2019年12月22日

教会長を一番喜ばせるためには、礼拝に・・・?! 私の生活がみ旨 《李ヨハネ先生》



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ドミニカ祝福式12.19☆


李ヨハネ先生のみ言。
今回は、『み旨に拠る生活』です。


神のみ旨は四位基台を造成することであり、創造目的を成すことです。

教会に所属されているなら、教会長の意図をよく知らなければなりません。
教会長の心配や願いが何なのかをよく知らなければなりません。

それをよく知っている人は、職員として教会のみ旨をよく尊ぶ人です。
そうでないなら、その職員は、教会を発展させる位置や、
教会を協助する立場に立ってはいない人です。


家庭でも、家族の意図や事情が一つになり、
家庭の目的が一つになってこそ、神がその家庭に臨むことができるのであって、
みなばらばらに暮らす家庭を、神はどのように助けてあげますか?

夫人は夫人の思うとおりに、夫は夫のやり方で、
子供は子供で生きていく家庭は駄目です。
それでは信じても信じなくてもうまくいきません。
これは何かの道徳論ではなく、原理がそのようになっているのです。

ですからみ旨による私となろうとするなら、
原理的な思想だけもてばそれでいいのではなく、
教会の中心がだれなのか、その方の心配や願いが何なのか、
そういうことからよく知らなければならないのです。


職員である皆さんが教会の責任者を喜ばせようとするなら、
礼拝時間に早く行くことが一番です。
時間前に参席するほど、教会の責任者を喜ばせることはありません。
焼肉定食をごちそうすることよりいいです。

毎週日曜日にきちんきちんと時間を守ってあげれば、
それこそお父様のようであり、お母様のようであって、
忘れようにも忘れることができないでしょう。
それを分かっていましたか?


皆さんが本当にみ旨による自分になろうとするなら、
教会長の意図を知り、教会長の心配を知り、
教会長がもどかしく思うことをよく知って、
心が教会長と一つにならなければなりません。

そして調子が合ってこそ、生活が合ってこそ、み旨が可能なのです。
そうなってこそみ旨による私の位置を見いだすことができるのです。

原理をいくらよく知っていても、目の前に見える、
もどかしさを抱えている教会の責任者を尊重しないなら、
それは何のみ旨を知っている人だと言えるでしょうか?


皆さんはどのようにみ旨による自分の生活をしようとしましたか?
「み旨による私」は、まず自分の生活圏内において常に公的であり、
み旨的であり、心がお互い和合することのできる
関係をもって生きなければなりません。

家庭でもそのようにし、教会に来てもそのようにしてみてください。
そういう関係を離れるようになると、私たちの心霊は沈みます。
明らかな道理です。

み旨だといって、原理や先生のみ言だけ頭に覚えておくのではなく、
私たちの生活で実際にみ旨が何かということを
考えることができなければなりません。

「あなた、私」を中心として意志が疎通しなければならないということです。
「あなた、私」を中心として遠慮なく通じ合える私にならねばなりません。

職員修練会での説教 
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所



『焼肉定食』のたとえはなんとも面白いですね。。。
確かに私も毎週、礼拝の司会を担当し、
また時には説教をさせていただくことがありますが、
早く礼拝に参加してくださる方にはありがたい思いが湧きますね。

また、何か事情はあるのかもしれませんが、
毎回のように礼拝が始まってから参加される人を見ると、
「しっかりと恩恵を受けてくださいね」と祈らずにはいられません。

相手を喜ばせること、ために生きることが原理の本質ですから、
常に教会長に喜んでいただくように生活することが、
何よりも重要であることを感じます。
そして、自分自身にも恩恵が来るのだと思います。

家族もそうですが、情が近くなればなるほど、
相手に要求したり、相手のマイナス部分が見えて、
そのことを指摘してしまったりします。
しかし、そのことによって、
何の発展もありませんね。
結果的には、『自己満足』に繋がってしまいます。

日々の生活の中においても、
家族や食口たちとどのように接するのか、
それが、『私のみ旨』に連結されていくということだと思います。
日々、努力していきたいですね。。。







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2019年12月21日

真の愛は命まで捨てられる?! 「汝の敵を愛」せるか 《浅川先生の自叙伝講話》



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真の愛とは、
自分の命までも
捨てることができるものです。


文鮮明先生


「真の愛」の道を生涯行かれた真の父母様。
そのように、命を投げ出す愛はあるのでしょうか。

韓国ドラマに「真の愛」を探してみました。
浅川節でどうぞ。


さて、真の愛を彷彿させる韓流ドラマがあります。
『ピアノ』といいます。
キリスト教の「汝の敵を愛せよ」がテーマとなっています。

このドラマを見ると、真の愛がよく分かります。


あるヤクザがいました。
それもヤクザ連中から軽蔑されるほど卑屈で根性のねじれた男です。
年老いた屋台の老人からお金を平気でむしり取ります。
泣きすがっても無慈悲に蹴飛ばしてしまいます。
全く良心の呵責(かしゃく)を感じません。

地面に落ちた小銭もなめるように掻き集めます。
恥を知りません。
人々から「犬畜生」と罵(ののし)られても気にしません。
挙げ句の果てに子供の小遣いまで取ってしまいます、
血も涙もない悪党なのです。


ところが、その男がある女性と相思相愛になります。
その女性は、未亡人で子供が二人いました。娘と息子です。
女性はピアノ教室を運営して子供を養っていました。
気立てが良く慈悲深い女性でした。

女性はこの畜生にも劣る(動物に失礼ですが)男性を愛して更生させたのです。
ヤクザは妻の愛によって本性が蘇(よみがえ)り、まともな男になりました。

しかし、長男は納得しません。
亡きお父さんを深く愛し尊敬していたからです。
なぜ、「よりにもよって、お母さんはヤクザの男と再婚したのか……」、
全く理解できませんでした。
「きっと男にだまされたに違いない」、そう思って男を憎んでいたのです。


そして、悲劇が起こります。
結婚記念日に夫婦で海に出かけ、不慮の事故で女性が水死してしまったのです。

子供は、男が「お母さんを殺したのだ」と決めつけました。
激しく男を憎悪し家を出てしまいます。
そして、非行に走り、ついにヤクザになってしまうのです。

男は何度も子供に愛の手を差し伸べますが、受け入れてもらえません。
行くたびに激しく罵られ、罵倒されます。
学校を退学させられそうになったとき、地べたに頭をつけて
校長に謝ったこともあります。
できる限りのことをしたのです。
亡き妻への思いがそうさせたのです。

「たとえ、血のつながりがなくても、妻の子を実の子として愛したい」、
その思いで尽くそうとしたのです。
しかし、全く実りませんでした。

1やがて彼は愛することに疲れ果ててしまいます。
心は傷だらけになり、満身創痍(そうい)になりました。


そんなある日、打ちひしがれて坂道を上っていくと、
懐かしいピアノの音が聞こえてくるではありませんか。
それは、聞き覚えのあるピアノ曲でした。
妻の大好きな曲だったのです。

彼は、その家の門を開けてみました。
ピアノの音が止まり、美しい女性が出てきました。
彼は、その女性に自分の悩みを打ち明けました。
女性は熱心なクリスチャンだったのです。

女性は言いました。
「それなら、教会の礼拝に参加して、イエス様の教えを聞いてみたらどうですか」。

彼は、生まれて初めて礼拝に参加しました。
そして感動したのです。イエス様は罪を犯した者を裁かず、
むしろ、彼らを救うために、自分の命を捧げたのだ……。

「人が友のために命を捧げること、それ以上の愛はありません」。

彼は悟りました。
「自分は精いっぱい、妻の子供を愛したつもりだったが、
それは、十分ではなかった。
自分の命までは懸けていなかった。
本当の愛ではなかったのだ……」。


その時から、彼は何度子供から拒否されても、
不安や恐れを抱かなくなったのです。
真の愛が、恐れをなくしたのです。

子供から何度罵倒され殴られても、彼は傷つかなくなりました。
「断るなら何度でも断れ、でも俺はお前を愛している。何も恐れないぞ……」。
彼は涙を流して訴え、愛し続けました。


やがて、事件が起きます。
子供はヤクザの抗争に巻き込まれ、一発の銃弾が打ち込まれます。
その場に居合わせた父は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく
子供の前に飛び出していきます。
そして、銃弾に当たりました。彼は血を出して倒れます。

既に意識不明になりつつあり、息は途絶えようとしています。
子供はその時初めて気がついたのです。
男は本当の愛で愛していたことを……
そして、男が命を懸けて聞きたかった言葉をかけてあげるのです。

「お父さん、お父さん、死なないでください……」。

初めて聞く「お父さん」という言葉を聞いて、
男は満たされたように息を引き取っていきます。
子供は、男の命を懸けた真の愛によって更生したのです。


後日、子供はピアノの先生にお礼をするため坂道の家を訪ねました。

懐かしいピアノの音が聞こえてきます。
幼い頃、母親がよく弾いていた曲です。
玄関の扉を開いてみました。
同時にピアノの音は止まります。

しかし、不思議なことに、家には誰もいなかったのです。
それどころか、空っぽでした。
数年来、この家には人は住んでいなかったのです。

では、あのピアノを弾く女性は誰だったのか?
ドラマはここで終わります。


文鮮明先生は真の愛について語られています。

真の愛とは、
自分の命までも捨てることができるものです。
そこにはいかなる計算もありません。

母鳥が命を捨ててまで雛を守ろうとするその心は、
真の愛そのものです。

父母はいくらつらくても愛の道を行きます。
愛の前に自分の命を投げ出していくのが
父母の愛であり、真の愛です。


(自叙伝219ページ)
浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
韓流ドラマ『ピアノ』


今回は、韓国ドラマ「ピアノ」のストーリーを紹介している感じですが、
浅川先生にかかってしまうと、
原理的に説明されてしまうので、不思議です。

やはり、キリスト教の精神で書かれているので、
「真の愛」がテーマになっています。

イエス様が、まさにこの道をいかれましたし、
その精神を受けついでいるのが、真の父母様です。

そして、私たちも祝福家庭として、
同じ心情を受け継いで、ために生きる生活、
まさに真の家庭づくり運動を
進めていかなければ、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:59 | Comment(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月20日

「あってよかった」 夫婦間のルーティーン、意外な効能 《橘先生の場合》



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橘先生のコラムから、
「ルーティンの効能」を紹介します。


「ルーティーン」といえば思い浮かぶのは、
イチロー選手や五郎丸選手といったスポーツの世界かもしれませんが、
今回はわが家のルーティーンについて(恥ずかしながら)書いてみたいと思います。
あって良かったな、と思うことがあったからです。

子供たちが小学生だった頃は、
わが家では夕食時に「はい、今日学校であったこと〜」と親が促して、
その日の出来事をそれぞれが話すようにしていました。

やがて中学生にもなると返ってくるのは
「別に」「いつもと同じ」と、思春期らしい(?)返答。
それでもたまに「今日はねぇ…」と話してくれると
親としては様子が分かってうれしいものでした。

帰宅した主人や子供たちには、(私がいる時は)両手を広げてハグでお迎えします
(中学生になると息子は照れからか、私が玄関に出て行くと、
くるっと背中を向けて靴を脱いでいました。
私は諦めじと背後からハグして「お帰り〜」)。


実家の兄夫婦は、夕食時に二人で軽く晩酌をしますが、
杯をカチンと合わせて「お疲れ〜」とお互いに言って飲み始めます。
その姿がいいなぁと思ったので、わが家でもまねました。
一緒に食べられる時は人参茶で「お疲れ〜」カチンとしています。

雨の朝は車で主人を駅まで送りますが、
降りて構内に向かうタイミングで
お互いに手を振るのもお決まりのパターンです。

送らない日は、玄関での「行ってらっしゃ〜い」ですが、
この春ごろからそれにプラスアルファの
愛情表現が加わりました(ずいぶん遅いスタートです)。

 
正直たまに、マンネリ感があるかなぁと内心思ったりしましたが、
先日はこの(暗黙の)「お約束事」に助けられることがありました。

前の晩、もうきっかけも思い出せないくらいささいな事だったと思いますが、
二人の間に気まずい空気が生じました。
そして、その距離感を解消しないまま一日を終わりました。

翌朝、当然のことながらまだやや緊張感が残っています。
それでもお弁当をカバンに入れ出かけようという時、
主人がいつものようにしてくれたことで、二人の緊張感は解消しました。
内心ホッとしたのを覚えています。

ルーティーンのありがたさを感じた一コマでした。
これからも一つ一つのルーティーンを大切に、心を込めていきたいと思います。

ルーティーンの効能
ナビゲーター:橘 幸世


橘先生のような方でも、夫婦間では、いろいろあるのだな。。。
そんなことを思ってしまいました。

もちろん、うちでもいろいろとあります(苦笑)。
そういう時には、ルーティンが役立つと思うこともあります。

私と妻のルーティン。
これは、何度か書いていますが、「ブログ」です。
どちらかというと、私はアウトドア派、
妻は、インドアタイプなので、あまり趣味が合いません。

しかし、このブログだけは、
私のルーティンでもあり、
妻も必ず、守ってくれています。

なので、夫婦間で、いろいろあったとしても、
二人で作るものですから、
作っているうちに元通りになっています。

しかも、み言を中心としたものですから、
自然と正されていくのです。
これは、本当に感謝なことだなぁ、
天の父母様に感謝せざるを得ません。

もちろん、責任分担上でも、
いろいろとあったとき、
妻に報告して、整理されることもありますが、
やはり、ブログを書くことで、
気持ちが落ち着くことが多いですね。

ちなみに、橘先生のご家庭でされていた、
「今日一日、あったこと」
これは、我が家でも、今も継続しています。

中学生の三男、高校生の長女は、
いろいろと話してくれます。
長男、次男は、アルバイトでいないこともあり、
家族の団らんの場に交われないことも増えて、
「特にない、別に」という返答も増えましたが、
それでも、こちらからいろいろ質問すると、
多少なりとも、答えてくれます。

ルーティンというのは、ある意味、
信仰に通じるのではないか、と思います。
信仰も、同じことを継続して行う、
そのことで、天との関係が深まっていくわけですから。

我が家のルーティン、
これからもバリエーションを考えながら、
継続していきたいです。





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posted by ten1ko2 at 08:11 | Comment(0) | 夫婦講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする