2020年02月29日

欧米にはない「孝」という精神 み言の感激をもって生きる! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
今回は、「孝」です。


皆さんにいつも言うことですが、
皆さんはみ言の感激を持って生きなければなりません。

自分の心が復活した感激を得るために知識が必要なのです。
知識のために知識が必要なのではなく、愛のために知識が必要です。

これを見失わない皆さんにならなければなりません。
ここに空白が入って、あいまいになってはいけません。


  父子の関係の中で子女の立てるべき道理が孝

では、私はどんな存在でしょうか。

私は、原因者である神と関係を持った存在です。
ゆえにその関係を心情で表現することができます。
「神に侍る心を持った私」が私です。

私というのは原因者によるものであり、結果的な存在なのです。

聖書では、この原因と関係を持った者を
「あかり」という言葉で表現しました。
すなわち、心情です。

この関係を徹底的に生命視しなければなりません。
これが主管関係です。
すなわちお父様との関係です。
宇宙の秘密とは、父子の関係のことをいうのです。

それでは、この父子の関係において
子女がなすべきことは何でしょうか。
孝です。

西洋倫理における結婚は、
夫婦となる二人のためのものですが、
東洋倫理においては、父母に孝行するためのものなのです。

ところで原理は、縦的な愛をもたらす親子の関係に
最も重点を置きました。
これを聖書では愛という言葉で表現しました。

しかし聖書には、子女として
父母の前にささげる心情がしみ通るように表現された言葉、
東洋の「孝」に該当する表現がありません。

「子女が父母を愛する」または「父母が子女を愛する」のように、
愛するという言葉を使うのです。

父母が子女を愛することは、
アガペーという言葉でも表現することができます。

しかし子女が父母を愛するというときには、
どんな言葉でも表現できません。

エロスとかピリア(友情)という言葉はありますが、
適切な言葉がありません。

しかし東洋には、孝という言葉があるのです。

五倫の中には「父子有親」があり、「君臣有義」があります。
この「義」という言葉と「親」という言葉は、
互いにとても関係のある貴い言葉です。

「親」は、「孝」をなして親しくなるということです。
「親」という言葉は、父と息子が一つだということです。
これには、孝がなくてはなりません。

父母から流れるアガペー的愛、すなわち犠牲的な愛と奉仕的な愛、
そして父母に対するこの上ない孝誠があってこそ、
「親」となるのです。
これが「父子有親」です。

西洋倫理にはこのような言葉がありません。

第二章 孝誠の種 生活の中の心情復活 
「孝」 李耀翰
一九八六年四月統一神学校
(この説教は、統一神学校の四年生を対象に語られたもの)


なるほど。
西洋には、「孝」という言葉がない、ということですが、
辞書で調べて見ると、「filial piety」
これが「親孝行」であるそうです。

でも学生時代の英語では勉強したことがないし、
あまり聞きなれない言葉ですよね。

アメリカに20年近くすんでいた、二世の兄弟に、
「filial piety」という言葉を使うか聞いてみたら、
言葉は知っているけれど、ほとんど使わない、
と言っていました。

私たちの教会の人は、み言を訳すので知っているのですが、
欧米にはもともとそういう精神はほとんど
根付いていないようです。

「孝」の伝統がある東洋の中で、
特に韓国は、「孝道」という言葉があるように、
親に侍る精神が受け継がれてきました。

お母様は、「孝情」というみ言をくださいましたが、
やはり韓国は独り子、独り娘を誕生させるために、
天が準備した国であり、民族である。。。
そのことを感じざるを得ません。





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posted by ten1ko2 at 10:17 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月28日

祝福が終わりではない?! 氏族復帰、そもそも何から始めるか 《大知先生》



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大知(おおとも)先生の氏族伝道の心理学。
今回は、「氏族関係の改善と氏族的メシヤ」です。


親に侍り、親子関係を本然の関係に変えていきながら、
さらにその関係を祖父母、兄弟、おじ・おば、
いとこへと広げていく必要があります。
そこに氏族的メシヤを完成していく道が見えてきます。

ところで、ここで氏族的メシヤとは何か、
氏族的メシヤを完成するとは
どういうことかということを考えておこうと思います。


先に述べたように、真の父母様は、
神様の恨の心情の解放と釈放をされ、
すなわち神様の「不安」と「怒り」を解かれ、
神様と人類の本然の関係を回復されました。
そして、その結果、人類のメシヤとしての使命を
果たされたとも言えるでしょう。

私たちも、氏族的メシヤとなるために
まずなさなくてはならないことは、
父母の不安と怒りを解いて、
創造本然の親子関係になることです。

そして、兄弟関係や親戚関係の中にある
不安と怒りをすべて解いて、
家族関係や氏族関係が創造本然の関係になった時、
その時が氏族的メシヤの完成と言えるのです。

氏族的メシヤとは、ビデオや原理講義によって
氏族圏にみ言を聞かせることでも、
親族にお願いして聖酒を飲んでもらって祈祷すること
だけでもありませんし、親族を祝福に導くことにより
氏族的メシヤが完成するわけでもありません。

み言を聞かせることよりも重要なことは、
親や親族の不安と怒りを解いて、愛と信頼に基づく、
創造本然の親子・親族関係を回復することです。

それができれば、み言を語らなくても、
自然と親や親族は統一教会に賛同的になり、
聖酒を飲んでくれるようになります。

逆に言えば、氏族がみな祝福家庭となったとしても、
氏族関係の中に不安と怒りが残っており、
本然の関係ができていなければ、
氏族的メシヤは完成しておらず、
氏族的メシヤとしての使命が残っているということです。

 
祝福を受けた二世が、家庭を出発する際には両親と同居していたけれど、
嫁姑の関係がこじれて、結局は別居してしまったという話を聞くことがあります。

こうした場合には、まだまだ解決すべき
歴史的問題が残っているということになります。

ですから、先に述べたように、祝福は氏族的メシヤの結論ではなく、
氏族内の不安と怒りがすべてなくなり
愛の関係が結べた時が、氏族的メシヤの完成なのです。


ただし、ここで注意しなくてはならないことがあります。
「両親と私は良い関係です」とか、
「うちは、親戚関係は良いですよ」という方がいらっしゃいます。

特にみ言と出会うことにより、自分自身の問題に気づき、
両親に対する憎しみが消えて許すことができた、
あるいは兄弟げんかをしなくなったという方は少なくありません。
それは素晴らしいことです。

でも果たして本当にすべてを許すことができているのか、
現状の親子関係や親戚関係で十分なのかということが重要です。


大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
氏族関係の改善と氏族的メシヤ


やはり、神氏族メシヤに立つためには、
外的な数的勝利も重要ですが、
内的な世界がさらに重要だと思います。

今回の特別恩赦においても、
天寶家庭になるために、
内的刷新と清算が成されていきました。

先日、祝福式で宿舎の同室になった、
ある教会の青年部長さんとお話ししました。

彼は、子供たちも伝道対象者、
そのような意識をもって、
8日に一度行う、安侍日の敬礼式のあと、
子供たちと一対一のモーニングをとって、
授受する時間を持っているそうです。
本当に素晴らしいと思います。

食口であろうとなかろうと、
回りにいる人すべて、
私の伝道対象者である・・・
そのような意識をもって、
歩んでいきたいと思います。





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2020年02月27日

「人類を幸せに!」 父が真理を極めた強い意志、どれほど強かったか 《浅川先生の自叙伝講話》



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浅川先生の自叙伝書写講話。
今回は、「意志さえあればできないことはない」です。


文鮮明(ムン ソンミョン)先生の意志は
自分の能力を発揮して成功したスポーツ選手や
経営者たちとは一種異なるようです。

文鮮明先生の意志は、「人を幸せにする」という心なのです。

文鮮明先生は、少年の頃から並外れた自然観察力がありました。
そのため、科学者になろうという志もあったようです。

しかし、それを断念しました。
それは、あまりにも、不幸で苦しむ人々を思いやったからです。

 

「私は人々の流れる涙をぬぐい、
 心の底に積もった悲しみを吹き払う人に
 なりたかったのです。……
 人々に幸福をもたらす者になろうという
 心だけは固まっていきました」
(自叙伝58ページ)


 
十五歳のときに、イエス様と出会って、
その志は天命となりました。

イエス様は、

「苦しんでいる人類のゆえに、
 神様はあまりにも悲しんでおられます。
 ……苦しんでいる人類を救い、
 神様を喜ばせてさしあげなさい」


と命じられたのです。


あまりにも大きな天命です。

自分と家族を救うだけでも大変なことです。
文鮮明先生の青少年時代、朝鮮半島は
日本の統治下にありましたから、
民族を救うことだけでも至難の業だったのです。

しかし、イエス様は、

「人類を救って、神様を喜ばせてさしあげなさい」

と言われたのです。

人類の中には怨讐(おんしゅう)であった日本人も入ります。
この大きな困難を伴う天命を文鮮明先生は、
イエス様の悲しい顔が胸に刻まれたがゆえに決意されたといいます。

 
最初に文鮮明先生が取り組んだのは、
「幸福の原理」を解明することでした。

人類を救うためには、不幸の根本を突き止め、
永遠の救いの道を解明しなければなりません。
幸福の原理とは、誰でも実践すれば、幸福になれる法則です。

科学者や哲学者が、その分野の原理を解明するためには、
思索に没頭できる研究室などの環境が必要です。

多くの発見は、大学教授として研究している過程でなされています。
当然、生活の安定も不可欠です。
生活に追われていては、研究に集中できないからです。
また、多くの支援者も必要です。

しかし、文鮮明先生には、真理を探究するための
研究室もなければ安定的な収入も一切なく、
支援者もいませんでした。
施設もお金もなく、支援者もいなかったのです。

むしろ、迫害する人のほうが多かったのです。

 
1950年代、朝鮮戦争のさなか、北朝鮮から脱出した
文鮮明先生は釜山(プサン)で「統一原理」をまとめ始めました。

環境は最悪です。
その当時のことを、自叙伝で触れられています。


「釜山の地は避難民でごった返していました。
 朝鮮八道の人が全部集まったかと思えるほどで、
 人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、
 お尻一つ入り込める隙間も残っていませんでした。
 仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、
 昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました」


(自叙伝122ページ)

このような過酷な環境の中で、
人類を救う『原理原本』を執筆されたのです。


 
「その頃、草梁(チョリャン)の労務者用の宿舎に
 入ることができました。
 部屋が呆れるほど小さくて、
 対角線で横になっても壁に足が当たります。

 その後、知り合いの家に泊めてもらい、
 その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして
 『原理原本』の草稿を書きました。

 極貧の生活だろうと何の問題もありませんでした。
 たとえゴミの山の中で暮らしたとしても、
 意志さえあればできないことはないのです」


(自叙伝124─125ページ)

 
文鮮明先生は、神様と人類を愛する意志で
幸福の原理を体系化されたのです。

文鮮明先生の「意志」は、神様と人類を愛する、
真の愛のほとばしりだったのです。
真の愛の実践力だったのです。

自分の欲望を満たそうとする意志ではなく、
人類を幸福にしようとする真の愛そのものだったのです。

「真の意志」には次の三つの心がありません。

“できない”という心。

“諦(あきら)める”という心。

“何かのせいにする”心。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第九章 意志さえあればできないことはない
人を幸福にする意志


若干16歳で真理(原理)解明のために
献身された真のお父様。
一般の成功者と比較にならないような
強い意志をもって行かれました。

これは無理だ、不可能だという心、
あきらめの心、
人や環境のせいにする心
三つの心をなくしていったと言います。

お父様の強い意志が
多くの困難を乗り越えさせました。
それは、神様のご心情を
誰よりもご存じであったからでしょう。

お父様が未開の地を切り開き、
天国への道筋を示してくださいました。
そして、お母様が7年路程を勝利されたのも、
神様とお父様に贈り物をお捧げしたい、という、
強い信念があったからだと思います。

次元は違えども、
私たちに与えられたみ旨においても、
真の父母様に喜びをお返ししていく強い意志を
父母様に見習うべき時であると思います。






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posted by ten1ko2 at 07:14 | Comment(0) | 自叙伝書写(浅川先生) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする