2011年04月10日

患難の中で忠節の心情を持つ真の息子娘(2)


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昨年9月28日に題目のみ言葉の一部を掲載しました。
文先生のこのみ言葉は、
1961年2月12日韓国の本部教会において、
聖日礼拝で語られたものです。
まさに現代を預言しているような内容です。

先回とは、異なる箇所を掲載したいと思います。


皆さん、進む道が塞がってしまったと落胆しないでください。
この国が乱れていると気落ちしないでください。
この世界がいくら沸き立つとしても落胆しないでください。
神様は死んではいないのです。
神様は必ず尋ねて来られるでしょう。
すべてのものが動揺しても、
一片丹心の心だけは動揺しないでください。
天を頼って仰ぎ見る希望の心だけは変わらないでください。
その心が変わるようにするために、
神様が皆さんをどのような苦痛の立場に放りこむとしても、
その立場で「お父様!」と呼ぶことのできる
懇切な心を持たなければなりません。
いかなる立場に落ちても、
その立場で天の心情の一端をつかんで
はい上がるように労力しなければなりません。
地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、
お父様とともに同参する立場に立ち、
お父様の苦痛を私が知って、
そのお父様は私の苦痛を知って下さることを信じて、
そのような立場でも行くという
責任と義務を感じて出て行く皆さんならば、
亡びることはないでしょう。
 


言葉に関する、このような聖句があります。
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。

(ヨハネによる福音書第1章1節から2節) 


今、世の中が新しく生まれ変わろうとしています。
まさに、終末の時代に入っています。

終末の審判は何でしょうか。
火の審判、すなわち「み言葉の審判」であります。

こういう時だからこそ、
神様のみ言葉に立ち返ることが必要であるのです。

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posted by ten1ko2 at 04:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする