2019年06月24日

幸せに導いてくれる良い先祖たち、2つのタイプ?! 《浅川先生霊界シリーズ》



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浅川先生の霊界シリーズ。
今回は、『善い先祖の二つのタイプ』です。


善い先祖は、子孫である私たちの幸せのために
労を尽くしてくださる方々です。

この善い先祖の生前の性格というのは、第一に
「損得を抜きにして人のために尽くす」性格だったということです。

言い方を変えれば、計算高い人たちではありません。
これ以上尽くせば明らかに損をしてしまうことを承知で
人のために尽くした人なのです。
そのようにしか生きることができない性分をもった人たちなのです。

多くの財産があったとしても、私財をすべてはたいて、
地域の発展のために尽くして、大変貧乏になったとしても、
それが喜びであり、感謝であると思う人です。

村八分になるような悪人に対してさえ、多くの施しをなして、何の見返りもなく、
感謝されなかったとしても、また施しをしてしまう人です。
それが善なる先祖の方々です。

このような性分をもって霊界に行かれたので、
死後においても、報いを求めず、
子孫の幸せのために尽くしてくれるのです。


さて、善なる先祖のもう一つの性格は、
「感謝の心」をもっていたということです。

人のために尽くし、人のために苦労するということは、
決して楽なことではありません。
時として、尽くした相手から感謝もされず、罵倒される場合もあります。

それでも人のために尽くすことは、
とても感謝なことであると、心から思った人です。

自分の命は人のために尽くすためにあるのだと、
感謝の思いで生きた人たちが、善なる先祖の方々です。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第五章 先祖の働きと人間の幸・不幸
善い先祖の二つのタイプ



私の先祖はどうかな・・・
そんなことを思わされました。

み言を聞いて、受け入れることができた、というのは、
それだけ先祖の功労があったと思うし、
そういう意味では心から感謝していきたいです。

ただ、先祖の皆様には大変失礼かと思いますが、
二つのタイプに当てはまるような、
そんな先祖が多くおられたのかは、疑問ですね。。。

そうはいっても、私自身もいずれは『先祖』になるわけです。
やはり、後孫に恥じぬ人生、
いや誇れる人生を送らなければならない、
そのようなことを思わされます。





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posted by ten1ko2 at 09:23 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月23日

なぜ祝福家庭を犠牲の道に送るのか?! 神に守られる理由2 《金元弼先生》 



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千歳の願い荒れの園に
勝利の基を求めて
尽くし来られた血のみ跡
これが父の賜う愛



今日(現地時間6.22)神アメリカ希望前進大会において
大祝福式がなされました。
真のお母様がみ言を語られ、
傍らにはノエル・ジョーンズ司教の姿もありました。
大盛況の様子を見ながら、ブログをあげます。

金元弼先生の信仰サプリ、「主流の道における伝統」
の2回目、「尽くしてもまだ足りないという先生の伝統」です。


先生は、常に神のため、人類のために、
ご自身を、家庭を、氏族を犠牲にしていく道を歩まれました。

統一教会の中で祝福を受けた人たちは、
先生にとっては氏族と同じです。

この氏族を国家を救うために犠牲にしたということは、
祝福家庭を三年路程の伝道に行かせたことを見ても
知ることができるでしょう。
そして今もなお、アメリカにおいても祝福家庭を、
アメリカと世界を救うために、全部前線に出しているのです。


ある国が世界を救うために犠牲になった場合、
世界が救われたときには、世界はその国を守るというのです。

ですから、先生は私たちを、自動的に、個人のレベル、
家庭のレベル、氏族のレベル、民族、国家のレベルにおいて、
孝子、愛国者、聖人、そして聖子となるように訓練し、
導いておられるということに気がつきます。


次に、先生は、その孝子の中、愛国者の中、聖人の中でも、
最も中心的な者としてあるために、
どのような道を行かれたかということをお話ししたいと思います。

それは、人に尽くしても尽くしても、
まだ足りないという心をもつということです。

これが先生の歩まれた道です。
私は全部尽くしたという人と、尽くしたけれども
まだ足りないとする人では、どちらがより尽くす人でしょうか。


先生が作られた歌に、獄中から出られて、
神の愛に深く感謝された歌があります。

それは、感謝しても感謝しても、まだ治まらない心を歌った歌です。
それは、夜昼なく仕事をしても、まだ時間が足りないという心、
疲れ果ててベッドに入る時でも、
まだやることがたくさん残っているのに体を休めなければならないことを
お許しくださいと祈って休む、その心です。


先生は人々が訪ねてきた時にはみ言を語られ、
そして人々が時間になって帰ろうとする時にも、もっといてほしい、
もっととどまっていてほしいという心であられました。

また、ある食口が家庭の迫害で何日も教会に来ない場合には、
先生はその人の家が見える所まで訪ねていかれ、
そこに立って、食口の顔だけでも見たいという
待ち焦がれる心で、一日中祈られたのです。

ある食口が朝買い物に出かけたのですが、たどりついた所は
教会だったということが起こったのですが、
それはそういう心で先生が
私たちを非常に愛し尽くしておられたからです。

そういう、人を思いやる心は、人を引きつけ、
霊界の協助を受けることのできる動機をつくっていたのです。


そういう心を先生は、万物を通しても常に読み取られていました。
先生のお住まいの寝室の前には、大きな木が何本も立っています。
そしてその周りには警備員が、夜寝ないで先生を守っています。

ところが、先生が外を眺めておられると、
たまたま警備員の中に居眠りをしている人がいました。

その時先生は、「彼らは眠っても木は眠っていない。
この木は私を寝ないで守ってくれているのだ」と考えられて、
この木に倣って、私も神をこの木のように守らなければいけない
というように考えられたのです。

このように先生は、
尽くしてもまだ足りないという心でこの道を歩まれたのです。

そのような先生を眺める神の心には、
もっと守ってあげようという心が起こるのではないでしょうか。
神がそうであるがゆえに、霊界はどうでしょうか。

そういうことで、眠っている警備の人に霊界が現れて、
「あなたは寝てはいけません」と、お告げがどんどん下りるのです。



『愛は与えて忘れなさい』
お父様のみ言を思い出します。

何よりも神様がそのような道を歩まれたので、
自ら実践していかれたお父様なのです。
その歩みはお母様も全く同じだと思います。

愛を与えてどうしても忘れられない、
愛の器が足りない者であることを悔い改め、
もっともっと神様の深い心情を求めつつ、
御父母様の愛の世界を相続していきたいです。

(神アメリカ大会は、次にシカゴで行われると予告され
フィナーレとなりました。)






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posted by ten1ko2 at 08:26 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月22日

お金を引き寄せる幸運な人 お父様のいう3つの条件とは?! 《浅川先生》



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浅川先生の愛天愛人愛国講座、
『感謝献金』のところがとてもわかりやすかったので、
皆様にも紹介したいと思います。


「あなたにとって、幸福になるために
絶対必要なものは何ですか?」と質問されたらどう答えますか。

ある人は、「決まっているでしょう。お金ですよ」と答えました。

確かにお金ほど生活に密着したものはありません。
食品を買うのも「お金」、電車や車で移動するのも「お金」、
家を建てるのも「お金」、ガス、電気、水道の使用も「お金」。
何でも「お金」が必要です。
 
毎日、資金繰りに追われている経営者は、
「お金は空気である」と言いました。
この方はお金を呼吸して生きているのかもしれません。


しかし、見方を変えると、お金ほど役に立たないものはないのです。
例えば紙幣。まず、メモ用紙としてすら使えません。
紙一面に印刷されていて文字を書く隙間がありません。
せめて、紙幣の右横でも空欄になっていれば、メモできますが、ありません。
トイレットペーパーにもなりません。

また、人はお金を食べて生きているわけではありません。
お金が食べられるなら、料理の手間が省けます。
お皿に百円玉や千円札を置いておけば、立派な夕食になるからです。

夕方帰ってきた子供やご主人が、
「おいしそうなお金だね、味付けのために、
もうちょっと醤油をかけて食べようかな」と言うかもしれません。

人間はヤギではありません。
紙幣を食べて生きているわけではないのです。

そんなに役に立たないのに、燃やすことができません。
一万円札にマッチで火をつけるのは勇気が要ります。
寒い野外で、体を温めることさえできないのです。

「紙幣など全く役に立ちません。とてもやっかいなものなのです」
とは、一生に一度は言ってみたい言葉です。


ところが、そんなに役に立たないはずの紙幣が、
何十枚、何百枚になると、人の心が変わります。
血眼になって争いを起こします。

憎しみや怨みが湧き出て人間関係が壊れます。
愛を捨てる人、命を粗末にする人が現れます。
なぜなら、お金は、土地、家、
高い地位まで手に入れることができるからです。
そのため、多くの不幸はお金に起因しています。


では、お金をどのように使用したら、
幸運を引き寄せることができるのでしょうか?

年末年始になると、多くの人が神社仏閣にお参りに行きます。
健康祈願、家庭円満、商売繁盛、無病息災、などを神仏にお願いします。

ただ、すぐに合掌してお願いはしません。
必ず、お賽銭(さいせん)を捧げてから、
手を合わせます。

なかには、お母さんが子供にお金を渡している、ほほえましい光景もあります。
どうやら、日本人の心には、お賽銭を捧げてから、
神仏にお願いする風習があるようです。
それは、ひょっとして人間の本性かもしれません。
 
お金は衣食住のために使いますが、
お賽銭は、神仏に感謝して捧げます。
神仏への報恩感謝の心ともいえるのです。


文鮮明先生は、お金を神様に捧げる貴さを語られています。

「献金とは何かといえば、世界のために、
 神様のために祭物として使うものです。
 
 お金は、万物を身代わりするもので、
 そのようにすることによって、
 すべての万物が嘆息することなく、
 天のみ国に行ける道が開かれるのです」
(『愛天愛人愛国』、130ページ)



では、万物が嘆息する、とはどういう意味なのでしょうか。

文鮮明先生は、お金の心になってみると、
それが分かると言われるのです。

神様が創造した全ての万物は、
人類の幸福と平和のために存在しています。
万物たちにも潜在的な心があって、
人類のために使われることを願っているのです。
そのように使われたときに、喜びを感じるのです。

お金の心はこうなのだと文鮮明先生は言われます。

「お金は必要ですが、全体のために、
 愛を実現するために必要なのです」

(『愛天愛人愛国』、128ページ)



桜の花は満開となって人々を喜ばせます。
ご飯、野菜、果物は、栄養素になって人々の命を養います。
電気は家の機能を稼動させて、住人の生活を保護します。

ところが、お金はどうでしょうか?
意外なことに、お金は、
「私の行ってとどまる所では、いつも人が変わっていってしまう」
と嘆き悲しんでいるというのです。

確かにそうです。
お金をめぐって親子や兄弟が争いを起こしています。
保険金詐欺のように父母や兄弟を殺す事件も起きています。
お金の奪い合いで戦争、搾取が世界中で起こっています。

どんなに良い人でも、「お金」を手にすると、
人間性を失ってしまうこともあります。
お金に万物の霊長である人間が弄ばれているのです。

このため、「お金」の歴史は最も醜い歴史になってしまったのです。
それでお金が悲しみ嘆いていると、文鮮明先生は言われるのです。

 
では、お金はどんな人に使われたいと願っているのでしょう。

お金に感謝される人、お金から尊敬される人、
お金が使われたいと願っている人とはどんな人なのでしょうか。
まさに、その人こそ、幸運を引き寄せる人なのです。
 
その人を文鮮明先生は、三つの条件を備えた人だと言われます。
 
第一に、お金をたくさん持っても、心の清さを失わない人
 
第二に、お金をたくさん持っても、愛の変わらない人
 
第三に、お金を全て失っても、何も失っていない豊かな心を保てる人

お金を持っても、人類愛が少しも変わらない人なのです。
お金を失っても人類愛が豊かな人なのです。
そういう人に会ったとき、お金は幸福を感じるというのです。


神様に捧げて世界平和に使っていただくお金を“献金”と言います。
献金は、神様と人類を愛する心を捧げることなのです。

では、いつ捧げたらよいのでしょうか?

最初の水を神聖なものと考えて神仏に捧げる美しい風習があります。
初水です。最初に使うお金を神様に捧げるのが良いのです。
そして、残ったお金で生活させていただくのです。

文鮮明先生は次のように言われます。
 
「最初のものは、
 神様の前に捧げなければならないのです。
 聖なる物は、
 神様の前に捧げなければならないのです」


(『礼節と儀式』(文庫版)、135ページ)


浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸せを引き寄せる〜「愛天愛人愛国」家庭生活講座』より)
第三章 国を愛する
感謝献金


お金というのは、いくらあっても足りないし、
逆になかったとしても、
感謝して生活できる場合もあるでしょう。

前者の例を挙げると、
日産の前会長、カルロスゴーンがそうですよね。
経営トップの報酬がものすごいにも関わらず、
なお、不正していたという事件。
お金が欲しくてほしくてたまらない、
その代表的な例だと言えるでしょう。

また、後者においては、
マザーテレサがそのうちの一人だと思います。
彼女の私物は、
歯磨きとサリーを洗うバケツ
サリーと聖書とロザリオ、
これだけでした。

お父様が語られた三つの条件、
これをしっかりと
心に刻んでいきたいと思います。






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posted by ten1ko2 at 12:08 | Comment(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする