2018年08月25日

(祝福エピソード) 6500双 交叉祝福! なかなか始まらなかった理由(わけ)?!



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3万双、36万双祝福記念日 
おめでとうございます!

長年、家庭局長を務め、
真の父母様によるマッチングや祝福を
間近で見てきた倉本正彦先生(777双)の証し。

今回は、6500双祝福式のときの証しです。



最初に私が祝福を担当したのは、6500双の時でした。

6500双は、直前まで日にちも場所も決まっていませんでした。
祝福式が本当にあるのか、ないのか、それすらもわからずに
私たち家庭局のスタッフは訪韓したのです。

この時は初めての写真マッチングでした。
日本から写真を持っていって、韓国側は実体でした。

韓国の先生方が真のお父様に
「いつ祝福をしていただけるのでしょうか」とお尋ねしても、
お父様から答えがないという状況で、「これ以上、韓国にいても仕方がない。
もう祝福式はないかな」と思っていた矢先、
突然お父様が、「マッチングをしよう」とおっしゃいました。

あとで分かったことですが、6500双というのは蕩減をかけた
最後の九段階目の祝福であり、さらに交叉祝福なので、
早く知らせると、様々な妨害が出る可能性があったのです。

真のお父様は龍仁(ヨンイン)
韓国の祝福候補者を集めてみ言を語られました。

私たちも写真を持ってそこに行きましたが、お父様は最初に、
「今回は韓国と日本しか組まない」とおっしゃったのです。

これは韓国の候補者からすれば大変なショックで、お父様が、
「日本人でもいいと思う者、前に出なさい」とおっしゃっても、
本当にわずかな人しか出ませんでした。

真のお父様は翌日までかけて、ずっと説得されました。
なぜ韓国と日本の国際祝福を
しなければならないかを説明してくださったのです。

その後、「じゃ希望する者?」とおっしゃるのですが、
それでもほとんど前に出ませんでした。

(世界家庭7月号より)


3万双以降は「祝福の世界化」となり、
大きく恩恵が広がっていくのですが、
その前の6500双は、特に
最後の蕩減をかけた熾烈な戦いがあったのでしょう。

そういう意味で、証しにもあるように、
いつ開催されるかわからない、
さらには、交叉祝福という、
霊的な戦いのある祝福でした。

お父様は一つ一つの祝福式に精誠を捧げていかれました。

今日の祝福記念日をきっかけとして、
また、この証しを通して、
改めて真の父母様に感謝の気持ちをお捧げし、
そして、27日の天宙祝福式に備えていきたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 07:28 | Comment(1) | 祝福の価値 祝福の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月24日

信仰生活で、なぜ病気になるのか?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサーH》原因と克服法3



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『み旨をやりながら病気を治すべきか、
それとも治してからみ旨に励むべきでしょうか?』
という質問に対する、李ヨハネ先生のベスト・アンサー。

今日は〆になります。
昨日の最後の部分からどうぞ。


私たちは、死んでもどうでもいい人間、つまらない人間なのです。

結局、信仰者というのは、自殺しそうだった最後の立場で、
よみがえった人のことをいうのです。
死亡線を乗り越えているのです。

その時、み言に触れ、「原理」に触れたのですが、
それだけでなく、それを受肉しなくてはいけないのです。
もう一度受肉しなければいけない。

こういう時には、こう勝利すべきだと知りながらも、それをしなかった。
だから、「原理」を応用して体恤しなければいけないのです。


それが自分の情になって、失うことがないのです。
そういう信仰は失わないのです。
体験した情は、常に自分の心に生きているのです。

観念的な信仰よりも、受肉した信仰を積み重ねていく人は、
絶対に信仰生活で疲れないのです。
絶対に疲れない!

だから年は取っても、若くなるのです。
魂が生き、霊人体は成長し、完成していくのです。
霊人体は絶対に年を取らないのです。


そういう信仰をしていないから、すぐ疲れが出てきて、病気になるのです。
体力でもって一時的には力を与えられても、
それがなくなると、訳が分からなくなってしまうのです。

それをどのように指導して味わわせるか。
経験した人がいなければ、全体の問題となってくるのです。

いわば、「こういう時にはこうして、生活の中で刺激を受けるのですよ」
と教えるのです。

だれのために私は信仰しているのか。
神の命令に従ってやっているのだという信仰をもてば、
みな刺激を受けるようになるはずです。

外的に苦労しても、苦労の中に恵みがあるはずです。
苦労させないから、外的に打たれてしまうのです。

そういう信仰路程において、信仰を味わわせようとすると、
その人は自ら「原理」の生活化を知るようになってくるのです。
そういう経験をさせなければなりません。
そうすれば、捨てられても、けっとばしても離れなくなるのです。


先生は、そういう人がたくさんいてほしいのです。
三年くらいで、その価値を知らなければならない。
つかむべきです。

それを味わわせるために、三年間は苦労させるのです。
三年間というものをみ言で体験したら、
その人と環境は発展するようになってくるのです。



こんなことを言っておられた人がいます。
「ストレスになった時、
自分で解決しようと努力したけれど、
結局病気になってしまった。
困難な時ほど、神様に祈りを捧げ、
神様に求めるべきだと思う」

どんな時にも神様を求める、
そのような信仰姿勢が重要だと思います。

ヨハネ先生によると、
お父様は、「三年間」と言っておられますが、
自分を振り返ってみると、信仰の深みを味わえるのは、
3年よりもっとかかったような。。。
いや、本当の意味で、まだわかっていないかも知れませんが。

生涯、神様と真の父母様に侍っていけるように、
これからもみ言を受肉できるように
努力していきたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 07:00 | Comment(3) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

病気になったのは、私が神を捨てたから?! 《李ヨハネ先生のベスト・アンサーH》原因と克服法2



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李ヨハネ先生のみ言。
『み旨をやりながら病気を治すべきか、
それとも治してからみ旨に励むべきでしょうか?』
続編です。


イエス様は、自分が死んでも「神様、生きています」と。
弟子が逃げても神様が捨ててもイエス様は、神様を捨てなかった。
そうしたら、神様のほうから責任をもたざるを得なくなったのです。

結局は、自分が自分を救うようになるのです。
神様の責任ではない。
自分が自分を救え! 
自分から堕落したんだから。


自分が動機を失った原因は何か。
神様が私を捨てたのかと疑い始める。
「自分が神様を捨てたのか」と見なくてはならないのです。

自分が神様を捨てたということも知らずに、
自分が迷ってしまうのです。
訳が分からなくなってしまうのです。

自分が価値を捨てた! 
だから、自分が病気になっている時にもう一度探せばいいのです。
そこで探して喜べば、病気は去っていくのです。


そういうところに、「神様は、私の神様だ」、
「私は神様のものだ」という実感をするのです。

「私は私でない」、「神様は生きている」と、告白するようになる。
いないと思っていた神様が確かに生きていると。
それを体験しないと神様は本当に生きているという実感がこないのです。

病気で、痛く、つらい気持ちを味わった時は、
イエス様のつらかった心情から、
先生が一人で開拓されてきた苦労の心情を味わおうとすることです。

そうすれば力がわいてきます。


イエス様は「死んでも生きている」ということを見せてくださっています。

いくら病気で弱いからといって、病気に支配されてはいけません。
なぜならば、私たちは、「死んでもいい」と公的に供え物になっているからです。
「公的な供え物になる」と覚悟してきているのです。
皆の前に、栄光を見せるために来たのではありません。

私たちは、死んでもどうでもいい人間、つまらない人間なのです。
結局、信仰者というのは、自殺しそうだった最後の立場で、
よみがえった人のことをいうのです。
死亡線を乗り越えているのです。



イエス様も真の父母様も
「神の代身である・・・」
そのような責任心情を持たれて歩んでいるので、
すべてを公的なものとして、
捉えていかれるのだと思います。

私が病気にかかった時、
自分を中心として考えると、
「何で私だけこうなのか・・・」
そのような思いになってしまいます。

しかし、イエス様、真の父母様を求めると、
とても心情が近くなるとヨハネ先生は言われます。
そういう意味でも病気になることも「感謝」なのです。
自分を公的に見つめることが重要だと感じます。

もう一度、続きます。







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