2011年06月18日

「一点の影のない、きれいな人生を」霊界に行くために〜私のおこなった自叙伝講演会2〜


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☆クィーンコーヒーの農場にて文先生一行―ハワイ・コナ☆


一時的に、肉体の機能が止まり、
霊界を垣間見た人たちがいます。
いわゆる「臨死体験」をした人たちは、
過去の自分の人生が映し出される場面を見たといいます。
「フラッシュバック」というものです。
自分の目の前に、生まれたときから息を引き取るまでの、
人生の歩みがそこに再現されるのです。

自分の人生を振り返りながら、
あまりにも細かいことまで全て蘇るので、
もし、良心に引っかかる人生ならば、
「自分の一生は恥ずかしい、
もう一度生まれ変わることができたなら、
それらを全て償いたい」
そう思うのではないでしょうか。

逆に言えば、人に尽くした人生、
良心に負債なき人生を送った人であるならば、
その人は顔を上げて、過去の人生を振り返ることができると思います。

文先生は、はっきりと語っておられます。

地上での人生を終えて霊界に入っていけば、
生涯、自分が生きてきた人生が、
録画テープが回るように展開します。
天国に行くか地獄に行くかは
自分の人生によって決定するのです。
ですから、一点の影もない、きれいな人生を
生きなければなりません。
(自叙伝340ページ)


文先生は、地上の世界と霊界の関係をこのように表現されています。

川は人生を表し、海は霊界を表す。

鮭のような魚は、川から海にそして海から川に戻る特殊な魚です。
しかし、生まれたばかりの鮭を海に入れたらどうなるでしょうか。
浸透圧をコントロールできずに死んでしまうでしょう。
少しずつ海に向かって泳いでいくので、海の生活に慣れていくのです。
すなわち、霊界に行く準備をしないで、突然霊界に行ったら、
大変なことになるというのです。

川も海も同じ水ですが、
海にあって、川にないものがあります。
そうです。塩です。
鮭は少しずつ塩を味わう準備をして、海に入っていくわけです。

それでは、霊界において塩に該当するものは何でしょうか。
それが愛なのです。
霊界は愛の海です。
愛だけが全ての世界であり、
愛が空気となっている世界なのです。

愛の中に生まれ、
愛の人生を生きたのですから、
生を終える墓の中に残るものも愛だけです。
愛によって生まれた命が、
愛を分かち合って生き、
愛の中に帰っていくのが、
私たちの人生なので、
私たちは皆、
愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければなりません。
(自叙伝239ページ)


海が近づくと塩を受け入れる訓練をするように、
とりわけ晩年の人生は愛が全てである、
という人生を送らなければならないのです。

さらにいうならば、霊界天国には、全てが準備されているので、
文先生は地上に執着するものは何もないといいます。

私は生涯に手にしたものをすべて差し出し、
身軽にこの世を旅立つでしょう。
天の国に行けば、
金銀財宝があふれるほど散らばっているのに、
地上から何を持っていくのでしょう。
(自叙伝338ページ)


この世でいくら財産を築いても、
また地位・名誉を得たとしても、
それを霊界に持っていくことが出来ません。
自分の生涯でどれだけ愛を与える人生を送ったか。
結局、真の愛の人格を形成すること、
これに優る準備はありません。

生きている間に愛を呼吸して生きる人間になりなさい。
愛なくしては生きられない人間になりなさい。
愛することしかできない人間になりなさい。


そのように語りながら、
文先生は、何よりも霊界をハッキリ知っておられるがゆえに、
そして、私たちを天国に連れていきたいがゆえに、
苦労の道を歩ませるのだ。
そんなことを思わされました。

ちなみに、今回セミナーに参加された方は、
ゆっくりではありますが、
今後も学んでいかれることになりました。

浅川先生の講演会を参考にさせていただきました。


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posted by ten1ko2 at 06:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月17日

文先生の強烈な霊界体験とは?〜私の行った自叙伝書写講演会1〜


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☆訓読会を終え夫人を抱擁される文先生ーハワイ・コナ キングガーデン☆


新しく教会に来られた方に対して、
自叙伝セミナーを不定期的に行っています。

今回は、霊界に関心のある方でしたので、
そのことを含めてお話をさせていただきました。

実は、文先生の自叙伝「平和を愛する世界人として」には、
《霊界》という言葉は、一つも出てきません。
代わりに、《霊魂》という言葉が何度か出てくるくらいです。

文先生ご自身は、霊界の存在を確信しておられるし、
地上生活は、霊界に行くための準備期間であると
強調しておられますが、何故、霊界に関する記述がないのか、
それは、自叙伝を出版した会社の社長が
熱烈な仏教徒であるからだと思います。

それでも、表現を変えて、霊界の存在に対して、
いくつか説明しておられます。

文先生は、12歳の時、ある強烈な体験をして、
死後の世界に対して、関心をもたれるようになりました。
それは、ひいお爺さんが亡くなったときのことです。

曽祖父の墓を移葬する時に、その場に参加した文先生は、
白い骨になった曽祖父の姿を見たのです。
その時の衝撃をこのように表現しておられます。

『曽祖父も生きておられた時は、
みんなと全く同じ姿をしていたはずなのに・・・。
そうすると、父や母も亡くなれば曽祖父のように
白い骨だけが残るのか。
自分も死ねばそうなるのか。
人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、
そのまま横たわってばかりいるのか。
思いはどこにいくのか・・・・』
そうした疑問が頭を離れませんでした。
(自叙伝59ページ)


人間はどんなに元気に生きていても、
結局このようになってしまう。
しかし死によって全てが終わるとは思えない。
思いはどこかにいくはずだ。
このことをはっきり知らなければ、
人間は幸せになることは出来ない。

先生は人生に対して深く探求されるようになります。
さらに衝撃的な出会いがもう一つあります。
それがイエス様との出会いです。

祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、
イエス様が私の前に現れました。
風のように忽然と現れたイエス様は、
「苦しんでいる人類のゆえに、
神様はあまりにも悲しんでおられます。
地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」
と語られたのです。
その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、
その声をはっきりと聞きました
(同62〜63ページ)

イエス様から特別な願いを託された先生でしたが、
ここで、印象的なのは、
悲しい顔のイエス様をはっきりと見、
その声をはっきりと聞きました

というところです。
幻想や夢想でのイエス様ではなく、
霊界におられるイエス様が顕現されたのです。

さらにもっと具体的な表現をしておられる箇所があります。

本当に恐ろしくてたまらず、
何とか辞退しようとして、
私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました
(同63ページ)

イエス様の服の裾をつかんで
というところは、実感のこもった表現です。
現実に体験しておられるがゆえに
このように書き記されているのです。

ひいおじいちゃんの姿、そしてイエス様との出会い、
さらに多くの霊的体験を積み重ねながら至った結論が、
霊魂・霊界は、実在するのであり、
死は霊界に対する出発である

ということなのでありました。

人は亡くなって、永遠の眠りにつくのではなく、
霊界に行って永世するという、永遠の人生観を
文先生は、身をもって体験された土台で
私たちに、はっきりと示してくださっています。

では、地上において、
私たちはどのような生き方をすればいいのでしょうか。
また次の機会にお話したいと思います。


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posted by ten1ko2 at 09:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

チャンスの神様の前髪をつかむためには?


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☆ハワイに来られている文先生ご夫妻☆


責任者の方が、ある集会でこんな昔話を話しておられました。
おそらく、韓国の物語だと思います。

ある大金持ちがいました。
たくさんの人を雇っていましたが、
ある日、使用人たちを呼んで、
このように話しました。

「いつもお疲れ様。
ご褒美と言っては何だが、みんなにプレゼントがある。
このわらを配るので、これを使って、縄を作って欲しい。」

使用人は各々縄を作り始めました。
ある者は、ただ単に縄を作ればいいと
ものすごく太くかつ短い縄を作りました。
太く作ったのですぐに作り終えてしまいました。

また、ある者は、長い時間をかけて縄を作りました。
その縄は、細くかつとても長い縄になりました。

時間が経って、大金持ちの主人が現れました。
何を持ってきたのでしょうか。
コインをたくさん持ってきたのです。
そのコインには、穴が開いていました。

大金持ちの主人はこういったそうです。
「お前たちがつくった縄にコインを通しなさい。
通した分だけ、家に持って帰りなさい」

したがって、細く長い縄を作った使用人は
たくさんのお金をもらうことが出来、
太い縄を作った者は、
ひとつのコインも持ち帰ることが出来ませんでした。


今の時がどれほど重要か、
そのことが本当に分かれば、人は知恵を使うんだ。
チャンスは今であり、
天運をつかまえれば、福が来るんだ。
そのことを強調しておられました。
2013年1月13日という時がどれほど重要か、
知恵がある人は、わかるんだ。
太い縄をつくって、どじょうのように逃げる人には、
そのことがわからないんだ。

そんな話をされていました。



「チャンスの神様には、前髪しかない」
と聞いたことがあります。
神様が来たときに、髪の毛をつかまないと
チャンスをつかむことが出来ない、
「神様が来た」と思って、あとからつかもうとすると
後ろには髪の毛がない、はげ頭の神様なので、
つかむことが出来ない、というのです。

精誠が必要だということでしょう。
心をこめて今こそ誠を尽くす時なのです。
精誠がなければ、恵みのコインを多く受け留めることはできないし
神様が知らせる天運を知ることができず
髪の毛をつかむことができないのです。

また、神様から見たとき、私たちはどんな存在でしょうか。
わらを与えた、貴重な人材ではないのでしょうか。

東日本大震災で、サプライチェーン(供給網)が寸断され、
様々な生産品がストップしたといいます。
自動車の製造ラインにおいても、
ものすごく小さな部品を作る工場が東北地方にしかなかったので、
それが原因となって、自動車を作れなかったと聞きました。

ちっぽけな部品がどれほど重要か、
そのことを思い知らされたといいます。

私のような者でも、今の時にこうして生かされているのだから、
こんなちっぽけな私であったとしても、神様から見るならば、
どれだけ価値のある存在であるかということなのだと思います。


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posted by ten1ko2 at 09:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする