2019年02月26日

キリスト教は「神の悲しみ」がわからない?! 骨髄にしみる痛み 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言を紹介します。



神の痛みを骨髄にしみるほど感じる

先生のみ言の中に

「骨髄にしみるほど感じなければならない」

とあります。

本当に、聞いても分からない難しいみ言です。
父母の心情を骨髄にしみるほどに感じる家庭に
ならなければならないという意味です。

では、天のために、どのくらい
骨髄にしみるようにしなければならないのでしょうか。

堕落によって私たちの骨の中に間違った考え、間違った情が入ったので、
蕩減復帰することによって天を慕う心情が骨髄の中に
根を下ろすようにならなければならなりません。


自分の罪を背負って主についていくだけの人には分からない、
本当に難しく、次元の高い内容なのです。

皆さん、私たちが自分の心配事だけにとらわれているということは、
自分の心配しかできないほど実力がないということです。

そのような人には他人の心配事が響いてきません。
それなのに、神の心配事がどうやって感じられるでしょうか。


エレミヤ書三一章20節以下を見ると、またこのような意味の言葉があります。

 「エフライムは私の愛する子。
 目に入れても痛くない、私のかわいい子。
 叱りはしても私は一度も忘れたことはない。
 哀れみの思いで私の心は痛む。
 私の真心からの言葉である」。

 
このようにエレミヤが神の心の痛みを示しました。
しかし、新約聖書には神の痛みは全くありません。



神の悲しみを知らないキリスト教徒

イエス様はこの地上に来て、神の痛みを語ることができませんでした。
語る代わりにご自身が実体で背負って苦痛を受けられました。

ところがその後に、イエス様を通じた神の痛みについて述べた人はいません。
新約時代にはいません。

パウロが十字架を解釈したのですが、パウロが書いたといわれる
ヘブル人への手紙二章10章には

 「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、
 多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救いの君を、
 苦難をとおして全うされたのは、
 彼にふさわしいことであったからである」


と記録されています。
これが今日のキリスト教の十字架を見る観点です。

神が愛するひとり子を十字架につけて、自分の罪を
贖罪するのは当然のことであるということは、
原理思想にどれほど反するでしょう。

キリスト教徒たちは、神の悲しみが分からなかったのです。
ひとり子を失った神の悲しみを知ることができなかったのです。


1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より



お母様はさまざまな集会において、
何度も「キリスト教が使命を果たせなかった」
そのように語られます。

お母様御自身の無念さもあると思うのですが、
何よりも神様がどれだけ無念だったか、
それを思う、真のお父様の心情はどうだったか。。。
その思いを代弁しておられるような気がします。

神様の悲しみを骨髄にしみて感じておられる
真のお母様だからこそ、
み旨の先頭を切って歩まれておられるのだし、
誰がなんと言おうとも、
神様の願いに応えて歩まれておられるのだと思います。

不定期に続きます。





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posted by ten1ko2 at 09:08 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする