2011年06月10日

「今日は必ず一匹の供え物を捧げなければならない」濁った世界に澄んだ水を注ぐ文先生の姿


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☆麗水で釣りをされる文先生☆


ラスベガスについて詳しく語ってくださった本部の先生が、
ご自身の証しをしてくださいました。


学生の頃に、叔父さんを通して、統一教会に導かれたそうです。
原理の素晴しさに、あまりにも感動しました。
あまりにもあまりにも感動して、原理が素晴しいから、
教会の人もきっと素晴しいだろうと思っていたら、
ちょっと違うぞ、と思わされたそうです。
教えは素晴らしいのに、そこにいる人たちが、
何だか自分よりも人格的に問題があるのではないか、
学生の自分から見て、そうなのだからこれはおかしい。
そう思って、叔父さんに問いただしました。

叔父さんは、コップの例えをしたそうです。

コップに濁った泥の水が入っている、
その濁り方が人によって違うんだ。
ある人はものすごく濁っている。
別の人の濁り方は、それほどでもない。
濁った水を綺麗にするために、コップに澄んだ水を入れていく。
ものすごく濁っている水を綺麗にするには、
澄んだ水をたくさん入れなければならない。
少ししか濁っていない水は、すぐに綺麗になる。
だから、水が濁っていても、
その水は最初ものすごく濁っていたので、
それでも綺麗になったんだ。
だから、その人の生き方、背景的なものによって、
ものすごく汚い水だった人がいるのかも知れない。
自分から見て汚いと思っても、
それでもその人は綺麗になっているんだ。
人の心が綺麗であるとか、汚いとか批判するよりも、
まず自分の心をいかに綺麗にするか
そのことの方がもっと大事なんだ。

そういわれて、人と比較をすることがなくなり、
人に躓くということが一切無くなったと言っておられました。



堕落人間は、人を非難し、批判することが本当に得意です。
また、相手の欠点を見つけて優越感を持ったりします。
しかし、そんなことに関心を持つよりも、
何よりも私がいかに清まるかそのことに
精一杯の関心と努力を傾けないといけないというのです。

そして、文先生が何故、訓読会を毎日何時間もされるのか、
それは、この世界を清めるためであると語られました。
濁った水を綺麗にするために、澄んだ水を入れていく姿、
すなわち、み言葉を訓読し続ける姿があるのだというのです。

世界会長のツイッターによれば、
文先生は、昨日、麗水(ヨス)の地で12時間訓読をされました。
そして、天正宮に帰られる予定でしたが、
「今日は必ず一匹の供え物を捧げなければならない」
と語られ、海に出ていかれたそうです。

訓読と釣りを通して、精誠を捧げられる先生の姿。
その心がまた少しわかったような気がします。

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posted by ten1ko2 at 07:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする