2017年07月21日

信仰基台と実体基台を生活に適用する?! 自分を中心にイエス様に従った人々 《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言もずいぶん長くなってきました。。。
ただ、私たちが神様を中心に、
いかに原理的に生活していくことができるか、
わかりやすくアドバイスしてくださるので、
とても感謝です。

今日は、『み旨に拠る生活』の後編です。



イエス様に従っていった弟子たちは、
自分を中心としてイエス様に従いました。

ユダヤの国が独立してイエス様が大統領になれば、
自分も長官職を一度やってみようという考えをもっていました。
そうかと思えば、病気の人たちは、
病を治してもらおうとしてイエス様に従っていきました。

結局、イエス様に従っていった人たちの行跡は、
自分を中心とした考えや行為でした。

ではイエス様に拠る人はだれだったのでしょうか?
300デナリの油を注いで慟哭した女性が
本当にイエス様に拠る人でした。
その女性は本当にイエス様中心でした。


今日、私たち教会員や職員がみな
そういう関係で通じることができさえすれば、
礼拝や集会の時に、本当に神が記憶することができ、
またその場にいなくても神に記憶されることができるでしょう。

神のみ旨による家庭、み旨による自分の職場、
み旨による自分の教会など、行く先々で
よく授け受けしていく関係を築くことができれば、
どれほどいいでしょうか?

それが信仰基台であり、実体基台です。
暗やみになるのを食い止める方法です。

私たちは信仰基台とか実体基台という言葉を
今まで何度も聞きながらも、実生活に具体的に適用せず、
あまりにもおろそかにしていました。

この信仰基台、実体基台は、あなた、私の間に
み旨を中心としてよく授け受けすることのできる、
そういう内的な関係を開拓することです。


次に私たちが行く道に必ず出てくることがあるのですが、
それはあなたと私との意見の衝突です。

特に職員である人は、教会の心配を背負うので、
教会長とぶつかることが多いでしょう。
職員から見て教会長があのようにしては
いけないということが分かっていても、
教会長は言うことを聞かないでしょう。

教区長の命令を受けてしていることだといえば、
職員は返す言葉がないでしょう。

話してみた場合でも、かえって一言言葉が過ぎると、
「教会長を取り替えようとしている」とか、
「自分がアベルであってあなたはカインなのに私に従順に従わないのか」
とかいうことが多いので、用心してしまって、
話をしないようになるでしょう。

教会の心配はしながらも、教会の責任者と
見解が異なっている時は、とても苦痛が多いのです。


家庭生活もそうでしょう?

家庭が神のみ旨によるものであってこそ神から福を受けるでしょうに、
妻が神は差しおいて自分の個性や素質を中心として生活するとか、
または夫人は信仰に愛着心があるのに、
夫は自分のやり方で生きていくとかすると、
本当に心が煩わされるのですね。
これが苦痛なのです。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所




教会での人間関係、アベルとの関係における苦痛、
これは「まったくありません」と答えることは
できないのではないでしょうか。

李ヨハネ先生は、
「300デナリの油を注いで慟哭した女性」
この女性が目標である、と語られました。

この女性は、どのような経緯をもって、
イエス様と出会い、その価値を知られたのか、
詳しいことはわかりませんが、
少なくとも自分を動機としていない、
というのは、ヨハネ先生のご指摘の通りだと思います。

神様のみ旨を中心として、
一つになって摂理を進めていく。。。
そのような観点で見つめていく必要があることは、
改めて認識していきたいと思わされます。

本当に長くなってしまいました。
家庭における苦痛の解決法に関しては、
これで最後になると思いますが、
次回(あるいはもう一回)、紹介します。






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2017年07月20日

教会長を喜ばせ、家族を一つにするには── 私の生活がみ旨になる?!   《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、『み旨に拠る生活』です。


神のみ旨は四位基台を造成することであり、創造目的を成すことです。

教会に所属されているなら、教会長の意図をよく知らなければなりません。
教会長の心配や願いが何なのかをよく知らなければなりません。

それをよく知っている人は、職員として教会のみ旨をよく尊ぶ人です。
そうでないなら、その職員は、教会を発展させる位置や、
教会を協助する立場に立ってはいない人です。


家庭でも、家族の意図や事情が一つになり、
家庭の目的が一つになってこそ、神がその家庭に臨むことができるのであって、
みなばらばらに暮らす家庭を、神はどのように助けてあげますか? 

夫人は夫人の思うとおりに、夫は夫のやり方で、
子供は子供で生きていく家庭は駄目です。
それでは信じても信じなくてもうまくいきません。
これは何かの道徳論ではなく、原理がそのようになっているのです。

ですからみ旨による私となろうとするなら、
原理的な思想だけもてばそれでいいのではなく、
教会の中心がだれなのか、その方の心配や願いが何なのか、
そういうことからよく知らなければならないのです。


職員である皆さんが教会の責任者を喜ばせようとするなら、
礼拝時間に早く行くことが一番です。
時間前に参席するほど、教会の責任者を喜ばせることはありません。
焼肉定食をごちそうすることよりいいです。

毎週日曜日にきちんきちんと時間を守ってあげれば、
それこそお父様のようであり、お母様のようであって、
忘れようにも忘れることができないでしょう。
それを分かっていましたか?


皆さんが本当にみ旨による自分になろうとするなら、
教会長の意図を知り、教会長の心配を知り、
教会長がもどかしく思うことをよく知って、
心が教会長と一つにならなければなりません。

そして調子が合ってこそ、生活が合ってこそ、み旨が可能なのです。
そうなってこそみ旨による私の位置を見いだすことができるのです。

原理をいくらよく知っていても、目の前に見える、
もどかしさを抱えている教会の責任者を尊重しないなら、
それは何のみ旨を知っている人だと言えるでしょうか?


皆さんはどのようにみ旨による自分の生活をしようとしましたか? 
「み旨による私」は、まず自分の生活圏内において常に公的であり、
み旨的であり、心がお互い和合することのできる
関係をもって生きなければなりません。

家庭でもそのようにし、教会に来てもそのようにしてみてください。
そういう関係を離れるようになると、私たちの心霊は沈みます。
明らかな道理です。

み旨だといって、原理や先生のみ言だけ頭に覚えておくのではなく、
私たちの生活で実際にみ旨が何かということを
考えることができなければなりません。

「あなた、私」を中心として意志が疎通しなければならないということです。
「あなた、私」を中心として遠慮なく通じ合える私にならねばなりません。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所




『焼肉定食』のたとえはなんとも面白いですね。。。
確かに私も毎週、礼拝の司会を担当し、
また時たま説教をさせていただくことがありますが、
早く礼拝に参加してくださる方にはありがたい思いが湧きますね。

また、何か事情はあるのかもしれませんが、
毎回のように礼拝が始まってから参加される人を見ると、
「しっかりと恩恵を受けてくださいね」と祈らずにはいられません。

相手を喜ばせること、ために生きることが原理の本質ですから、
常に教会長に喜んでいただくように生活することが、
何よりも重要であることを感じます。
そして、自分自身にも恩恵が来るのだと思います。

家族もそうですが、情が近くなればなるほど、
相手に要求したり、相手のマイナス部分が見えて、
そのことを指摘してしまったりします。
しかし、そのことによって、
何の発展もありませんね。
結果的には、『自己満足』に繋がってしまいます。

日々の生活の中においても、
家族や食口たちとどのように接するのか、
それが、『私のみ旨』に連結されていくということだと思います。
日々、努力していきたいですね。。。

続きます。




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2017年07月19日

「あなた」と「私」と「神様」の関係?! 「公的」「私的」の意味?!  《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「『あなたと私の和睦』が神様」です。


(ところで)今日、大部分の宗教は、神は超越した方であり、
絶対的な方として高めておいて、私たち人間は
神の前にさほど問題にならないもののように考えますが、
実は「あなた」、「私」というところから、
神との関係が始められていくのです。

これが統一教会の神観です。
私たちの神は、「あなた、私」の中に、
また心と体が一つになれば臨在されるのです。

ところで、これが本当に難しいのです。
6000年間の問題の種も、これではないですか? 
きのうもお話ししましたが、カイン・アベルの不和関係が、
歴史を延長させた原因です。

カインのアベル殺害事件、ハムとノアの関係、
アブラハムの献祭失敗、イスラエル民族がモーセを恨んだこと、
洗礼ヨハネの失敗など、これらすべてが、
「あなた」、「私」を間違って考えたため起こったことでした。

「み旨に拠る私」という言葉の中の「み旨」もどこにあるかというと、
「あなた、私」の中にあるのです。


私たちはしばしば公的だ、私的だという言葉を使いますが、
自分が考えて自分の思いどおりにしようとすることが「私」であり、
自分の心からにじみ出たことだけれど、
相手側の心を経由してしようとするのが「公」です。

自分からにじみ出はしたけれど、
相手の心も本当に喜んで許すほどであり、
決裁を得てからしようとする思いが、公的な心なのです。

アベルを経由し、カインを経由しなければなりません。
経由しなければ「公」ではありません。
自分勝手に考えて決定するのは「私」です。
サタンの侵害を受けて物事がねじれるようになるのです。


家庭でもお互い不和になると、家の中のことがうまくいきません。
家族をみな理解させて喜ばせておいて仕事をしなければなりません。
うまくやらなければなりません。

特に男性は、家庭で妻が喜んで後押しし、
祈祷してくれる心がにじみ出るようにしなければなりません。


今日、教会の責任者は、年取った信仰の母に
教会長の事情をよく知らせて、
その人たちが教会長の事情をよく知って、
自ら祈祷してあげたい思いがにじみ出るようにしなければなりません。

こういう信仰の母を少なくとも三人もてば、
その教会や教会長のすべてのことが発展するのです。


ところが、教会の責任者として
自分の教会内に祈祷する人をもつことができなかったり、
事情が人と通じていない教会長は発展するはずがありません。
足場がないからです。

そういう教会長は家庭でも同じです。
夫人には何の相談もなく、自分一人でさっさとお金を使い、
自分一人で仕事を全部引き受けたなら、その家庭は発展できません。
原理的にそうなっています。


教会の長老であられる方々は、しっかりと分かっておいてください。
夫人が自分の夫のする仕事をよく知って、心から喜んで後押しし、
祈祷してあげることができるようにしなければなりません。

そうすれば神がその家庭に責任をもって協助したいと思われるのです。
善霊がそのように願っており、原理がそうなのです。

「家和して万事成る」という言葉は、
夫婦が一つのみ旨をもってお互い調和し、
神の運勢を引き入れることによって、
家庭がうまくいくということです。

そういう原則を離れた時は、罪となるのです。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所



「公」と「私」の違い。
なんだかとても明確に指摘してくださっています。

やはり、神様は宇宙を二性性相で作られているので、
すべては関係性の中で成り立っていくのだと思います。
それが今、中心が良く語られている
『疎通と共有』なのだと思います。

それを実行、実践することによって、
今は時代の勝利圏により、
無限に発展する時を迎えているな、そのようにも感じます。

真の神様をあらわしてくださった
真のお父様に改めて感謝いたします。
そして、その神様の存在様相を通して、
私たちに信仰指導してくださる
李ヨハネ先生にも感謝いたします。。。

続きます。






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