2017年07月13日

教会長が自分を無視すると感じた時?! ──それは誤解です! 《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「記念すべき女性、ベタニヤのマリヤ」です。


イエス様の生涯においても、イエス様は弟子たちに言うべきことを
すべて話すことができなかったでしょう。

弟子はいたけれども各自の事情ばかり山のように抱えているので、
イエス様としては言いたいことを語ることができませんでした。
やはりみ言を聞き分けることができなかったからです。


(ベタニヤの)マリヤがイエス様に
300デナリの香油を注いで慟哭した時、
弟子たちは高い香油を無駄使いしたと思いました。
みなそのように見えたのです。

その時イエス様は何とおっしゃいましたか?
イエス様は

「自分の福音が伝播される所では、どこにおいても
永遠に記念される女性だ」
(マルコ14・8)

と称賛されました。


このように、考える次元が違ったために、
イエス様はこの地に来て弟子たちと共に暮らしながらも、
語りたいみ言は全く語れずに生きなければならなかったのです。

この「記念すべき女性」というみ言が理解できますか?
イエス様と情の通じた人であってこそ、
そのみ言を理解することができます。

イエス様と情が通じられなかった人は、
マリヤがイエス様の足をつかんで慟哭するので、
何か私的な事情、いうなれば、
異性関係とかのゆえに泣くのだと思ったのでしょう。

その内的な事情が分からず外面だけを見るようになると、
そのようにしか理解することができません。


今日私たちも、お互いの間に誤解が多いのです。
心に自分の事情をたくさん抱いて教会に来た人は、
教会長があいさつをしなかっただけでも誤解します。

「教会長が私の悪口を言うと執事さんが言っていたが、間違いない。
だからあいさつも返さないんだなあ」
このように断定してしまいます。

教会長には、一言も言わず、
自分一人でそのようにとらえて誤解します。

私たちの社会でもそういう誤解が、どれほど多いでしょうか?
情と情の世界、心情と心情の世界がお互い通じないからです。
話しながらも、お互い意思疎通がうまくいかないのでしょう。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所




全ての中心は、「心情」にあると思います。
その人の事情、心情を求めることなく、
表面的に見れば、誤解することも多いでしょう。
特にアベルに対しては、そうなのだと思います。

教会長はその人のことをなんとも思っていなくても、
声をかけなかっただけで、
「私を無視した!
教会長はやっぱり私をよく思っていないんだ。。。」

しかし、教会長は、何か特別な事情で
頭を抱えている最中だったかも知れません。
笑顔であいさつする余裕がないのかもしれません。

教会長の事情・心情を訪ね求めてみれば、
「よくはわからないけれど、深刻なんだな」
そう思うこともできるというのです。

教会長だって完全な人間ではないのです。

私たちが目指しているのは、
心情共同体であります。
本当にお互いが家族意識をもって、
事情と心情を共有するようになれば、
もっと乗り越えることができることも
たくさんあると思うのです。。。

続きます。



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