2019年08月16日

墓場に行く前に! 「死んだらわかるけど、それでは遅い」 《北谷先生》2



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北谷先生の
『死んだらわかるけど、それでは遅い』
続編です。

人が死んで墓場に行くこと、
それは、次の人生、霊界での生活の出発となります。

「墓場」というのは、一般に人生の終わりであり、
希望がないことをいうようですが。。。


私たちは皆、幸せになりたいと願っています。

幸せになりたいと思って結婚します。
ですから、結婚する人には「おめでとう!」とお祝いするのです。

ところが、結婚するときには幸せになると思っているのですが、
結婚した後はどうでしょうか。

もちろん、幸せになるために努力しているでしょう。
努力することは絶対に必要ですし、重要なことです。
しかし、努力してもどうにもならないこともあります。


私が大阪で初めて講演をしたときのことです。
話の流れでたまたま、「結婚は人生の?」と言ってしまったのです。
そうしたら、関西の人はノリが良くて、すぐに「墓場!」と答えたのです。

「結婚は人生の墓場だ」というのです。
誰もが幸せになりたいと思って結婚したはずなのに、そう言うのです。
それを言われた瞬間、私はドキッとしました。
「墓場」ということは、「幸せではない」ということでしょう。

私はその後、日本中で講演をするようになったのですが、各地でこのことを尋ねてみました。
本当に皆、結婚を人生の墓場だと思っているのかどうか、確かめたくなったのです。

北海道から九州まで回って、講演の中で聞いてみました。
「結婚は人生の?」、そこまで言うと、決まって「墓場!」と答えるのです。
答えはみな同じでした。


では、沖縄はどうだったでしょうか。
沖縄はかなり距離が離れていますし、文化的な背景の違いもあるでしょうから、
もしかしたら少し違うのではないかと、その反応に興味がありました。
しかし、結果は同じでした。やはり「墓場!」と答えるのです。


沖縄での講演会が終了した後、一人の婦人が、私のもとにやってきました。
皆と一緒になって「結婚は人生の墓場」と言っていた方です。

「先生は日本中を回っているそうですね。
私の息子は四十歳近くなるのに独身なんです。
結婚してもらいたいのですが、何とかならないでしょうか?」と言うのです。

私が「さっき、結婚は人生の何だとおっしゃってましたっけ?」と尋ねると、
「それはそれ、これはこれですよ」と言うのです。

このように、日本中、誰もが幸せな結婚生活を願いながら、
幸せになれていませんでした。
誰もが、幸せになりたくて努力しているはずです。
不幸になろうとしている人はいないはずです。
幸せになりたくて努力しているのに、そのようになれていない現実を目の当たりにしました。

北谷 真雄・著
(光言社刊『死んだらわかるけど、それでは遅い』より)1.目に見えない霊界の作用
結婚は人生の墓場?



「結婚は人生の墓場」
この言葉を知らない人は少ないでしょう。

実際には、フランスの詩人ボードレールが書いた
「墓のある教会で貴方が愛した
唯一の人と結婚しなさい」
という言葉の誤訳なのだそうです。

ある意味、唯一の人との結婚なので
死ぬまで一緒だから
もう自分の人生はこれで決まってしまった
という意味での皮肉的な言葉とも取れます。

ただ、誤訳の言葉が今も残っているというのは、
そういう風に思っている人が、
今も昔もたくさんいるからなのではないか、
そのように思わざるを得ません。

日本でも、3組に1組は離婚をすると言われています。
実際には、婚姻数が減っているので、
あくまでも計算上の話ではありますが。

ただ、結婚という、人生最大のイベントが、
なかなか思い通りにいかないという
現実があることを否定できません。

北谷先生は、その原因というものを
目に見えない世界からの影響がある、
そのように解説しておられます。

霊界の具体的なお話は、次回に続きます。






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posted by ten1ko2 at 09:50 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月15日

本来の信仰基台?! 創造原理の時代(ちゃんと愛する時代)が来た! 《蝶野部長》5






本部・蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
続編です。


お父様は原理を解明されただけでなく、生きて示されました。
自分を殺そうとする相手を愛し赦してきた。
「栄光の王冠」これは16歳ですよ。
自分をだます者を、私が悪いのですと言っているのです。

これは(すでに)原理の心情実体になっている。
お父様がなぜ16歳であの心境に立っている(のか)。
それは生きた原理を示していかれた。

(そのようにしても)摂理がうまくいかない、
キリスト教もすべてお父様を裏切ったので、最後は自分の命まで、
そのようにして生きた原理を示して霊界にいかれました。

しかし、遺された私たちが、原理が何だったのかわからずにいるとしたら、
どれだけお父様が霊界で泣かれているか、ということだと思います。
原理は(何かというと)私の責任だと悟る人が、
これが信仰基台の中身のお話になります。

私たちは、「メシヤを迎えるための条件」的な「信仰基台」しか勉強していません。
再臨主を説明するためのその講義案として作られたのが原理講論ですから、
原理講論も、メシヤを迎えるための条件的な信仰条件ばかり(しか述べられていません)。

本当は、創造原理の中に信仰基台があるんですよ。
堕落していないときにアダムエバが完成するための(成長)期間、
これを信仰基台といいます。

これを失ったので、条件的に神を愛する条件で供え物をしたりするのが、
これが「メシヤを迎えるための条件」です。
これは外的にやっても成功したと言われる部分がある。

本来の霊人体が成長する蘇生・完成、この信仰基台の説明がないわけですね。
ないというか、悟らなければならなかったわけです。

私たちはそういうふうにして、統一思想に帰っていって、
自分がどのようにして愛と人格、霊人体を成長させて完成いくか、
祝福を受けて無原罪になったのなら、1世も2世も
成長して完成していかないといけない。
その愛の中で生まれた子女は、財産になっていくと思うのです。

しかし、先天時代においては、
愛すべきものを犠牲にして、条件を立てる時代がありました。
これは2世にはできないですね。
1世の変態的信仰とよく言われる(笑)。

しかし、(先天時代には)お父様の指導がそうだったのです。
そういう犠牲の家庭を出してでも、
親を選ぶか、お父様を選ぶかという選択だったんですよ。
自分の肉身はサタンだという教育を受けてきたわけです。

今そういうことを言ったら大変でしょ。
2世は、親子が一つとなって祝福に行くんです。
1世は、親を捨てて神様を選ぶというんです。

愛すべきものを犠牲にして条件立てる、
こんなことをできる人は少ない、誰でもできるわけではない。
誇っていいいと思います。

神様から見たら、『こんな道をいかせてすまない』という思いでしょう。
ですから、誰が何と言おうと
お父様と共に歩んだという思いで、感謝していったらいいと思います。

1800双、777双の先輩が
謙虚に聞かれるのには頭が下がりますね。
(当時は)そういう指導だったのです。
家庭教育部も20年前にあったらよかったという声があがりますが
(そのような時代だったのです)。

2世(の立場)は違います。
2世であれば、祝福を受けようとするとき、
その傷がうずくということはあるかもしれない。
私たちには正当などんな理由があろうが、関係ありません。
親がみ旨に行って家にいなくて寂しい気持ちが当然出てくる。
その気持ちに帰っていくしかない。
もう一回ここからやろう(というように)。

去年の2月、40歳を超えた子女たちが多く祝福にいきました。
親が涙の決意をして、もう一回やり直したんです。
素晴らしいい先輩たちだと思います。
ものすごい犠牲にしてきたものがあるので。

しかし後天時代は、「愛すべきものを犠牲にする」時代は、
終わっています。

「愛すべきものを愛して完成しなさい、
愛すべきもの、夫婦、親子、それを正しく愛してあなたも完成しなさい」。
まるで反対。
創造原理の時代がきたということです。福音ですね。

愛すべき者を犠牲にして条件を立ててきた、
それが信仰と言う評価を受けてきました。

2世に話すと、「自分たちは嫌だ」と言います。
今は「目の前にいる人を愛して完成したらいい」というと
「今の時代に生まれてよかった」。

1世はそのはざまなので、両方やらないといけない。
これは、達人の信仰です。
人類歴史二度とない、この二つの信仰観を
人生でまたいでいる方なんです。
めちゃくちゃ貴重な人たちです。
教会の言うことも(以前と)変わっているでしょう。
それを一つの人生でやろうというのだから「達人」です。

復唱しますが、
「愛すべきものをちゃんと愛して完成しなさい」
こんな福音あります?

(文責:ten1ko2)

「今日はなんか厳しいな。でもしょうがないな。
責めているわけではないですよ(笑)」と言われながら
語ってくださった部分です。

蝶野部長はこの日、
原稿なしで語られました。
場の雰囲気、霊界を見ながら、
話される、という感じでした。
貴重なみ言をありがとうございました。

本来は、創造原理の中に
信仰基台があり、
信仰基台を立てれば、
自動的に実体基台(愛)も完成するといいます。

原理講論には説明されていない部分ですが、
統一思想の原相論や、お父様のみ言を通して
導き出されたものだと語っておられました。

私たち(一世)は、奇跡的な信仰、
歴史上にない、立場にいることを改めて思いました。

また、このブログは二世の方も読んでいるかも知れませんが、
二世の方たちも歴史始まって以来の立場だと思います。
三世、四世と代は繋がっていきますから、
これからは、相続をしていけばいいわけです。

「伝統と相続」
重要な立場にいることを改めて感じました。







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posted by ten1ko2 at 10:57 | Comment(0) | 夫婦講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月14日

神様にも不安や怒りはあったのか?! 聖書とみ言の観点から 《大知先生のカウンセリングルーム》



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大知(おおとも)先生 「氏族伝道の心理学」より
続編になります。


(これまでに)孤独は不安と怒りにつながると述べました。
では、神様はどうだったのでしょうか。

神様と人間は親子なので、同じ情の構造をもっているはずです。
ということは、神様も、孤独の中にあって、
孤独は不安と怒りに変わったのではないでしょうか。


それを一番読み取れるのは、モーセ路程でしょう。

出エジプトからカナンの地にたどり着くまでの荒野四十年路程の間に、
イスラエルの民の不信仰ゆえに、モーセに対して、
神様は「イスラエル民族を滅ぼす」、とおっしゃったことが何回かありました。

以下に、そのうちの一箇所(出エジプト記第三十二章九節〜十四節)を挙げておきます。

 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。

 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。

ここでは、神様ははっきりと、ご自身の怒りを表明され、
イスラエルの民を滅ぼすと宣言されています。
しかし、モーセのとりなしにより、その怒りを収められたのです。


さらに、お父様のみ言を見ていくと、神様にとって
アダムとエバは初めての子供だったので、
アダムとエバの堕落のとき、

「神様が人間には想像もできない大きな衝撃を受けられた」
(御言選集18-一九五、一九六七・六・八)というものもあります。

また、『聖書』歴史は六千年、
さらにアダムからノアまでは千六百年になっていますが、
実際にはかなりの期間がたっているとも言われています。
この期間、神様は何をなされていたのでしょうか。

神様自身も、アダムとエバの堕落がショックで、人類救済に対して、途方に暮れる思いであった、
というようなみ言も聞いたことがあります。

実際に、堕落があまりにもショックで、しかも、その結果が
あまりにも悲惨であったために、救援摂理を進める気力もなく、
「もし、アダムとエバが堕落していなかったなら、
どんな世界ができていただろうか……」という思いに
ふけられたことがあったとしても、不思議ではないように思います。

そして、神様にとって、メシヤを地上に送ることは、
世界中の海の中で、たった一匹しかいない魚を釣り上げるよりも
難しかったとも、お父様は語られています。

復帰の路程においては、人間の責任分担があるがゆえに、
神様にとっては、本当に先の見えない歩みであったに違いありません。


ところで、神の怒りということを考えていくとき、
次のようなみ言についての質問を受けることがあります。

「旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として、
『私』以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、
イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神であり、
律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。

宇宙を創造された愛の神様であるのに、
このような嫉妬と、復讐と、恐怖心と、カナン七族を
無慈悲に滅ぼすという、こんな性稟(せいひん)があっていいのでしょうか。

旧約時代は、天使が仲保となって神様に代わった時代だからです」
(『天聖経』130ページ)


このみ言によれば、神様は愛の方なので怒りはなく、
旧約時代は、天使が仲保者であったので、(天使の怒りが)神様の怒りのように
見える部分があるのではないか、だから、
私がこれまで書いてきた神の怒りというものは存在しないのではないか、という質問です。

このみ言をどのように解釈したらいいでしょうか。
それが、この質問の答えになると思います。

確かにこのみ言によれば、旧約時代の神の怒りは、神様自身のものではなく、
天使長のものであり、神様はそのようなお方ではない、と理解することができます。
だとすると、私がこれまで展開してきた論理は崩れることになります。

ただ、このみ言をそのまま受け取るには、いくつか不自然な点があります。

まず、天使は神様の許可なく、
勝手にカナンの民を滅ぼせと言ったのかどうか、ということです。
天使が勝手にそのようなことをするとは思えませんし、
天使にはそうした権限はないはずです。

次に、先に述べたように神様と人間が親子であるならば、
同じような情をもたれるはずです。
なので、先に述べたような愛の神様も
怒りをもたれることがあるという理論的な結論が出てきます。

人間と同じような情をもたれないとすれば、
どのようにして親子の心情的な出会いができるのか、この点が問題になります。

(重複等を削除するなど、多少の編集を加えています
分責:ten1ko2)


「人間と神は親子」であり、
「神は心情の神である」ということ、
これは、真のお父様が出会われた神様の根幹であり、
確信部分であります。

そして、「心情」とは、統一思想によれば、
「愛することにより、喜びを得ようとする情的衝動」となります。

しかし、愛する対象が、神様ご自身の
願いの通りにならなかったなら、
「喜び」ではなく、「悲しみ」の存在になってしまいます。

昔、キリスト教神学を少しかじったことがありますが、
その講義の中で、キリスト教の教えの一つに、
「神は至福の神である」とありました。

だから、対象がどのようになっていたとしても、
神様ご自身は、「至福」なのだ、ということです。

そのようなキリスト神学的観点からすれば、
「神様が心情の神である」というのは、違和感があるかもしれません。

神様の情の世界をもう少し踏み込んで紹介しているものであり、
生身の神様をより深く表しているものであるでしょう。

「神様と人間が親子」であり、共通点があるとしたら、
さらによく理解できるのではないかと思うのです。

続きます。




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posted by ten1ko2 at 11:06 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする