池承道ハルモ二の証し、続編です。
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すべての苦難の蕩減を経て
すべての苦難の蕩減を経て
1948年2月22日、先生は社会秩序びん乱の嫌疑で保安所に拘束されました。
既成教団の指導者たちがおよそ83通の投書をしたといいます。
相次いで十余名の食口が召喚されては、釈放されて出てきました。
私は行事の主導者として追われて逃げて回りながら、
先生の為に祈祷をしていました。
そのような中、ある日は保安所に訪ねてゆくことを決心したのですが、
その日の夜、天から「入って行かないで、先生の為に
昼夜祈祷をして差し上げなさい」と言われたので真心を込めて生活しました。
そんなある日の夜「お前は神聖な決意をしていなさい。
私が早く出るからそのときまで無事にいなさい」
という先生の声が聞こえてきました。
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このときから更に一生懸命祈祷をしました。
(数年が過ぎ、韓国動乱の前になって)
けれどもどうしたことか刑事たちが私を逮捕しようと
以前と違い物々しい捜査網をしいたので心がとても不安でした。
そのような祈りに啓示が降りて「南韓に下って行け」というので
公民証はありませんでしたが、老婆のかっこうをして、
米商人たちの中に入り、無事ソウルに到着しました。
ソウルで暮らしながらも先生の身辺の為に熱心に祈祷しました。
一・四後退を経た後からは、明らかに先生は出獄なさって
南韓にいらっしゃっるような予感ばかりしました。
そのとき、私は大邱に避難して「先生を見つけ出してほしい」と
毎日のように神様にせがみました。
そうしたところある日は「お前の先生がいらっしゃる家を見せてやろう」
とおっしゃりながら、幻で見せてくださるのですが、
山の下のちっぽけな家を見せてくださいました。
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ある日、私が田舎に外出して帰って来ると、息子のチャンソンが
金インシエ氏に会ったのですが、
先生にお目にかかってきたのだそうだと言いました。
私はすぐ凡一洞の穴蔵の家を訪ねていって
先生と感激の出会いをすることになりました。
先生にお目にかかって、大邱の家に帰って来てから、
先生のことばかり思い出されて、我慢できずまた釜山に訪ねていったところ、
先生が「承道さんが釜山に来ていなければならないんだが…… 」と言われました。
しかし私は大邱の家を捨てて、釜山に行く気待ちになれなかったので、
大変もどかしいばかりでした。
それで一生懸命祈祷したところ
「過去の体で生きた供え物を捧げろ(ローマ書十二章)と言わなかったのか。
早く行け」という啓示がおりました。
このような天の御言を聞いて私はすべての物を捨てて、
釜山へ下って行ったのです。
釜山には姜賢實(カンヒョンシル)氏を始めとし、
金シェサン勧士(キリスト教の教職の一つ。伝道の任務を持つ)、
李ヨハネ牧師、呉ヨンチュン執事、金スンチョル氏、
文スンギュウ氏のような方々が先生に侍っていました。
「神様の導きのままに」池承道
分かりやすい日本語に直して
少し編集して掲載しました
文責:ten1ko2
分かりやすい日本語に直して
少し編集して掲載しました
文責:ten1ko2
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初期のお父様は、多くの迫害を受けました。
お父様の良いところだけを信じ、それを見た方たちは、
お父様の十字架を共に背負うことなく、離れていきました。
しかし、池承道ハルモ二のように、
祈りの精誠を捧げながら、お父様に侍った方たちは、
どのような状況であってもお父様に従っていきました。
今は、多くの基盤ができ、勝利の光が差し込む、
そのような一歩手前まで来ています。
そういう時だからこそ、足元をすくわれないように、
今の天の願いを見つめ、祈りつつ歩んでいきたいと思うのです。
続きます。
*池承道(チスンド)ハルモ二
1895.9 平安南道にて出生
1947.11 統一教会入教
1968.2 二十一年路程功労賞受賞
※ このブログは、
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教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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(善なる目的で使用することに関しては
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