今は勝利され、かつては秘義だったみ言も語られている
ご父母様ですが、そうではなかった長い期間がありました。
李ヨハネ*先生が、1977年に語られたみ言より
「み言をすべては語れない先生」という内容を
ご紹介します。
☆
文先生もこの地上に来られて、アベル・カインの関係を中心として、
サタンを屈伏しなければならない原則により、
「真の家庭が現れなければならない」と言われただけで、
これまですべてのみ言は語ることはできませんでした。
先生は、比喩と象徴で記録されている
なぞなぞのような聖書を解明されました。
☆
イエス様も2000年前に来られましたが、
独身で歩みながら、語りたいみ言のすべては
話すことができませんでした。
み言を受け入れることのできる対象がいなかったため、
自分が新郎として来て新婦を探し、
家庭を成さなければならないというみ言は
親しく語ることができませんでした。
その内容を神様は黙示録に啓示しておきましたが、
それが何のことなのか分かりませんでした。
イエス様が家庭を成さなければならない事実を知らず、
何か別の比喩とだけ思っていました。
☆
既成教会では、人間が堕落したのも神のみ意であるといいます。
また、イエス様を世に送り、十字架で亡くなるようにすることで、
イエス様の十字架を通してのみ、
救いを受けるようにしたのも神のみ意だというのです。
彼らは、男女が夫婦となり子供を生むことを恥ずかしく思います。
ですから、牧師たちの家庭生活は肩身の狭いものだと思うのです。
牧師たちは「自分に勝つことができなかったなら、
一人の妻を定めてキリストの福音を伝えるのが、
清くはないが、罪を犯すよりましだ」(コリントT7章)
と言ったパウロの言葉によって結婚するようになったのです。
キリスト教の核心は結局、父と子と聖霊の名で
ひとり子であるイエス・キリストを救世主として
信じさえすれば救いを受ける、ということです。
☆
文先生は、人間始祖が堕落しなかったなら
すべて神の息子、娘なので、すべての人間が
イエスと同じ立場だと話されました。
ですからイエスを信じるすべての信仰者たちは、
イエス様に似てロゴスの実体とならなければならず、
そのような個体を夫婦として祝福しようとするのが、
神がアダムの時からなそうとされたみ旨であった、
と先生が明らかにされました。
このみ言は、
イエス様が来られた時には明らかにできなかった内容です。
ですからみ言を完成した子女たちが現れる日には、
先生は父として語るべきみ言が多いというのです。
☆
先生は、今も語るべきみ言のすべては語れずにおられます。
対象がいないのにどうやって語りますか?
皆さんは心が通じない人に自分の事情を話すことができますか?
お母さんが小学校に通う息子に
家計のやりくりを相談することができますか?
お金をくれと泣けば、隣の家から
借りてでもあげなければならないのであって、
家の借金がいくらだという事情をどうして話せるでしょうか?
父母が子供を育てながらも、父母の立場や事情を話せないように、
先生も私たちを訪ねてきて聖書を解明してくださいましたが、
天上世界のすべての内容は語ることはできなかったと思います。
また聖書の中のアブラハムやモーセ、イエス様の話はされても、
先生が神から与えられた深い内容は、今も語れずにおられのです。
女性の行く道 1977年10月20日 中央修練所
☆
このみ言を語られたのが、1977年ですから、
真の父母様が再臨主であることを
公式的にはまだ発表していない時ですね。
そして、イエス様の路程も
まだ詳細が語られていなかった時でもありました。
特にキリスト教の人たちには理解できないような、
そんな時代もありました。
しかし、今は真の父母様の勝利圏により、
すべてのみ言を受けることができる、
そのような恩恵の中に私たちは生活しています。
あまりにも当たり前のように受けるみ言も、
その背後には、真の父母様の深い事情があること、
精誠の土台の上で語られていること、
そのことを忘れてはいけないと思うのです。
続きます。
*李ヨハネ先生のお名前について:
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、シリーズとなった《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》で紹介するに当たり、
親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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