2017年04月21日

(証し) 認知症の姑に仕えた5年間、非協力的な夫が変わった理由(わけ)?!



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今日は伝道の証しを紹介します。


私は、主人と舅、姑そして子供3人の7人家族で暮らしていました。
当時、主人は残業するのが常で、いつも帰宅は深夜。
家の事はほとんど私がやりました。

主人が単身赴任した時には、
反抗期だった子供達と
どの様に向き合うべきか酷く悩んだり、
また同居中の舅との考え方の相違もあるなど、
自分一人でいつも気を揉んでいるような状態に。

そのような中で、姑が認知症となり
介護することになったのです。


姑の認知症は、次第に悪化していきました。

姑は愛煙家だったため、他人が喫煙している
タバコを奪って吸おうとしたり、
毎朝5時になるとトイレを水浸しにして、
「トイレの人〜、トイレの人〜」と大声で私を呼びました。

また夜になると毎晩タンスから自分の洋服を取り出して、
風呂敷に包んで玄関から出ていこうとするのです。
この他にも色々な事があり、
私は心身共に疲弊して体調を崩し、
やがて自律神経や甲状腺の異常も見つかり、
頻繁に病院に通いました。

そして遂には、ご飯を食べた終わったばかりなのに
また欲しがる姑に対し、
「何でこんな事ぐらい分からないの〜。
私の方が先にどうかなってしまうわ〜」と不満を爆発させ、
本当に酷い言葉を姑に投げかけることもありました。

その後は本当に申し訳なく悲しい思いになりましたが、
私以外に姑をみる人もおらず、
「とにかく1日でも良いから、
私の視野から消えてほしい」とまで思ったこともありました。


私がこんな状態でも、主人は仕事が忙しく、
ほとんど手伝ってくれませんでした。
恐らく、認知症となってしまった自分の母親の姿、
特に私が姑のオムツを替えている
ところなどを見たくなかったのだと思います。

それでも、姑をお風呂に入れてあげた時のこと、
母親を見つめる子供のように
本当に嬉しそうな顔で私を見つめる姑に私も嬉しくなり、
「おばあちゃん、ごめんね!」と心の中で謝罪すると、
姑が愛おしくなっていきました。

認知症の姑を5年間、介護し続けました。
最後は、家族のことすらも分からなくなってしまった姑ですが、
私には「ありがとうね!」と労ってくれた様に感じました。
今思うと、姑には本当に申し訳なかったと思っています。


その後私は、息子たちの幸せな結婚を願い、
知人に誘われ講演会に参加したことがきっかけで、
教会に導かれました。

講演会の内容はよく分からなかったのですが、
和動の時間に親身になり話を聞いて下さるスタッフや、
幸せになる為の学びがとても良いと感じ、
自分自身をもう一度見つめ直す機会が出来ました。

実は私たちは一見すると
仲が良い夫婦のように振る舞っていましたが、
実はそうでもありませんでした。
私は主人を心から愛することができず、
何故か素直になれなかったのです。

しかし、ここで学ぶうちに、
原因は全て私自身の心の持ち方であることに気付き、
その後は主人や子供たちへの見つめ方や
心の姿勢に変化が起こるようになりました。


このように認知症の姑の介護と教会での学びを通じて、
私たち夫婦は、お互いを認め合い、
素直に感謝するようになりました。

そして夫婦の心が本当に一つになることにより、
子供たちの幸せにも繋がることを知りました。

今では主人も協力的になり、祝福を受けて共に学んでいます。
認知症の姑と生活を共にできたこと、
そしてこの道に出会ったことに今はとても感謝しています。
ありがとうございました。



素晴らしい証ですね。

み言に出会う前にも
認知症のお義母さんに
一生懸命尽くしてこられた土台があり、
もともと本質的な方だったのかもしれませんが
み言を通して、すべてが整理され、
そのことでご主人も導かれたのだと思います。

真の家庭、幸せな家庭を実現できるのは、
私たち家庭連合である、
そのことを堂々と自信をもって証ししつつ、
多くの人を導いていきたいと思います。



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2017年04月20日

自分ではなく、神の目で見る生活で、霊的感性が育つ?!  《金元弼先生の信仰サプリ》



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神様を感じたい!
霊的な感性を身に着けたい!
そのためにはどうしたらいいでしょうか。

それは、神様に一番通じる人に倣えばいいのですが、
お父様は、一人の偉大なメシヤというだけでなく、
真の父母、まさしく親でした。

金元弼先生の信仰サプリ
『メシヤと霊界』最終回です。


私達は、この教会に入会した日を考えながら
「ああこの日が教会へ入った日として自分自から祝うのではなく、
神が私を入会させる為に苦労なさったその苦労が
一段落して実を結んだ日として記念すべきではないか」
ということを考えていく時、
メシアに対する霊感というものが非常にするどく
敏感に私達に移ってくれるだろうと思います。

いつも私を中心としないで神を中心として考える考え方、
父母を中心とする考え力によって
神に対する霊感というものが鋭敏になっていくと思います。
幻とか霊の体験が霊感が開けていくのではないと思います。

神を中心とした心構えでみつめていくとするならば、
霊能者達は、見たり、聞いたり、話したりはするのですが、
私達は、その心の奥底を知ることができるのです。
霊的体験がないからといって心落とすことがないように。


人間の堕落というのは、神を中心として、
自分を一致させることができなかったのがはじまりです。
神が人間を創造する時、どのようにして創造したのだろう。

親が子供をお腹に持つのです。
お腹の子供は自分というものがあっては絶対に生きていけないのです。
親が食べたものをそのまま食べて、
親が考えたものをそのまま受けるのです。
少しでも親に反対すれば生まれて来ないのです。

完成の基準が成り立つまでには、
神のみ言の通りに神と一致したものでなければならない。
人間の5%は自分を立たさないということです。
神を先に立たせるのです。

お腹の子供は人間にたとえたのです。
親が動いても、止まっても同じくするのです。
人間は神を中心として通過しなければならなかったのであります。


なぜ神は自分というものを先に立たせるのが嫌かと云えば、
それは主体を中心とした対象になることによって
第二の主体として成り立たせようとしたからであります。

それが神の創造性を受けついだ、
神の創造のみ業に一致した権威を与えようとするのです。
ところがここに私というものがいたというのです。


堕落しない親を中心として一致しなければならない。
完全なる親というものはない。 
神が完全なる人として送ったのはメシアである。
又、メシアは私達にとって完全なる親として立ったのです。

ですから私達は親の言葉に絶対に服従して
一つになっていかなければならない。
初めから神に一致して歩んでいかなければならなかった人間であります。
神を中心とした私に帰るというお話です。



神様を動機とし、
神様を中心とする生活。

金元弼先生ご自身も
そのような生活を送ることに
生涯をかけて歩んでこられたので、
その重要性を感じられているのだと思います。

『私』の思いではなく、
神様を先立たせていきたいです。





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2017年04月19日

(証し) 誕生日の盛大なお祝い、お父様はどうされたのか?! 《金元弼先生の信仰サプリ》



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今年の御聖誕日、真のお母様は
お父様との最初のお食事を思い出されながら、
お手紙を添えた「食膳分かち合い祝祭」として
その場の全員に同じ昼食を配られました。*

草創期、ご父母様のお食事がどんなだったのか、
また誕生日はどのようにお祝いされたのでしょうか。
あるお誕生日にまつわるエピソードです。

金元弼先生の信仰サプリ
昨日の続編です。


1960年迄は、先生はいつも食卓なしで
床の上に直接お盆をおいておあがりになり、
1960年になってから初めて食卓でおあがりになったのです。

先生の誕生日なども、天は非常にメシアを愛するからこそ、
盛大にやってくれるのを願うのです。
親が愛する子女の為に盛大にやってあげたいのは当然でしょう。


しかし先生は、神のみ言をきかない時がある訳です。

先生は、「私の誕生日の為に何か準備しているんだろう。
そのお金を全部集めなさい」集めさせて、神に向かって
「今、こういう時期にありまして、
あなたはこういう願いがあるのではないでしょうか」 

たとえていえば、今地方には、たくさんの教会がある。
ところが車がないから、いちいち歩きながら伝道しなければならない。
地区長はバスにのったり、歩いたりしながら
兄弟達を見守って上げなければならないから、
あなたの摂理を進めるのに非常に遅い。
早く世の中の人にみ言を伝えんが為に機動力が必要である。

だから私の誕生日を盛大にやってくれるのもありがたいけれども、
このお金で車を買うのは如何でしょうか。
そして車を買った。


神のみ言を行わなかったけれども神は、おこらないというのです。
親が愛する子供の為にたくさんのお金を惜しまず使おうとした場合に、
その子供が、そのお金を使わないで私に下さい。

そのお金を親が喜ぶことのために使ったとするならば
その親は親不孝者だとして叱りつけるだろうか。
それともそういう心遣いの子供をみて
涙ぐましく感じるだろうかということと同じです。


10月14日は先生が興南の刑務所から自由の身として
釈放されたその日を記念する為に式典を行うことがあります。

「今度の14日の式典はどのようにしましょうか? 
教会内でしましょうか? 
野外にしましょうか?」と伺ったら、
先生は、「今年までは守らなければいけないよ」と言われたのです。

先生にしたら、非常に思い出深い日である訳です。
私達としても先がこの日を勝利して
自由の身とならなかったならば
私がこのような立場にはならなかっただろうということを考える時に、
非常にこの日が尊い日であることを考えざるを得ない訳です。

ところが先生は、私が釈放された記念すべき日だという、
そういう記念の日として守るのではなく、
そういう危ない境地の中にありながらも、
私をこのようにして見守って下さった
神の愛を記念するべき日だと考えられるのです。


たとえば世の中でも、非常に難かしい学校に
入学した記念すべき日が巡って来ると、
私が合格した喜ばしい記念の日だと考えがちであります。

しかし、私にこういうような感激の日を迎えさせんが為に、
陰に陽に親が苦労されて来たその期間が
実を結んだ日であるということを考える人があるとしたならば、
その日はいい加減に迎えられないのです。
親の苦労をしのぶ日として守らねばならない記念の日です。


もし先生が、自由の身として釈放された
記念すべき日として判断されたとするならば、
今年まではこの日を守らなければならないんだ
ということを言わなかったであろうと思います。

ところが先生がこの日を記念しなければならないということは、
私を自由の身として守ってくれた神の愛を記念すべき日だ
と考えて来だからこそこの日を大事な日として
記念してきたことがわかる訳であります。

こういう心がけというものは、
神が幻に現れて教えてあげるよりも、
もっと貴重な教えだと思います。



神様を愛する真のお父様ならではの、
貴重なエピソードですね。。。

信仰初期のころ、自分の誕生日には断食をしたのを思い出しました。
お父様が若い頃、そのように過ごされたからと聞きました。

また、イエス様の33歳の苦労の生涯を思い、
3年の公生涯を越えるということだったか、
4年間は3数の献金を納めました。

今でこそ、御聖誕祭を盛大に祝うようになりましたし、
私たちも、自分の誕生日にケーキやプレゼントなど頂くようになりましたが、
長い期間、お父様、お母様が、苦労してこられた
そして、勝利してこられたそのゆえであると
心から感謝します。

自分のこと以上に食口を愛するがゆえに、
ご自身の誕生日も祝うことなく、
食口のために尽くしていかれたお父様。

また何より、神様の真の願いを優先して
み旨成就のために
犠牲を犠牲とも思われないかのように
率先していかれたお父様。

今は、霊界において、
神様とともに、お母様に対して、
そして、お母様に侍る者たちに対して、
全面的な協助をされる
真のお父様であるに違いありません。。。

もう一回続きます。
*「食膳分かち合い祝祭」については、↓こちらをどうぞ
感動、お母様から手紙が?!食事に添えられた真の母の愛!




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