2011年05月28日

「ラスベガスで文先生にお会いしたい」東北メンバー、震災の十字架を越えて


Rubens, Peter Paul .jpg


親の心、子知らず
ということわざがあります。

親がどれほど子供のことを愛していて、
気遣い、心配したとしても、
子供はそんな親の心など
一向にわからないのだといいます。

自分が親になってみて、初めて、
親の気持ちがわかるようになるともいいます。

すなわち、同じ事情圏、同じ環境圏を
通過することにより、
同じ心情を味わうようになるのだと思います。

以前、岩手のメンバーが、
文先生ご夫妻がおられるラスベガスに行き、
とても先生が喜ばれたと聞きました。

3/11の大震災が起こって間もない時に
先生を求めて、行かれたのです。

「今日の私の救世主になって下さりありがとうございます」
http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/197947501.html?1306533100
参照のこと

そして、今回は、宮城と福島のメンバーが
その対象になっていると聞きました。

どちらの県も、
震災の被害が多かったところであり、
今も多くの苦労をしていることは、
ニュースを見ても、よくわかります。

しかし、そんな立場であるからこそ、
文先生の十字架をともに背負って
乗り越えていかれた世界があるのだろうと思います。



2000年前のイエス様の姿を振り返っていきます。
十字架を背負ってゴルゴダに登っていきました。
その十字架は、個人の罪ゆえではありません。
無実の罪でありながら、十字架の刑を受けたイエス様。

弟子たちが支えきれなかったもの全て、
ユダヤ人が迫害してきた罪の全て、
さらには、人類の罪全てを
ご自身が代わりに背負っていかれました。

十字架の道は、感謝と恨みが紙一重であると思います。
イエス様も、「何故、このような道を・・・」
という思いが全くなかったわけではありませんでした。
「この杯を過ぎ去らせてください」
と神様に祈りを捧げた時もありました。

しかし、その思いを全て越えて
「神様、彼らは何もわからないのです。
彼らを許してください」
と、とりなしの祈りを捧げていかれました。

十字架を感謝して受け止めて、
乗り越えていかれたイエス様の姿。


この道を文先生も歩まれているのであり、
そして、同じような立場を与えられた
東北の兄弟姉妹たちも
イエス様や文先生と同じ心情で
乗り越えていかれたのでしょう。

「何故、私たちの地域にこんなことが起こったのか」
与えられた環境を受け止めることが出来なければ、
先生の元を訪れることなどできないでしょう。

「自分たちが受けた十字架は、
まさに真のお父様が受けた道であり、
その十字架にははるか遠くに及ばない・・・
だから、感謝して越えていこう」

私たちも相続すべき心情世界です。

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posted by ten1ko2 at 07:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月27日

「節約」文先生の幸せの定義2【参考:自叙伝書写講演会】


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☆アルプスでの文先生ご夫妻☆


昨日の記事でも書いた文先生のみ言葉

「私さえ幸せに暮らせばよい、
私の家庭さえ守ればよい」
という言葉は、私の辞書にはありません


これは、強烈なメッセージであると思います。
ハッキリと断言しておられる文先生は、
まさに自分の愛する家族を犠牲にして、
私たちを愛してくださっておられるがゆえに、
何の負債もなく、語っておられるのだと思います。

自分と自分の家族だけを考える生活は、
神様が遠ざかっていく、というのです。

世界人類を兄弟のごとくに思える生き方、
そのように生きるならば、天運が保護し、
神がその家庭を放っておかないのです。

神様の気持ちをグッと引き寄せる日常生活。
講演会では、一つのテーマに絞って語られていました。

それが、何かというなら、
「節約」であるというのです。

文先生は「節約」をされる方です。
水道の蛇口の開き方も、違うようです。
「この水の一筋を飲めずに亡くなっていく子供がいる」
という思いで、水を大切にされるのです。

余りある衣食住の中に私たちは生きていますが、
「これで一人を救うことができる、申し訳ない」
と思って生活するのです。

日本ではまだ食べられるものを捨てる、
ということが往々にしてあります。
世界では多くの人たちが餓死しています。
食べられないで死んでいく人がいる中、
食べ残して捨てているのです。
日本人が捨てる食べ物は東京ドーム8杯分にもなり、
これは7000人が一年間食べていける量だといいます。

餓えて死んでいく人を考えて、
節約すれば天運が保護し、
神がその家庭を放っておかないのです。

「お前も私と同じことを考えているんだね。
お前もこの人をかわいそうだと思うんだね」
これが天運なのです。

全世界の人類がすべて自分の兄弟
と思いながら、
文先生が成しておられる節約の生活。

震災以後、被災地のための「節電」
が言われるようになってきました。
実際は、人災とも言うべき、原発事故により、
節電せざるを得ない状況になりつつありますが。

しかし、どんな動機で節約をするのかが、
とても重要なのだと講演会を聞いて思ったのでした。


全世界を巡回して感じる最も差し迫った危険は
食糧問題です。食糧問題こそ
一時も先延ばしできない問題です。
今も私たちが生きている世界では、
一日だけで四万人が飢えて死んでいっているのです。
自分のことではない、自分の子供のことではないと
知らないふりをしていてはいけません


(自叙伝、317ページ)


浅川先生の許可を得てブログに
掲載させて頂いています


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posted by ten1ko2 at 09:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

文先生の幸せの定義【参考:自叙伝書写講演会】


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☆スイス・アルプスでの文先生ご夫妻(ツーショット)☆


人は誰しも幸せを求めて生きています。
原理講論の総序にも
人間は何人と言えども、不幸を退けて
幸福を追い求め、それを得ようともがいている
とあります。

そして、誰が幸せになればいいのかと言えば、
もちろん、「私自身が幸せになりたい」
このように答えるでしょう。

さらには、私以外誰が幸せになればいいのか、
と質問されれば、
「家族が幸せであればいい」
こう答えると思います。

子供が遠足に行きました。
集合写真を撮って、その写真が出来上がった時、
まず確認するのは、自分の子供の顔であって、
隣の子供がどんなによく映っていても関係ありません。

幼稚園に通っている子供がいて、
いつも乗っている幼稚園バスが事故に遭った、
そう連絡を受けたとき、誰のことを心配するでしょうか。
他人の子供をまっさきに心配する親は一人もいないというのです。
まず心配するのは我が子のことです。

もちろん、私たちが持つ、自然の情の発露です。
ところが、実際は自分と自分の家族だけを愛したら、
本当の意味で幸せになることが出来ないというのです。

文先生の自叙伝「平和を愛する世界人として」
239ページにこのように書いてあります。

私さえ幸せに暮らせばよい、
私の家庭さえ守ればよい」
という言葉は、私の辞書にはありません。

私と私の家族だけ考える、その先に幸せはないのです。

動物と人間の違いは何でしょうか?
食べているだけなら、人類も爬虫類も同じです。

人類は有機体なのだというのです。
世界に住んでいるたった一人の人が悲しんでいれば、
私一人の幸せはないのであって、必ず私に伝わるのです。
人類は離れられない糸でつながっている、神の家族なのです。

ですから、先生の中には、
全世界の人類の最後の一人が幸せにならなければ、
私の幸せはないのだ。
このような思いを持って、生活しておられるのです。

この高貴なる先生の精神を相続するのは、
あまりにも基準が高いように思えますが、
それでも今の私でも出来ることがあるといいます。
また次回にお伝えしたいと思います。

*今日の内容は「自叙伝書写」講演会の内容を
参考に、再構成させて頂きました。
浅川節の再現は無理なので
このような形の構成になりましたこと
ご容赦ください


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posted by ten1ko2 at 09:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする