2013年05月22日

分かっているようで知らないアベル・カインの原則! (信仰生活のポイント)より


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先日の研修会で
『信仰生活のポイント』を
話してくださいましたが、
今回は、『サタンの誘惑と攻撃の窓口』
そのうちの一つとして、「アベルカイン」を紹介します。


アベルカインというのは、原則ですが、
以外にわかっていない人が多いと思います。

中心とひとつになるということなのです。
そこから霊的な生命がくるのです。

証しを紹介します。
ずいぶん昔韓国に行ったときのこと。
未熟ながら幹部の先輩方と同席をして、
お父様のみ言を拝聴しました。

そのとき、当時の久保木会長に
お父様はものすごく大きな声で、
「久保木!」
そして、こてんぱに怒って
もうぼろくそにいろんなことを言われました。
他の幹部の先生方にも同じでした。

なんていいますか、
人間の常識を超えて、叱っておられたんですね。

聞いている私たちの方が、
「そこまでも言わなくても」という思いになるわけです。
あえて、そういう同情心が沸くように
叱られたのだと思います。

お父様は個人的に注意をしないんです。
公衆の面前で、ぶった切ります。
10のうち、9くらいは切りますね。

皆さん、お父様の前で完璧な者がいるでしょうか。
責任者はみんな足りないので叱られるしかないです。

ところが、そのあと、どうするのでしょうか。
ほめ始めるんです。
「この分野においては、こいつしかいない。
こういういいところがあるんだ。
だからひとつになるんだよ」
そのように語られます。


まさに、芸術的なお父様なのです。
お父様の荒治療と言ってもいいのではないでしょうか。

皆さん、カインアベルのみ言は
相手を裁く剣として使ってはいけないのです。

私たちは、み言をもって、自分を正当化してしまいます。
み言を、アベルに向かって攻撃の武器として使ってしまうのです。

「アベルはこうあるべきだ、そう書いてあります」
なんて、アベルに向かってみ言を提示してしまいます。

逆に、アベルはカインに対して 
「あなたたちは間違っている。
カインはこうあるべきだ。
絶対従順!」

そのようにして、
み言を利用して相手を裁いてしまうのです。

み言は人を裁くためにあるのでしょうか。
違います。
私自身のためにあるのです。

だから、アベルとして、カインとして
自分がどうあるべきかということを
正すためのみ言なのです。

カインもアベルも完璧ではありません。
両者に原因があるのではないでしょうか。
ともに悔い改める必要があるのだと思います。

だから、み言で相手をせめても
何の発展もないのだと思います。

父母の心情で相手を見つめる。
そのためにみ言が必要なのです。



み言は愛であり
生命であると思います。

でも用い方一つで、
相手を裁く武器になってしまいます。

私のためのみ言である、
そのことをもう一度
胸に刻んでいきたいと思います。

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お父様のみ言

カインはアベルを通さずに、
み旨の道を歩むことができない。


アベルを立てた理由は
カインを救うためである。
カインを救うためには、
神様から受けたその愛を全部与えると同時に
自分の愛までも合わせて与えなければならない。


生活する中においてカイン、アベルを分別しなさい。
ぶつぶつ言えばカインである。
アベルを中心として団結しなければならない。


御旨の道より
(相手を裁くためではなく、
自分のためのみ言として
受け止めて頂ければと思います。)


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posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする