2017年08月01日

「私の十字架」は何?! 苦痛の中で信じて従うためには  《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「苦痛の中での『信従』」です。


きょうはイエス様のみ言の中で一番の至上命令として扱われている
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」
という聖句をもとに、
「苦痛の中での信従」という題目で考えてみようと思います。

「信従」の意味は信じて従うということですが、
苦痛における「従順」という言葉を使わずに、
信従という言葉を選んだのは、従順とは少し違って、
「信じて従う」という内容でお話ししようと思うからです。



自分の十字架を探したか

この一カ月間、私たちは苦痛という問題を考えながら、
信仰の道を正しく行くためには、
苦痛を正しく扱わなければならないことが分かりました。

苦労はしながらも、私たちの心霊があまり復活していなかったのは、
苦痛を私たちの生命の役事として感受できなかったためです。


私たちが受ける苦痛とは、その中に神が私を呼ぶ声や啓示があるのです。
苦痛を通して訪ねてくる神のみ意を正しく知らねばならないということです。

十字架は苦痛なのですが、苦痛は罪ゆえに来るのであり、
その罪は「私たちの」堕落性の発露の結果です。
堕落性のゆえに苦痛が来るようになるのです。

それは、初めに私たちの堕落性が神に苦痛を与えたからです。
私たちの堕落性ゆえにイエス様にも十字架を負わせ、
前後左右にいばらのやぶをつくってきたという事実を、
私たちはよく知っています


自分の十字架は自分が負いなさいと語られましたが、
私たちはどういう場合が自分の十字架であり、
堕落性が何であるのかを見分けられずに、
ろくろく成長してきませんでした。

自分たちの生活が正当だと思って生きてきましたが、
気がついてみると堕落性がそのまま残っていました。

カインは自分の考えが正しいと思っていましたが、
気がついてみると堕落性でした。
ハムもそうであり、イスラエル民族もそうでした。
自分たちが空腹の時、それを恨むことが正当だと思って恨みました。


このように今日まで、自分の十字架を正しく負うことができず、
天を悲しませてきた不信の歴史を考える時に、
私たちは果たして自分の十字架を正しく悟った自分だろうかと、
自ら問うてみないわけにはいきません。

私は、私の十字架を発見した私なのか、
「本然の私」と「堕落した私」を正しく分立できる自分なのか、
という自覚が要求されます。


ここで指摘せざるをえないことは、恵みを受けた人たちに
「自分」という堕落性がさらにあるということです。

聖霊を受けさえすれば生まれ変わると思ったのに、
聖霊を受けた人たちに堕落性がなお残っているということは、
どういうことでしょうか? 

信心深い律法学者や祭司長がイエス様を殺害し、
信心深い人が文先生を憎みます。

こういうことを見ると、信じるという人たちがもう一段階生まれ変われず、
白く塗った墓(マタイ二三・27)になっていると
イエス様がとがめられた意味が理解できます。


自分の苦痛と天の苦痛を負って従ってこない者は、
私にふさわしくない、すなわち自分の十字架と主の十字架を負って
従順に従ってこない者も私にふさわしくないというのです。

さらに、自分の両親や夫や妻や、自分の生命よりも
私を愛する者こそふさわしいというみ言は、
自分の苦痛を捨てて主の苦痛を負って、
従ってこない者は私にふさわしくないというみ言として、
肝に銘じなければなりません。


私たちは普通、苦痛を避けようとします。
苦痛が来なければいいと思います。
私たちは苦痛に出遭うと、蕩減を受けるのだと、恥ずかしく考えます。

しかし、苦痛はそれを正しく受け止めれば、祝福であり、神の愛です。
苦痛は神の秘密が伝わってくる通路です。


この苦痛をまず探し出さなければならないのですが、
私の苦痛が何かというと、それは善悪の闘いのことなのです。

すなわちみ言によって自分における苦痛を正しく見いだす人が、
真に自分の十字架を探し、つかむ人なのです。

それは、何が私の中で怨讐であり、
何が私の平和を妨げるのかを正しく見いだす人です。



「聖霊を受けさえすれば生まれ変わると思ったのに、
聖霊を受けた人たちに堕落性がなお残っている」
今回、このみ言が印象的だったので
掲載することにしました。

ユダヤ教徒はイエス様を受け入れられず迫害し、
クリスチャンたちは、真のお父様を
受け入れることができませんでした。 

昔、クリスチャンだった方が
統一教会に導かれ、ご自身の証しをしていました。

「信仰を持った者は、一度極めているので、
一つの山を登った立場である。
その人が別の信仰を持とうとするなら、
山をそのまま登っていくのではなく、
一度山を下りて、もう一度
いちから別の山を登らなければならない」

少し極論になってしまいますが、
それが、自分の苦痛を見出し、
主の苦痛として受け入れることに繋がるのかと思います。

もう少し考えてみたいと思います。
続きます。





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posted by ten1ko2 at 07:17 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする