2019年05月22日

天地鮮鶴苑を建てる理由 至聖所「天正宮」と「五苑」、永遠の夢をここに!! 



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先日行われた
「天地鮮鶴苑 特別会議」で語られた
真のお母様のみ言(要約)を紹介します。


私が真の父母として天地鮮鶴苑を建てる理由は、
天の父母様の夢と真の父母の願い、人類の願いを
かなえてさしあげる場所を見せたいからです。

「地上天国の形はこのようなものだ」といって
見せてあげるのです。
そこは天地万物が美しく、建物も美しいですが、
(訪れる人が)心の自由と平和を
感じることができなければなりません。

世の中には多くの人がいます。
善良な人も多く、義なる人も多いです。
しかし、天の前に出て行くことはできません。
真の父母を通して生まれ変わったという条件を経ず
しては、神様の前に出て行くことができないのです。

来年は、真の父母の聖婚から60周年を迎えます。
60年間、全世界的に
真の家庭運動と祝福運動を展開しました。

それゆえこの国(韓国)は、真の父母が誕生した
国として責任を果たさなければなりません。
人間始祖に責任を下さったように、選択された
この国は責任を果たさなければなりませんが、
いまだに灯台下暗しです。

しかし、世界は変わってきています。
キリスト教文化圏で、特にイスラム教圏で、
「独り娘を歓迎する」というのです。
「真の母と一つになる」と言っています。
「お母さんの息子・娘になる」というのです。

それで私には、アフリカに大統領の息子≠烽「て、
宗団(宗教団体)長の息子≠烽「ます。

アフリカだけではありません。
ACLC(米国聖職者指導者会議)の牧師たちがみな「(私たちは
真のお母様の)息子・娘だ」と言っています。

にもかかわらず、韓国は正気づくことができずにいます。
南北統一問題において、政治の力でどれだけ努力しても
限界があるということが、いまに分かるでしょう。

この国の主人は真の父母です。主人を見ても
分からないような無知な民となってはいけません。
彼らを教育するためにも、
天地鮮鶴苑を早く完工させなければならないのです。

天苑団地で私が企画している世界的な摂理からすると、
天正宮博物館は至聖所のような所です。
天地鮮鶴苑は博物館の概念だけではなく、
そこには「五苑」が入るようになるでしょう。

各分科は任された責任をよく完成してください。
全体的なことは、私が、新しく大きな絵を描き、
よく運営できるように導きます。

これまでは解かなければならない問題が多かったので、
時間がかかりました。
しかし、ある程度、形は整いました。
今や、それがよく現れなければなりません。

私たちは新しい時代を築いています。
新しい歴史は天の父母様を迎えるので、
永遠だというのです。

これは誇らしく福多きことであり、
皆さんは忠誠を尽くさなければなりません。



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天地鮮鶴苑 特別会議
天一国7年天暦3月29日(2019年陽暦5月3日)
韓国・天正宮博物館


この時、スタッフたちに対して、
「一つにならなければならない」
そのように厳しいみ言を語られたそうです。

今までの内的精誠が、目に見える形で、
この地に表す時を迎えました。

仕上げの時ほど、より一つになっていく、
そのような私たちになることを
天が願われているのだと思います。

私たちも、躊躇することなく、実践あるのみ、
そのような心情で歩んでいきたいと思うのです。



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posted by ten1ko2 at 10:38 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月21日

中間霊界とは、どれだけつまらない世界か?! 《浅川先生霊界シリーズ》



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浅川先生の霊界シリーズ。
今回は、「中間霊界の様相」です。


それでは、中間霊界という霊界はどのような霊界でしょうか。

一言で言えば、労働霊界と言っても過言ではありません。
働く霊界です。

死んでからも働くというのは、
ちょっと考えられないかもしれませんが、
この中間霊界という所は、この世とあまり変わりのない霊界です。


労働するということは、職場があることを意味します。
霊界にも職場があります。

職場には様々な労働条件がありますが、
中間霊界の場合は、比較的職場が少ないのです。
そのためにあまり自由に職場の選択ができません。

もし一つの職場を辞めたならば、新しい職場に行こうとしても、
なかなか気に入った職場を見つけるのが難しいのが中間霊界です。

ですから転職というのは非常に難しく、
常に失業の不安に駆られながら生き続けるのです。

自分の適性や趣味に合わせていく職場は少ないために、
嫌々ながら、気の合わない上司と共に生きなければなりません。
かといって、そこを辞めたならば、
転職が難しいため失業の不安に駆られながら生きる霊界です。


またこの世では、仕事を一生懸命して
貯金をすれば生活の向上が可能ですが、
中間霊界ではいくら働いても生活は向上しません。

中間霊界で一生懸命に働いたからといって、
より高い霊界に行くということはあり得ないのです。

ですから、生き甲斐(がい)もありません。
死もなく、老後もなく、退職金もなく、永遠に働き続ける世界が中間霊界です。


しかも、そこに勤めている職場の人間たちは、
善良な自己中心者ですから、働いている人たちのために
心を砕き、心配する人はいません。

みな自分のために働いているので、
他人を気遣って生きる人などいないのです。

無味乾燥なおもしろみのないのが、中間霊界です。

もちろん、職場というのは、
この世と変わらず分業形式になっていますから、
例えば食堂であるならば、食事を作る人、
またウエートレスやウエーターのように食事を配膳する人、
また食器を洗う人など、様々な職種に分かれています。


中間霊界は希望を全くもっていない人の集まりです。
神様や霊界や天国を信じない人たちが集まる所が中間霊界です。

天国を信じない人が、死んだのちに
急に天国を信じるようになるでしょうか。
それはあり得ないのです。
生前中に培った一つの信念、人生観は霊界に行っても、
そのまま持ち続けるのです。

「天国はあり得ない」と思って死んだのですから、
霊界に行っても天国を信じません。

死んだ先の中間霊界で、「この世と変わらない、
働くだけの世界ではないか」と思って絶望するのです。
その上に天国があるということは信じられません。

永遠に働き続けなければならないと思うので、
向上心や、天国に対する希望を持ち合わせていない人たちの集まりなのです。

希望のない、理想のない、おもしろみのない、退屈な、働く世界が中間霊界です。


スウェーデンに生まれた、当時、ヨーロッパ最大の学者であり、科学者であり
思想家であった、エマニュエル・スウェーデンボルグ(1688〜1772)が
霊界に入って、霊界の様々な様子を著した本があります。

その本にスウェーデンボルグが中間霊界を見てきたことが記されています。

それによると、大きな草原にいくつもの町や村があり、
そこを訪ねていってみると、不思議なことに、
町中の家がみな同じような形をしており、材質も同じであり、
住人の顔つきも同じだというのです。

これは、中間霊界というところは、
同じ性格の人たちが一つの集落をつくるためと考えられます。

最初は気が合うかもしれませんが、同じタイプの人が
何百年、何千年と一緒に過ごさなくてはならないので、
やがておもしろみもなく、退屈してしまうというのです。

このような世界が中間霊界です。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第四章 中間霊界と楽園の様子



中間霊界は、地上と同じように、仕事をするところだといいます。

ただ、同じように見えても、違うのは、
霊界というのは、永遠な世界ですから、
仕事をずっとやり続けるということですね。。。

地獄の世界は、実に悲惨な世界ですが、
中間霊界も、決していい世界であるとは
言いにくいと感じます。

辛うじて罪は犯さなかったので
「善良」とは言われているものの
良いことをするわけではなく、
人のために生きなかった人たちの集まりです。
どれだけ希望がない世界でしょうか。

知れば知るほど、み旨にいるということ、
神様を知った人生を送っているということ、
このことがどれほど素晴らしいことか。。。
本当に感謝でしかないと思うのです。

続きます。






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2019年05月20日

こうやって、不安と怒りは大きくなる?! 《大知先生のカウンセリングルーム》



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大知(おおとも)先生 「氏族伝道の心理学」より
続編です。


不安や怒りが大きくなるのは、どんなときでしょうか。

それは、否定的な環境やメッセージの中に置かれたときです。

否定的な環境とは、その人にとってマイナスの環境、
例えば、家族関係が悪くなる、病気になる、
学校の成績が下がる、仕事がうまくいかなくなる、
お金がなくなる(借金が増える)、
事故や犯罪に巻き込まれる、戦争になるなど、
身近なところから、社会全体が不安定になることまで、様々です。

また、否定的なメッセージとは、
「なにやっているんだ!」、
「そんなことをして駄目じゃないか!」、
「何回も同じ失敗をして……」、
「もう関わらないでくれ!」、
「そばに来ないで」など、
怒られたり、あるいは無視されたりするなど、
人格を否定されるような内容のメッセージです。

こうした否定的な環境やメッセージの中に置かれると、
人は誰でも不安を感じ、怒りが高まります。


逆に、肯定的な環境やメッセージの中におかれると、
不安や怒りは小さくなります。

肯定的な環境とは否定的な環境の逆で、
家族関係が良くなる、健康になる、
成績が上がる、仕事がうまくいく、
お金が入る、世の中が平和になる、などなどです。

また、肯定的なメッセージとは、
「すごいね、やればできるね」、
「今までどおりにやれば大丈夫だよ」、
「あなたのおかげです」、
「良い人ですね」、
「一緒にいると楽しいですね」など、
理解してもらえた、受け入れられたという感覚を
もつことができて、人格を評価してもらえるようなメッセージです。

こうした肯定的な環境やメッセージの中に置かれると、
不安や怒りは小さくなり、穏やかな気持ちになれ、安心できます。


ではなぜ、否定的な環境やメッセージは不安を高めるのでしょうか。

否定的な環境やメッセージは、
その人の「自己評価」を下げてしまいます。

自己評価とは、何かに対して、
「私は能力がある」とか、「乗り越えられる」とか、
「やればできる」などといった感情です。

否定的な環境やメッセージを受けると、
「私では駄目なのではないか」とか、
「自分にはふさわしくないのではないか」
などといった思いが強くなってしまいます。

そのため、状況に対して改善できるという見通しを
もてなくなり、不安が大きくなってしまうのです。


逆に、肯定的な環境やメッセージは、
自己評価を上げる働きがあります。

具体的には、「私にはできるはず」とか、
「私もOK」などといった感情をもてるようになるということです。


ちなみに、カウンセリングの中で、カウンセラーは
クライアントに対して、常に肯定的に関わろうとします。

カウンセラーの態度として最も重要なものの一つに、
「無条件の肯定的配慮」をもってクライアントと接する、
ということがありますが、こうしたカウンセラーの態度は、
クライアントの自己評価を上げ、
不安を軽減させていくという効果があります。

皆さんも、相談をしに来た人に対して、
怒ったり、否定するようなことを言ったりするのは極力しないでください。

たとえ相手を励ますつもりであったとしても、
多くの場合、相談に来た人の自己評価を下げ、
問題の解決をますます難しくしてしまいます。


大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第1章 不安と怒り
自己評価と自尊感情


人間という存在は、生きているだけで、
『神様に愛されている』のですから、
人にとやかく言われたり、環境が変わっても、
そのことに主管されること自体が、
本来の物事の捉え方ではないと思います。

しかし、神様は目に見えないし、
直接語りかけてくださるわけではないので、
現実的なこと、目の前のことに振り回されてしまう、
そんな私たちなのだと思います。

また、大知先生のおっしゃられるように、
人に対しても、マイナス的なところが見えてしまい、
課題を指摘する『私』になることがあったりします。

「原理と言うのは、自分に適用するのであって、
人に適用するのではない、
そうすると、要求とか裁きになってしまう」
これは本部の講師の言葉ですが、
本当にそうですよね。。。

私もある方にアドバイスしているつもりで、
いろいろとコメントしていたら、
「あなたの言っていることは、
カウンセリングではないですね」
そのようにハッキリと指摘されて、
自分の足りなさに幻滅したことがあります。

み言とは、(伝道ということを抜きにして)
人に教えるものでなく、
自分自身で実践するものである、
そのことを痛切に感じます。

肯定的メッセージを
常に語れる私にならなければ・・・

続きは、のちほど。





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posted by ten1ko2 at 08:12 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする