李ヨハネ先生のみ言、今回は、
『み旨をやりながら病気を治すべきか、
それとも治してからみ旨に励むべきでしょうか?』
という質問に対しての回答です。
☆
それは、本人がどうしたがるかによって、決まるものです。
本人の信仰があるかによるのであって、こちらは要求してはなりません。
み旨に徹しながら、自分の弱さを精神力で克服できる人と、
弱いところを中心として自分の時間をもちたい人との二通りあるのです。
み旨に徹し、公的な仕事を離れずにやる場合、
あまり無理をさせてはいけません。
無理をさせて、強制的にやらせると精神的に疲れてしまいますから。
そういう人には、専門的に病気を治す人、全力をかけて尽くす人を
一人つけてあげるとかしたほうがいいです。
その人自身の精神では、闘えない場合が多いのです。
一人を専門的につけ、祈祷しながら、精神的に協助しながら、
その人も自分の病気だと思って治してあげることです。
☆
とにかく、病気は、恵まれる転換期です。
しかし、なぜ病気になるのか。
それは、今までの生活をそのまま繰り返しているから病気になるのです。
これは当然の原則です。
生活に刺激がある人は、絶対に病気にはならない!
刺激がなく、毎日同じ生活を繰り返し、
それがあきてきて病気になっていくのです。
そして精神的に疲れ、仕事に張り合いがなくなって、
恵みも来なくなり、肉体に侵入してくるようになるのです。
病気になるというのは、
同じ基準にいて霊的に成長しないからです。
肉体はどんどん年を取っていくのですが、
魂が成長していないのです。
☆
献身する場合、魂を動機として献身したのです。
しかし結果は、肉体の仕事しかない。
だから一般の職人と同じになってしまうのです。
世間の人と同じだ。
統一教会の青年は、そういう人が多い。
外的な病気は、必ず精神から始まります。
それは原理です。
☆
李相軒先生は医者でも、病気になった人を
「病気は精神的に乱れているからだ。
それは基準が下がったからだ。
それを回復せよ」と言います。(笑い)
だから、病気になった人は、まず悔い改めなさい。
悟るべき内容があるはずです。
自分の動機を探って、自分がどういう立場にあるか、
その価値をもう一度探ってみるべきです。
☆
仕事に追われて価値を知らない人が多いのです。
いくら忙しくても自分を誇るべき中心をもたなければなりません。
どんな労働をしても、惨めな仕事をしても、
どういう動機で今いるのか、何のために暮らしているのか、
目的観を知らなければならないのです。
それを誇りながら暮らすことが、霊人体の要求なのです。
霊人体を育てないと力は出てこないのです。
霊人体に力を与えるには、自分の価値を知ることです。
それは自分の責任です。
☆
永遠なる自分だという内的基準をもつということは、
神から愛を与えられるようになることです。
み言をどれだけ誇るか、
神はその基準によって私を主管するようになるのです。
なぜ、祈祷するのか、主管する条件となるからです。
その条件がサタンが侵入できない条件となってくるのです。
神様を誇りながら暮らすことです。
☆
李ヨハネ先生は、お医者さんでもあります。
そういう意味では、この回答には
説得力があるのではないでしょうか。
それにしても、
「病気になった人は、まず悔い改めなさい」
というのは、厳しいみ言ですね。。。
私もちょっとした持病(というか怪我の後遺症)があり、
実は、今、調子があまり良くないのです。
そういう時には、何もしたくなくなるというか、
細かいことは、どうでも良くなってしまいます。
また、調子がいい時にはあまり思わないのですが、
「健康はありがたいなぁ」
そのように思うものですね。
霊的にもさらに健康にならないといけないな、
そう思いつつ、み言をかみしめたいと思います。
ヨハネ先生の回答が長いので、
明日も続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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