2019年07月16日

先祖から協助を受けたい! そのために、3レベルの「感謝の心」 《浅川先生霊界シリーズ》 



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浅川先生の霊界シリーズ。
今回は、「善い先祖の協助を受ける三つの感謝の心」です。


それでは(章の)最後に、善い先祖の協力をたくさん得るとともに、
悪い先祖の働きも良いほうに転換させる、
「災いを転じて福となす」、三つの感謝の心について述べてみます。

最初の感謝の心は、「小さな恵みに感謝する」ということです。

先祖から受けたどんなささいな恵みも忘れずに感謝し続けるということです。
感謝の足りない人は、良いことがあったにもかかわらず、
それを忘れてしまうことが多いのです。

よほど大きな恵みがなければ感謝しない人もいます。
ささいな恵みを感謝し、ずっと自分の胸に秘めて忘れない心が、
善い先祖の協助を受ける要素となるのです。


二番目の感謝の心は、「当たり前の生活に感謝する」ということです。

大きな事故があっても、かすり傷一つなければ、先祖に感謝することでしょう。

幼稚園に通っている自分の子供が乗ったバスが交通事故を起こしたとします。
そのとき自分の子供が全く無傷だったとしたら、
きっと先祖に感謝をするに違いありません。
またご主人が交通事故に遭って、車は大破してめちゃくちゃになったのに、
かすり傷一つなかったとすれば、心から先祖に感謝することでしょう。

しかし、ご主人が当たり前のように、夕方八時に帰ってきて、
それに心から感謝をする奥さんは少ないのです。
また子供が当たり前のように「ただいま」と言って夕方帰ってきたとき、
手を合わせて先祖に感謝をするお母さんは少ないはずです。

当たり前の生活が続きすぎれば感謝の心が薄れてきます。

先祖が守ってくださったということは、事故がなかった、
当たり前の生活ができたということです。

朝、食事をし、「行ってきます」、「行ってらっしゃい」と言い、
「ただいま」、「お帰りなさい」と言って夕食を迎えるという、
当たり前の生活こそ、
事故、災難から守ってくださった先祖の涙ぐましい必死の努力の結果なのです。

そのことに対して心から感謝をすべきです。
当たり前の生活に感謝をしてこそ、
多くの先祖が喜んで、さらに協助するでしょう。

先祖は人間です。情があり、心があります。
ですから子孫が感謝をすれば、ますます協力してあげたくなるのです。


三番目の感謝の心は、「不幸に感謝する」ということです。

「病気にしていただいてありがとう」、
「事故に遭わせていただいてありがとう」、
「苦労させていただいてありがとう」、
こんなことは普通言えないわけですが、
先祖の悪行を私が請け負うことによって先祖と子孫の幸せの道が開かれるのですから、
不幸なことに対しても感謝するのです。

小さな恵みを大きく感謝して忘れない、当たり前の生活に心から感謝する、
不幸にさえ合掌し感謝する心、この三つの感謝をもちながら、
人の幸せのために尽力するとき先祖の大きな協助があるのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第五章 先祖の働きと人間の幸・不幸
善い先祖の協助を受ける三つの感謝の心



三つの感謝の心、
というよりは、三段階の心、
と表現してもいいかもしれないですね。

恵みに感謝する、
当たり前のことに感謝する、
不幸に感謝する、
感謝の次元がどんどん高まっています。

特に三番目、「不幸に感謝する」というのは、
相当、次元が高い感謝ですよね。
イエス様が歩まれた道、
そして、真の父母様が歩まれた道であり、
私たちも相続する立場だと思います。

また、二番目の「当たり前のことに感謝する」
このことも肝に銘じておきたい教訓です。

どんなときにも感謝の心を持つ、
お母様のみ言を思い出しました。

いかにして昨日より今日、さらに
感謝の気持ちをもって生きていくかということです。
昨日より今日、さらに感謝し、
明日は今日よりもっと感謝しながら
生きるために努力してきました。

お母様を目指して、実践していきたいです。




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posted by ten1ko2 at 09:02 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月15日

愛と神霊に満ちた教会になるためには?! 会いたくてたまらない 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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苦痛を越えていくと、
感謝の心、嬉しい心がわいてくるといいます。
そして──

李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教
「苦痛の価値性」より『見せてあげる教会』です。


今やこれらのことを知って、
人に見せてあげる教会になるようにしなければなりません。
神が共にいてくださる教会にならなければなりません。

この地上に教会はたくさんあります。
統一教会も多いですが、神と関係のない教会になることもありえます。
原理はあるけれど、神霊がないということです。

それはどういうことかというと、
聖霊とは関係のない教会だということです。
統一教会という看板はついているけれど、
実情は統一教会でないこともあるということです。

だれでも基台をなせばお互いに連結でき、心と心が通じ、
願いが一致できてこそ統一教会といえます。
聖霊が降りてきて、多くの人が来て復活する希望の場所、悔い改めの場所になり、
どんな人が入ってきても打ち解けることのできる教会として、
神の前に、人間の前に現れうる教会にならなければならないのに、
今まではそうできていません。

これからそれを共になそうというのです。
ですから私たちの教会は神の前に、そして万民の前に
現して見せることのできる教会になりましょう。
これを忘れてはなりません。

 
それではどのようにすればよいのでしょうか。
私たち一人一人がいなければ現れることができません。
お互いの間に現れなければなりません。

家族なら家族として、教会の食口なら食口どうし、
記憶される人、お互い慕い合うことのできる人にならなければなりません。
会わないでいれば会いたく、お互い相手を誇りたく思う人、
これを見せてあげようというのです。

私たちがお互いに見てよければ、
人にもよく見え、天にも伝わります。

今日これが実現されていなければ、統一教会の信仰も無駄です。
この世の教会と全く同じです。
み言だけ聞きに行ったり来たりするなら、何が違いますか。
私たちはみ言だけ聞きに来る人たちになってはいけません。

会いたくて来る人にならなければなりません。
食口が慕わしくて来るのです。
一人でも来なければどうして来なかったのかと気になり、
だれか一人でも見えなければ、
だれがいないかを見つけ出せなければなりません。

これから聖日の朝には、家を出るとき礼拝を受けに行くという
過去の観念を捨てて、慕わしい人に会いに行くと思いなさい。

これからこの場は、私だちという人が集まる場ではなく、
神が臨在することのできる祭物が集まった場だと思わなければなりません。
ここは金なにがし、朴なにがしが集まったところではなく、
神の運勢が降りてくることのできる、
祭物が集まった場であり、み旨を中心とした集まりであるよう、
お互いに努力してみましょう。

私たちはお互いに会いたくて、誇りたくて来る人にならなければなりません。
父の家での生活を誇ることができてこそ、
父の事情を知る者になり、
父の事情の中の悲しみを通して喜びを見つけることができます。

礼拝を受けに来たり来なかったりしてはいけません。
縦的心情を心に持ち続けなければなりません。
それができなければ、祭物の資格を失うようになります。

1977年7月24日(日)中央修練所
聖日の礼拝
苦痛の価値性


ヨハネ先生は、天一国時代を迎え、
今、天が願われている教会を目指していますが、
そのことを予見するようなみ言を
すでに40年以上前に語られていました。

以前の記事にも書いたことがあると思いますが、
お父様のみ言の中に

   統一教会の教団は氏族です。
  「私」の血が共に動くのです。
  私が涙すれば、氏族が涙しなければならず、
  私が喜べば、氏族が喜ばなければなりません。
  それは血族です。
  五色人種を越え、文化背景の異なる
  すべての国家基準を越え、
  壁を取り払って一つのまとまった、
  新しい天の国創建のための民族です。

(天聖経 968ページ)

お父様は『血族』である、と語られています。
これは、私自身も含めて、
食口一人一人が問われる内容だと思います。

足りない私たちに対して、
お父様がそう思ってくださっているのですから、
お父様に感謝しつつ、
私たちもそういう心情圏に入っていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 08:32 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月14日

なぜこの人が私の夫/妻なのか、その「天の配在」を考える?! 《蝶野部長》2



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名講師、本部の蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
若い2世圏の人たちにもお勧めです。

祝福を受けても堕落性が多く、
「原理は、自分に適用したときにだけ、愛になる」
というのに、人に当てはめては
葛藤して、なかなか成長できない私たち。

どうしたら堕落性を脱げるのでしょうか。


堕落の血統を清算したんですが、痕跡がまだ残っています。
(祝福家庭の夫婦も)祝福2世も、堕落性がまだ残っているが、でも無原罪。

その堕落性をどうするか。
実は、堕落性の根はないんですね。
祝福で堕落性は残っているものの、根は清算されたというのですが、
しみ込んで残った癖があります。

祝福を通して血統転換したのであれば、
神の息子娘にふさわしくなっていかなければなりません。
(祝福までは、)
堕落性を脱ぐ条件としてメシヤを迎えていきましたが、
祝福を受けちゃった場合には、堕落性の根はありません。

根はないんだけれども、痕跡は残っています。
赤いインクの色水に植物を浸けたら色がつきますが、
でもこれが、祝福を受けたら真水に変わっている。
でも残っている色がある。
早く気化させて色を抜かなければならない。

これは(つまり)、人間の5%によってしか
(堕落性を)脱ぐことができないということです。

霊的役事で恩恵がある時代です。
しかし、自分で自分のことをやるというこの部分、
ハードルは(以前より)下がったのですが、
走るのは自分だということ、自分の責任分担を忘れてはいけないのです。

ですから、霊的恩恵プラス、
自分が自分で堕落性を脱ぐというのが必要です。

ですけど、そうした時に、私たちは祝福を受けても
堕落性を完全には脱いでいない状態で、原理を聞くものですから、
(原理を)相手に当てはめるようになる。

もっと悪い場合には伝道対象者に当てはめるんですね。
(伝道対象者は)まだ原理を聞いていないにも関わらず、
「こういう所がゲストにはあるんだ」と言うのですが、
それはあなたでしょう、ということです。

結局、相手によって自分がぶつかるものは、実は自分のものなんです。
相手に見えるものは。これが原理原則です。

ですから夫婦で、配偶者にうーん?と思っているものは、
実は自分の中のものなんですね。
しかし自分の中の癖が分からないので、それを教えるために
天の配在で、自分の配偶者がいるんです。
これ、既成祝福もマッチングも(2世祝福も)同じですよ。

ですから、配偶者に対していろいろ思うところ、躓くところ、カチンとくるところ、
えーっと思うところ、食べ方が気になる、清潔にしない。。。
男性の側からも女性の側からもいろいろあるかもしれません。

例えば、子女のマッチングに向かうためにどんな相手を願うかという時に、
夫がえらい外的な要望ばかりする。
年収800万、1千万以上、背が高い人でないと等々
そのように夫が言っていると、それに奥さんが葛藤している。。。

宗教の門をくぐったということは、
なぜそのたたかうことをいう夫が
自分の配偶者なのかということを考えるのが、
信仰者の道なのに、こういう天の配在は一切吹っ飛んでいます。
それは一般人の葛藤のし方です。

私たちは、神様を中心に出会った関係であり、
配偶者だというところに、もう一回帰っていかなければなりません。
夫婦が一つになるというときに、こういう現実的な見方や、
意見、感性が合わないなどというところで
葛藤してしまうと(ひとつになれません)。

原理を、相手に適応してたたかう(葛藤する)人は、
だいたい自分には適応していない、という場合が多く、
「自分はどうなんだ」と言われて、玉砕するんですね。

そして、それを子供たちが見ながら、『これなら
一般の夫婦の方がいいんじゃないか』と思われたとしたら、
それは原理を聞かない方がよかったということになります。

お父様の願いはどこにあったかということですね。
本来は、祝福を受けるまでに完全に堕落性を脱ぐ、
そのための条件(が信仰基台)だというんです。
ですから、血統転換後はサタン分立はいらない、というのが本来なんですね。

ところが私たちは祝福を受けても堕落性をもち、
それを原理で裁いて(指摘して)いたら、どうなる。
大きくなる。

信仰基台を立てることによって私心、自分がなくなるというのが条件です。
私はこういう信仰基台を立てたと自慢が始まる場合には、
サタン増幅になる。サタン分立にならないのです。

(文責:ten1ko2)



み言を相手に適用すると裁きになってしまう、
原理は自分のため、愛は人のためにある、
そのことを肝に銘じていかないといけないと思います。

それとともに、今回は、
さらに踏み込んだことを話されています。

今回は夫婦講座ですので、
自分の配偶者に対して言っておられますが、
すべての人間関係に通じることでしょう。

たとえば配偶者に葛藤するところ、
それが本人の課題というのではなく
自分の課題である、
そのことを悟らなければならない、といいます。

相手に戦って(葛藤して)いる部分は、
自分自身の堕落性なのである、
夫は「頑固で頑固で・・」と言いますが、
頑固であったとしても、
そのことが問題なのではない、
頑固な夫に戦っている、
あなた自身が問題なのだ、
そのようにも話されています。

自分が正しいと思って
み言を振りかざしていくと
サタン分立路程をいっているつもりが、
「サタン増幅」になってしまう。。。

そうではなく、
相手に対して引っかかっているところを
自分の問題として悔い改めていく。
とても高度な捉え方ですし、
簡単でないかもしれませんが、
これがお父様に通じる道である、
信仰の基本となるものだと思うのです。

不定期に続きます。





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posted by ten1ko2 at 08:46 | Comment(0) | 夫婦講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする