつべき基本姿勢なのです。
姿勢がしっかりしていない人は、
一生の間、人に迷惑をかけるようになるのです。

ですから、信仰基台を
正しく立てていかなければなりません。
その基台の上にしっかりと根を下ろしてこそ、
将来が明るくなるのです。

人にはだれしも時があります。
木に新芽が出、花が咲き、実が結ばれるのに
時があるように、人においても時があるのです。

その時を逃すと、不幸になります。
十歳前後になってできる人もいますが、
その時期を逃して三十歳前後に
立てられたとしたなら、それは本当に不幸です。

夫婦が不和であると、子供にそのような
基礎ができる時期を阻むことになります。

十歳から二十歳の間に、
生きていくための基礎が整わなければなりません。

(『統一世界』一九九〇年九月号より翻訳転載)

21・神を喜ばせる生活
「重要な所属関係」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


小さなことを大切にする生活。
「一円のお金でも大切にし、
一粒のお米でも自分の全財産のように思う」
このように思って生活することが大事なのだと思います。

何よりも、文先生ご自身が
そのような生活をしていかれました。

万物を創造された神様を
愛されるがゆえに
万物を貴く思われているからではないか、と思います。

私たちも日常の何気ないことにも、
神様を思い、万物を貴く思う、
そのような心掛けをしていきたいと思うのです。


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