2016年10月12日

どこにいても祈りはできる?! 寝ても起きまた祈る生活、お父様の祈祷とは?! 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「神に仕える者の祈り」を紹介します。


皆さん、人によって静かな所でお祈りができる人もあれば、
動きながら働きながらお祈りをする人もいます。

人によって色々違うだろうと思います。
動きながらお祈りする人もいれば、
目をつむっては何もできないから、
目を開けてお祈りする人もいるのです。

では皆さんの中で、決まった静かな所で
お祈りがよくできる人は手を挙げてください。
大部分ですね。

そういう所ではなかなかお祈りができず、
仕事をしながらの方がよくできる人はいますか。
少ないですね。

また祈り始めたら終わりまで祈りがきちんとできる人と、
途中で切れる人、長い人と短い人がいます。

その次、お祈りがよくできる人と瞑想がよくできる人もいます。
お祈りをするとき、涙が出るときと出ないときと、どっちが多いのですか。


先生は、御存じのとおり、
ある問題を解決するために、まずお祈りをされます。

先生はすべてを行いながら、
同時にお祈りも兼ねておられるということを分かってほしいと思います。

また、先生は時々過激な運動をしながらお祈りをされると、
お母様からお聞きしました。

お祈りをしようとすると、眠りが来てできないときがあります。
そういうときには、かえって動くことがいいのです。

お祈りといったら、ある所を決めて、
そこでお祈りするのがお祈りだと考えている人がいるかもしれませんけれども、
女の人でしたら、台所で働きながらお祈りすることもできれば、
バスの中でもできるし、どこでもできるのです。


皆さんは、十二時に寝て六時に起きるとしたら、
十二時から六時までぶっ通して寝ます。
十二時に寝て、途中で起きてお祈りするということはなかなかしません。

先生は、「寝る前神様に、
『私にはまだなさなければならない復帰の摂理が多くあるにもかかわらず、
これから休まなければなりません。このような私をお許しください』
とお祈りして休む」とおっしゃいました。

先生はいつでも、「これから寝るんだ」という心では寝られないのです。
また、寝ていても安らかではないのです。
寝ていても、パッと起きてまたお祈りをされます。
そうしていつの間にか寝てしまうのです。

先生は、お祈りしているのに寝ているのです。
疲れておられますから、お祈りしようとすると、
霊界は先生を寝かせてあげるというのです。


子供が勉強していて、疲れて机の上で寝ているのを
親が見たらどうしてあげますか。

子供を抱いて、ベッドの上に寝かせてあげます。
そのとき、勉強を熱心にしていて寝てしまった子供を、
ベッドに寝かせる親の心はどんなでしょうか。

「我が子は偉い。
立派になるんだ。
だから私が保護してあげなければいけないなあ」
という心が出てくるのです。

神が先生を寝かせてあげるとき、
その気持ちはそれと同じなのです。


「これから私は眠る」と思って寝る時には、
ぐっすり眠ることができますけれども、
「寝る時間ではない」と思った時には、
とても短い眠りになります。

ですから先生は何回も起きてはお祈りして、
また寝て、起きて、寝てという生活をなさるのです。
それは、「私は寝てはいけない」という心でいっぱいだからです。

ですから先生は寝巻きにすっかり着替えて寝るということがないのです。
上着を脱いで、そのままベッドの上で寝ることがよくあるのです。


私は、最初先生からみ言を聞いて恵みを受けていた時は、
なかなかお祈りができませんでした。
どのようにお祈りしてよいのか分かりませんでした。

ただみ言に感動した時から、
家に帰ったり、学校へ行ったり、教会に行ったりする中で、
いつもみ言が私の心から離れませんでした。

それで歩きながら動きながらお祈りしました。
心情に触れて泣きながら歩きました。
自分の事務所の机で仕事をしながらも、祈ることができました。

しかし大勢の人たちが、教会で徹夜しながらお祈りしていました。
私はどうしてお祈りができないのだろう、と疑ったことがあります。

ある時、「動きながら祈るのも祈りだ」
と言われて、非常に安心しました。


ですから忙しい時には、神は
「お前はトイレに入っても祈るつもりだね。
それでも汚くないよ。
私はお前がこういう所でお祈りするのが気持ちいいんだ」
と言われるのではないかと思います。

私はよくバスの中でお祈りします。
トイレに座ってもよく祈ります。
考える時間があるからです。
歩きながらもよく祈れます。

私自身はいつもこんなことを考えるのです。
バスの中でよく「私の誓い」を宣誓しますけれども、
その時、たくさんの人たちがこのバスを使ったでしょうが、
いったい誰が「私の誓い」を宣誓しただろうかと考えるのです。

ハイドパークに行くとベンチがあります。
このベンチに座って宣誓する時には、
「今までに、ここでこういうお祈りをした人が何人いただろうか」
と考えながらするのです。

そうしたら神が喜んでお祈りを聞いてくれますから、
このベンチも喜んでくれるだろうと考えます。


先生は、時々山に登ると、岩にお座りになってお祈りされます。
するとその岩が本当に喜んでいるのを感ずると言われます。

というのは、たくさんの人たちが山に登ってきて、
たまには自分の上に座ってくれた、
しかし、その人たちは真の人でなかったから喜べなかった、というのです。

万物は真の人に主管されるのを願いますから。
ですから先生が座ってくれたことによって、
岩がこの世に存在して以来、これはどの栄光の日はないというのです。



実は、天の願いに対して、自分の足りなさゆえに
申し訳ない結果になり、
少し落ち込んでいたところでした。。。

「こういう時は、金元弼先生に限る」
そう思って、検索したらこのみ言に出会いました。

祈りが重要である、
どんな時にも祈らないといけないな。
そんなことを思いつつ、
祈りながら帰りましたが、
いつの間にか、別のことに思いを巡らせ、
気持ちが元に戻りました。

信仰生活の三大要素は、
祈り・み言・実践です。
特に祈りは「霊的40%」と言われるくらいに、
一番重要だと思います。

先日、食口たちにどれだけ祈っているか聞いてみました。
少ししか祈っていない人、5分から10分くらい祈っている人、
残念ながら、その人たちが大多数でした。。。

30分から1時間くらい祈っている人が数名、
そして、1日の10分の1、すなわち、2時間24分(144分)
祈っている人は誰もいませんでした。。。

お父様のような切実な深刻な祈り、
それだけの深刻さが足りない自身を悔い改めつつ、
祈りのある教会を目指して、
どんな時にも祈りを捧げる者に
なっていかないといけないと感じます。



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