2017年03月08日

真の父母の『み言』と『実体』、どちらが先か?! 〜お母様の姿を見れば、すべてが解ける



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お父様が解かれた原理、真の父母様が語られるみ言は
とても貴重なものです。
それでは、その『み言』と、
真の父母がおられること、そしてその『実体』は
どちらがより貴重でしょうか。

先日の徳野会長の特別礼拝と
教会長の月曜礼拝でのみ言を参考に、
『実体』と『み言』に関して、まとめたものです。


お父様が聖和される前に遺言のように語られたみ言に
『天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会』があります。
その中のみ言です。


み言が先でしょうか、実体が先でしょうか。

今日の宗教では、実体に関することには
確信をもつことができず、
教えを重要視するので、
実体と教えが一体になるというのは、
本当に難しいことです。

統一教会では、み言が先ではありません。
実体があって、その実体が行った事実を
み言で証するので、
内外が一致し得る内容を知ることができるというのです。

今まで、宗教界や学問世界において
真理を探究するに当たって、
問題となっていた焦点を解決するために、
実体み言宣布大会が始まったのです。
(真の父母経1486ページ5)



み言ではなく、実体が先なのです。
この世の多くの宗教は、素晴らしい教えがあっても、
実体がないのだと言います。


わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、
父のみもとに行くことはできない
(ヨハネによる福音書第14章6節)


イエス様も、そのように語られています。
ですから、『実体が先』なのです。


もちろん、み言も貴いものです。

創世記第一章に、このようにあります。


初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとして
これによらないものはなかった。




しかし、イエス様においても、そのみ言の解釈の違いにより、
同じキリスト教であっても、多くの宗派に分かれてしまいました。

真の御父母様の語られたみ言も、
もちろん貴いものでありますが、
御父母様がどのような心情で語られたのか、
その心情・動機を見つめていかないと
間違った解釈になりかねません。


分かりやすい例をあげれば、
私は二度、拉致監禁を受けましたが、
その際、反対派の牧師が扱ったのは、
真の父母様のみ言です。
二度とも、原理講論と聖書を土台として、
一つ一つ、彼らが主張するところの矛盾点、疑問点を
『勉強』していきました。

しかし、お父様がどんな思いでこのみ言を解明し、
どれだけの苦難を越えて、勝ち取られたのか、
その深い世界には全く触れなかったのです。
まぁ、当然と言えば当然ですが。。。

み言はたった一つものですが、
語った方の心情を求めて悟るのでなく、
自分を動機として判断すると
正反対の解釈になり兼ねないのです。

現在、様々な分派活動がありますが、
彼らの最大の特徴の一つは、
み言の解釈でいろいろ批判しますが、
実体の真の父母(お母様)には、
絶対に会おうとしない、ということだといいます。

真の御子女様なら、
お母様にお会いできないはずはないそうです。
あれこれ事情を言って「会えない」ということは、
全くないのです。
ただ、会おうとしないだけなのです。。。

お母様に会えば、み言を体恤されているのですから、
すべてが解かれていくといいます。


あらためて、み言の実体である、
真の御父母様に侍るということ。
このことを何より優先していかないといけないと思います。

2020年に向かって歩む、最後のこの時が、
何よりも重要であると思うのです。。。





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posted by ten1ko2 at 07:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする