2011年04月21日

神様を解放する道(4)


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師を仰ぐ人がいるとするなら、
誰もが、その人を慕い、尊敬するがゆえに、
その人に似たい
その人の生き方を相続したい
という風になるのではないでしょうか。

み旨の道に次のようなみ言葉があります。

信仰生活の基準はメシヤである。
メシヤに似ることが信仰である。


私は、文鮮明先生を
再臨主として、真の父母として、
信じ、慕っている者であります。

ですから、文先生の生き方を相続することが
信仰生活の基準であるというのです。

自分に限界が来たとき、
とうてい乗り越えられない壁にぶち当たった時、
既に同じような道を乗り越え、
勝利された方がいるのです。

すなわち、文先生が歩まれた道を振り返るとき、
自分では越えることが出来ない道を
既に越えておられるので、
恨みを持って越えるのではなく、
感謝して越えることが出来るし、
そこで生きた神様との出会いがあるというのです。

上記のように日々過ごせればいいのですが、
実際はそのようにならないのが現実ではありますが。。。
ですから、統一教会の問題は、
文先生にあるのではなく、
文先生を慕っている者たちにあると言えるのかも知れません。

そんな足りない者ではありますが、
それでも、試練を越えて来たが故に
この道に残っている自分でもあるというのです。

そのことを堂々と誇ることの出来る
私でありたいと思うのです。

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posted by ten1ko2 at 08:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

「神様、私は大丈夫です」〜神様を解放する道(3)〜


Luke23bカルバリ.jpg


昨日の続きです。

文先生の道のりもイエス様と同様
迫害と苦難の道でありました。

1948年平壌の地において、
南から来たスパイと疑われ、
社会を乱したという罪により、
5年の刑が言い渡されました。

その時の文先生の心情がどのようなものだったでしょうか。
文先生は次のように語られています。

「神がこのような悲惨な道に愛する者を送ろうとするとき、
そのような所に『行け!』 と命令する神様よりも、
行かせねばならない事情を持っていた神様を先に考えた」


神様の事情、心情を思っていかれた文先生は、
次のように悟られます。

「地獄のような所へ行かねばならない自分も
苦しい立場であるけれど、
それ以上に苦しまれるのは、
愛する者をそのような所に
送らねばならない神様である」

自分の苦しみを思うこと以上に、
神様を何よりも慰めていかれたのです。
そして神様に祈りを捧げていかれます。

「神様、心配しないで下さい。私は大丈夫です」

このように、自分の苦しみ以上に
父なる神様のことを考えていかれた文先生でした。

このようにして、すべての思いを超えて、
感謝の境地に至り、神様を慰める道を歩まれている
勝利した師がおられるがゆえに、
その師を慕う私たちも同じ道を行くことが出来るのでしょう。

ですから、おとといの記事において、
「神様は私を見捨てた」と思った婦人が、
さらに神様を求めて、祈りを捧げたのちに、
むしろ今抱える苦しみを超えて、
神様を慰め、解放していこうと悟っていかれた世界は、
すでに勝利された方がいるがゆえに、
到達できた境地だと思うのです。

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posted by ten1ko2 at 08:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

現代の「弁明しなかった主人公」とは誰なのか〜神様を解放する道(2)〜


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昨日の記事で最後にこのように書きました。

『私が置かれた環境、境遇がいかなるものであっても、
既に越えていかれた方、
勝利された方がいらっしゃるがゆえに、
感謝して越える道が与えられているのだと思います。』

勝利された方、
それが誰かとするならば、
2000年前においていうならば、
イエス様でありました。

文先生はこのように語られています。

イエス様は宇宙的な使命を持って
この地に来られましたが、
一生の間、苦難を受けられました。
しかし、その悲しみのために祈るのではなく、
かえって心を痛めて心配なさる父を慰められました。
そうしながら地を眺めて、
人間の無知を容認してあげるために
苦しまれたイエス様だったのです。
み旨を完全に成し遂げようとして
来られたイエス様でしたが、
十字架に亡くなることになったからといって、
腐心や失望はしなかったイエス様でした。
死の場まで行っても、
イエス様は自分について弁明しませんでした。
ピラトの法廷を通過し、
ゴルゴダの山頂を経て十字架に
釘付けにされて亡くなる立場まで行きながらも、
イエス様は弁明しなかったのです。
弁明しなかった主人公でした。


(1956年12月23日の礼拝説教から抜粋)


イエス様の道のりは、
神様が2000年かけて準備した基台が崩れ、
多くの苦難を受けなければなりませんでした。
そのため、悲しい心情を何度も通過しましたが、
悲しみのために祈るのではなく、
かえって心を痛めて心配なさる父を慰められました。

これが、真なる神の子女として歩まれた
イエス様の勝利の道であったと思います。

初期キリスト教時代において、
多くのクリスチャンたちが殉教の道を行きました。
しかし、苦難の中、それでも信仰を持ち続けたのは、
何故だったのでしょうか。
それは、イエス様と同じ道を歩むことが出来た誇りと、
さらに、殉教する時にイエス様の心情世界を
通過したばかりか、
霊的にイエス様に出会ったからだったに違いありません。

そして、このイエス様の深い心情世界を
詳しく語られている文先生ご自身も
同じ道を通過されたということは、間違いありません。

ですから、現代の「弁明しなかった主人公」と言えるのです。

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posted by ten1ko2 at 07:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする