第60回真の子女の日、おめでとうございます。
今回は、李ヨハネ先生のみ言。
「苦労の中でも神の心配をされる先生」(前編)を紹介します。
☆
神はひとり子イエス様がこの世を去られる時、
とても胸が痛かったとお話ししました。
ところで、第三のアダムとして来られる再臨主がこの地に来て、
再びあちこちで冷遇や虐待を受けるのを見る神は、
そうでなくても心が痛いのに、再び来られた方が、
またそのような目に遭うのを見られる心情が、
どれほどすさまじいだろうかということを考えてみてください。
心情のレベルの低い私たちが、
いくら考えてみて分かったといっても、
神のその心は分かりません。
私たちの心情では、分からないということです。
☆
私たちのような信仰者は、果たして何をもって悩む私たちなのか、
何に対して驚く私なのか、比較してみましょう。
数千万ウォンのお金を扱う人は数万ウォン、
数十万ウォンを逃しても、別に驚きません。
しかし道端に座って商売しながら、
10万ウォン、20万ウォンを集めて、
やっとつくった数十万ウォンを、ある人に貸してあげたところ、
踏み倒されたという時は、どうなりますか?
卒倒することでしょう。
☆
愛着をもっていた時間が長いか短いかによって、
胸の痛みが決まるのは神も私たちも同じです。
4千年をかけて、ひとり子のイエス様お一人を育てたのに、
そのひとり子のイエス様がこの世を去るようになったので、
天地が真っ暗になりました。
お金に精誠を尽くして失った時の驚きとは、比較になりません。
この人間世界では比較することのできない高次元の苦痛なのです。
☆
ですから、問題は信じる私たちが神の驚かれた心を
知り尽くさなければならないのです。
それさえ分かれば、この世の驚くべき出来事を、
すべて勝ち抜くことができます。
殉教者はどういう人なのでしょうか?
神の心配事を知った人です。
一つの家庭でも、父母の苦労を知っている子供は、
自分の悩みや心配、自分のおなかが減ったことなどは問題になりません。
父母を非常に愛する子供なら、自分の苦労を
父母の前にあえて出すことができないのです。
父母がこの日まで苦労したことに比べれば、
自分の苦労は何でもないからです。
職員修練会での説教
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所
☆
自分の愛する人が傷ついていたら、
心配し、胸が痛くなることでしょう。
自分が受けた傷は、
自分が乗り越えたらいいのですが、
愛する人が傷を受けているとき、
自分はどうすることもできず、
苦しむしかないのです。
それが、神様とイエス様との関係であり、
お父様と神様の関係だと思います。
天の父母様を愛する孝情のチャンピオンは
他ならない、真の父母様です。
本当に深い絆で結ばれているがゆえに、
どんな迫害を受けても、神様を思い、
乗り越えていかれました。
今日は真の子女の日ですね。
神様の前に孝行息子、娘として立ち、
神様も誇らしく思われる真の父母様。
私たちも見習っていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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曲解や悪用ととれる引用、
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(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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