浅川先生の自叙伝書写講話です。
☆
自分と人を苦しめる“横綱級の心”があります。
番付表ではいつでも上位を保っています。
「怨(うら)み」です。
怨んで幸福になった人はいません。
怨みとは誰かを怨むわけですが、実は怨む心が自分を苦しめているのです。
怨みの恐ろしさは、
相手がこの世から消えることを望む思いに進化することです。
☆
お姑(しゅうとめ)さんの命日になると
必ずお墓参りするお嫁さんがいたそうです。
それはそれは、熱心に供養しています。
住職さんは、いまどきのお嫁さんにしては見上げたものだと、感心していました。
ところが、ある命日のことです。
供養が終わってから、お嫁さんが住職に悩み相談にきたそうです。
その話を聞いて、住職さんは仰天しました。
「実は、私は姑の命日がくるたびに苦しんでいるのです。
供養の最中、姑が私に浴びせた暴言を思い出して、
怨みが湧いてきてしまうのです。
どうしたらいいのでしょうか、もう耐えられません」。
姑が亡くなっても嫁の怨みの心は無くならなかったのです。
怨みとは相手が死んでも残存する恐ろしい不治の病なのです。
☆
人は病気になれば、必ず病院に行き、重症であれば入院して手術を受けます。
悪い菌を取り除いたり、腫瘍を切り取ったりします。
ところが、人は不思議なことに、心に付着した腫瘍は取り除けないのです。
悪なる心をしっかり身につけて離しません。
愛蔵品のように大事にしまっておく人もいます。
悪なる心は、あまりにも大切にされるので、
すっかり居心地が良くなって、心に居座っているのです。
日頃は、おとなしくしていますが、
いざとなると激しく活動して“残業”もいといません。
心の持ち主を不幸のどん底に落とすためなら何でもします。
人を傷つける暴言を送信し、
他人の叫びは受信せず、自動消去します。
たちの悪いスマートホンのようです。
このように、苦しみは自分自身の悪なる心が発動して生じているのです。
☆
しかも、悪なる心は、持ち主を
三つの「れる」に拘束して、死に至る病にかからせます。
三つの「れる」とは、まず、
過去の怨みに、「とらわれる」です。
次に、今の苦しみに、「さいなまれる」です。
そして、未来を「恐れる」です。
過去の出来事のために、現在を失い、
まだ来てもいない未来も失うのです。
「あすも、きのうと同じようにひどい目に遭うに違いない」
と、恐れを抱き、希望を捨てるのです。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
自分と人を不幸にする心
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
自分と人を不幸にする心
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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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