「怒りの神」といえば、旧約時代ですが、
現代であっても、神の怒りに触れることがあるのでしょうか。
不信仰な私なんかの場合は、どうなるのでしょうか。
そのあたりを、大知(おおとも)先生が
復帰原理と現代摂理、心理学を通して解かれています。
『神様の怒り』より抜粋します。
☆
では、真の父母様の実体的な路程の中から、
神様の不安と怒り、そしてそれらを受け止められてこられた
真の父母様について、考えていきたいと思います。
神様の怒りは、誰よりも
真の父母様に向けられていたであろうことは、先に述べました。
私たちの怒りが、夫婦間や親子間で出やすいように、
怒りは最も心情の近い人にぶつけられやすいからです。
ところで、私たち教会員(祝福家庭)に対する神様の怒りは、
どのようなものだったのでしょうか。
私たちは、神様の怒りを買うようなことはなく、
神様に慰めと喜びをお返しし続けてきたのでしょうか。
☆
出エジプト記の中に記述されている、
神様のイスラエル民族に対する怒りの場面(出エジプト記三十二章九節〜十四節)を
以前紹介しました。
エジプトからカナンの地に向かう四十年荒野路程の間、
神様がモーセに対して、「イスラエル民族をここで滅ぼす」
と言われたことが何回かあったといいます。
その度に、モーセのとりなしによって、神様は怒りを収められたのです。
☆
ところで『原理講論』によれば、モーセ路程は
メシヤのための形象的路程であり、
イエス様も再臨主は実体的路程を歩まれる、とされています。
とすれば、再臨主であるお父様が歩まれた、1945年からの
荒野40年路程の中にあっても、
モーセのとりなしによってイスラエル民族が滅ぼされなかったのと同様に、
真の父母様が条件を立てて、神様をとりなしてくださり、
その結果、神様が真の父母様ゆえに怒りを収めてくださったので、
私たちが今日地上で生きていられるのだと、私は考えます。
もし、真の父母様が神様の怒りを収めることができなかったら、
どうなっていたのでしょうか。
もしかしたら、共産主義が拡大し、私たち統一教会員は、
皆殺しにされていたという事態になっていたかもしれません。
☆
モーセに従ったイスラエル民族は、旧約聖書の記述を見る限り、
不信仰を繰り返し、モーセの重荷になっていたように感じられます。
しかし、彼らはモーセに従って、豊かなエジプトを捨て、
モーセと共に荒野の中を流浪し続けたのです。
では、私たち統一教会員は、当時のイスラエル民族ほど苦労し、
当時のイスラエル民族がモーセと一体となって荒野を歩んで行ったほどに、
真の父母様と一体となって天宙復帰の苦労の道を歩んできているでしょうか。
もちろん、真の父母様と共に、本当に苦労して歩んでいらっしゃる
教会員の方々も少なくないことを知っています。
しかし、少なくとも私自身は、当時のイスラエル民族が
モーセに従って行ったほどの信仰をもって、
いま真の父母様に侍っている、と言える自信はありませんし、
当時のイスラエル民族がモーセと苦労を共にしていたほど、
真の父母様の苦労を共有させていただいているとも思えません。
☆
ユダヤ民族は、ヒトラーによって、六百万人が虐殺されました。
再臨の時を迎え、イエス様を殺害したユダヤ民族の蕩減ゆえに、
サタンがユダヤ民族を打つことを要求し、
神様が許諾されざるを得なかった、ということです。
神様の許諾があったからこそ、
サタンは、あのような大量虐殺が可能であったというのです。
以前、共産主義との戦いのまっただ中にあった頃、
お父様はCAUSA(アメリカ社会統一協会連合)による勝共運動を南米で展開されながら、
「もし、世界が共産化されたら、教会員はみな南米に行き、
南米から再出発する」と語られました。
しかし、歴史の結果は、神様の教会員に対する憤りと怒りを
真の父母様が解いてくださったがゆえに、共産主義は衰退し、
私たち教会員は生きて地上生活を続けることができているのだと思います。
そう考えると、真の父母様は、私たちに霊的な命を下さっただけでなく、
肉身の命も救ってくださった命の恩人なのです。
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第2章 心の問題と復帰歴史
神様の怒り(抜粋)
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第2章 心の問題と復帰歴史
神様の怒り(抜粋)
☆
大知先生が語られた内容と同じく、
私自身も真の父母様に対する信仰と心情の世界は、
モーセとイスラエル民族が心情を一つにしていた基準と
合致していたか、と考えると
まだまだ乏しいと感じざるを得ません。
遠藤周作の本をよく読むのですが、
日本のクリスチャンたちが、江戸時代、
幕府からの迫害で拷問を受けた時がありました。
踏み絵を踏まなければ、苦しい拷問を受けるのです。
今、もし同じような試練にあったら、
「真の父母様に従っていきます」と言える、
そのような基準があるだろうか、
自問自答することがあります。
私自身もそのような基準ですが、
安侍日も守れなかったり、
わが家の子供たちを見てみても、
怒りがわいたり、複雑な思いになってしまいます。
そんな幼く、足りない者たちに、
真の父母様は愛と犠牲の道をいかれました。
真の父母様は霊的な命の恩人だけでなく、
肉身の命も救ってくださった。。。
本当に心から感謝してなりません。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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