2020年04月27日

Stay home ! なので・・世界を愛するように、家族を愛してみる?!《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「世界の人々を愛してから出会う」です。


ところで今、私たちは全員が、神のために世界のために、
いろいろな仕事をやっています。
これを通して、自分のメンバーやリーダーに対し、
兄弟姉妹や自分の親に対し、
そして子供に対していかなければならないというわけです。

ですから、もし私たちが一日の生活を
本当に心を尽くして送らなかったならば、
メンバーに会うのも、兄弟姉妹に会うのも
本当に恥ずかしいという心をもたなければいけないのです。

家庭をもっている人たちは、家に入るのが恥ずかしい、
というようにならなければならないというのです。

深く悔い改めて、
「明日は一生懸命によくやって出会います」と
決意してからでなくては、そういう条件を立ててからでなくては、
自分の家に入って相対者に会うこともできなければ、
子供にも会うことができないというのです。

子供も同じです。
自分の生活において子供としてやるべきことを
やらない限りは、親にすぐ会うことが
苦しいというようにならなくてはなりません。


ところが今私たちは、子供の立場にある人も、
親の立場にある人も、それらを構わないで出会っています。
それは、私たちの間違っているところです。

私たちは親にしても子供にしても、
何か誤ったことをした場合には、親に出会うのが怖い、
子供に出会うのが怖い、というようにならなくてはいけません。
それを考えなくてはなりません。

「怖い」と感じさせられるということは、
世界を愛して、世界において
自分の任された仕事を勝利して
会うようにしなさい、という警告なのです。

 
今話したことは一つの仮定ですけれども、
私たちが神に出会うに際しても、真の父母に出会うに際しても、
世界の人々を愛する道を通してのみ
出会うことができるというのです。

逆に、神が私たち人間に対する出会いにしても、
真の父母が私たちに対する出会いにしても、
真剣に心を尽くされるというのです。

さっき私が皆様に話したごとく、
先生がカナダの教会のメンバーたちに出会うに際して、
「私は心をそこに向けて来ていないから、そこを訪問することができない」
というような先生の私たちに対する心掛けを、
私たちは身に着けなければいけないというのです。

神は人間に出会うために、全力全霊全愛を投入して人間を造り、
人間に出会われました。
ですから、それと同じく、私たち人間の神に対する出会いも、
神が人間のために全力全霊全愛を投入して出会われたごとくに、
全力全身全愛を投入して神に出会わなければならないのです。

ですからこれから私たちは、お互いに良き出会いをするために、
自分に任せられた使命を全うしていかなければなりません。

世界を愛して、天宙を愛して、神を愛する、
この道が私たちに任せられた使命であるわけです。

この使命を私たちが見事成就することによって、本当の意味で
メンバーたちに出会うことができるということを、
私たちはこれから考えていかなければいけません。

   
もし私たちが、兄弟姉妹お互いに簡単に会えるものだと
考えるならば、それは絶対に間違った考えです。
兄弟姉妹に会うということをよく考えてみてください。

どのようにして会うことのできる兄弟であり、
どのようにして会える相対者であるか、
どのようにして会える子供であるか、
これを忘れてはいけないというのです。
これが使命です。

私たちは今まで、ただ漠然と出会っていました。
これは間違ったことでした。
出会うというのはこういうものではなく、
世界を通して出会うということです。

夫婦の愛にしても、相対者としての責任を
全うして会える者が真の相対者だというのです。
親としての責任を果たしてこそ、子供に会えるというのです。
子供としての責任を果たしてこそ、親に会えるというのです。

それを果たさずしては会うことができないのが、
親子の関係、兄弟姉妹の関係、メンバーとメンバーとの関係
だということを忘れてはいけないと思います。

これが神が歩いた道であり、先生が歩いた道であり、
ゆえに私たちも歩いていかなければならない道であるのです。

これをしないから、夫婦の間にも、親子の間にも、兄弟姉妹の間にも、
メンバーとメンバーとの間にも、全部問題が起こってくるのです。
出会うということは、それほど大事なことです。

「理想的な出会い」
世界の人々を愛してから出会う
(1981年9月27日ベルベディア)


人との出会い、特に家族との出会いに対して、
元弼先生は、詳しく説明してくださいました。

当たり前のように思っていた出会いは、当たり前ではなく、
世界の人々を愛してから出会う。。。ということ(!)

実際は、世界中の人々を愛することは不可能ですが、
すべての人の親である、天の父母様と
真の父母様を愛していくならば
世界の人を愛することになるのでしょうか。
関心をもち、意識すれば違うと思います。

妻というのは、「全世界の女性の代表」
お父様はそのように表現されますが、
そのようなことなのかもしれません。

今、STAY HOMEと言われている時なので、
さらに家族を貴く思って接していきたいと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 10:09 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月26日

Stay home ! 観光に出掛けなくても、自然を満喫できる?! 《浅川先生》



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天正宮の花*

大宇宙のあらゆる存在物は、
一つとして
神の心情の外で
生まれたものはありません。
木の葉一枚揺れることにも
宇宙の息遣いが宿っています。

自叙伝「平和を愛する世界人として」より


浅川先生の自叙伝書写講話。
今回は「自然との交感を楽しむ人」です。


人は誰でも幸福を求めて生きています。

そのため、時として仕事や家事の忙しさから解放されて
自然を満喫しようとします。
心の疲れを解きほぐそうとします。
自然を観光しに行きます。

観光は、“光を観る”と書きます。
文字どおり、人生の「光」を「観る」ために行くのです。

日本には、たくさんの素晴らしい観光地があります。
北海道の大自然、箱根、芦ノ湖、富士山、そして、九州の雄大な阿蘇山。

では、有数の大自然でしか、光を観ることはできないのでしょうか。
観光地に行っても、必ず、家に帰らなければなりません。
翌日から、仕事と家事が待っています。

もし、大自然の観光しか、心を解放することができないならば、
人生のほんの一時しか、幸福を満喫できません。
富士山の山頂に庵を立てて住むわけにはいかないのです。


しかし、ご安心ください。
文鮮明(ムン ソンミョン)先生は、「全て」の自然との触れ合いが、
人間を幸福に導くと言われます。
観光地の素晴らしい大自然だけではなく、全ての自然と言われるのです。

観光地が箱根だったとします。
東京から車や電車に乗って箱根に行きます。
箱根で山や湖を観光して、心が安らぎます。
温泉につかって体をリフレッシュさせます。

そして、再び帰ります。
疲れているので、寝てしまいます。
(運転手は起きています)

では、箱根に行く途中に、自然は全くなかったのでしょうか。
そんなことはありません。
自然だらけです。

道路脇には雑草が生い茂っていました。
花も咲いていました。
遠くに山がそびえていました。
そして、空があり、白い雲がたなびいていたのです。
鳥も飛んでいました。

自然の中を通って箱根に着き、
自然の中を通って自宅に帰ったのです。

でも、途中では、感動しませんでした。
どうして、有名な箱根を観光して、
途中の自然は観光できなかったのでしょうか?


自然に貴賤(きせん)、上下があるのでしょうか。
交通費のかかる箱根の自然は尊くて、
無料で見れる雑草は卑しいのでしょうか。
毎日、会社や学校に行く途中で足元に咲いている
花や雑草は、見る価値がないのでしょうか。

そうではありません。
全ての自然万物には尊い価値があるのです。
「光を観る」ことができるのです。

もしも、私たちがそのように感じられれば、
毎日、観光地で生活していることになります。
歩くだけで、幸福を満喫できるのです。
無料です。

では、どうしたら、そんなお得なことができるのでしょうか。
 

それが、「一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている」
ことを感じ取る心、なのです。
自然万物に神様の愛を感じる心が、なければならないのです。

それができる人を、「自然との交感を楽しめる人」
(自叙伝52ページ)だと言われます。

人間に幸福をもたらすのは、すべての自然に神様の愛を感じる心なのです。

文鮮明先生は、道端に咲く雑草やタンポポが、
世界的名画や歴史的展示物より尊いのだと言われます。


「神様がつくられたすべての存在を
 愛の対象として感じなければなりません。
 博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、
 生きている神様の作品には及びません。
 道端に咲く一輪のタンポポが新羅(古代朝鮮半島の国家)
 金の冠より貴いのです」

(自叙伝316ページ)


「門前の、何の価値もなく立っているように見える
 一本の木を見ても、世界の名作、画家が描いた
 どのような絵とも比較できません。
 いくら絵を眺めても、そこに花が咲きますか?
 香りがありますか? ないのです。

 ところが、木からは種が生み出されるのです。
 その種を植えれば、その木よりも素晴らしい木が
 いくらでも出てくるのです」

(『天運を呼ぶ生活』168─169ページ)


世界的画家の一人に、ゴッホがいます。
有名な「ひまわり」を描きました。
おそらく、時価で、何十億でしょう。
展示会があれば、美術愛好家たちは美術館に殺到します。
自動車、電車に乗って、入場料を払って鑑賞します。

ある、ゴッホの絵に魅せられた人がいたとします。
夏の季節でした。車で三時間かけて、美術館に来て、
「ひまわり」を見て感動して、車で帰ったとします。

この人が価値を認め感動したのは、ゴッホの「ひまわり」の絵でした。
ところが、その道筋には、
ひまわりがたくさん咲いていたのですが、全く気づきませんでした。
本物のひまわりには感動しなかったのです。

では、絵画の「ひまわり」に価値があって、
道端の「ひまわり」には全く価値がないのでしょうか。

文鮮明先生は、道端に咲いている「ひまわり」が、
ゴッホの「ひまわり」より、価値がある、と言われるのです。
なぜなら、いのちがあって、香りがあり、繁殖するからだと、いわれます。

絵画の「ひまわり」はどんなに見事であったとしても、
香りを発散しません、たくさん増える、ということもありません。
美術館が、ひまわり、だらけになります。

道筋の「ひまわり」は神様の作品そのもので、人の手をかけていません。
道端こそ自然の大美術館で、
「ひまわり」が神様の手で展示してあるのです。

もし、心の門が開けば、道端の、ひまわり、に
神様の光を、観ることができるのです。

すべての自然に神様の愛を感じる人を、
「自然との交感を楽しむ人」というのです。


「自然との交感を楽しめる人であってこそ
 正しい人格が身に付くと言えます。
 ……自然も、人も愛せない人は、
 神を愛することができません」

(自叙伝52ページ)

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている
自然との交感を楽しむ人
お父様の自叙伝のみ言は
下にも添付しました

お父様が自然を愛される世界、
自然の価値を感じられる世界、
神様の心情を中心にとらえておられます。

これからゴールデンウイークに入りますね。
通常ならば、自然を求めて、山や海に
レジャーシーズン到来でしょう。

しかし、ご存じのようにコロナ事態により、
「観光地には来ないでください」
と、自宅待機が願われています。

今こそ、お父様のように、
道端に咲く一輪のタンポポに
神様の愛を感じる、
感性を鋭敏にしていきたいと思います。





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*自叙伝「平和を愛する世界人として」より

私たちの周りに存在するすべてのものは、
想像もできないほどの複合的な力が
結びついて生まれているのです。また、
その力は密接に連関して相互につながっています。

大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして
神の心情の外で生まれたものはありません。
木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。

(自叙伝51ページ)


自然を大切にして保護する近道は、
自然を愛する心を持つことです。

道を歩いていて一株の草を見ても、
涙を流すことができなければなりません。
一本の木を抱きかかえて
泣くことができなければなりません。
一つの岩、一瞬の風にも、神様の息遣いが
隠れていることを知らなければならないのです。

自然を大切にして愛することは、
神様を愛することと同じです。
神様がつくられたすべての存在を
愛の対象として感じなければなりません。

博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、
生きている神様の作品には及びません。
道端に咲く一輪のタンポポが
新羅の金の冠より貴いのです。
(自叙伝316ページ)



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2020年04月25日

私たちは一人ではない *地域化*は、神時代の言葉、共になす国づくり 



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「天勝殿」奉献式2.8


本部・入山部長の地域化講座が「Blessed Life」で
シリーズ化されています。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』
より、冒頭部分をどうぞ。


  はじめに

「地域化」という言葉が
よく使われるようになったのはつい最近のことです。

なぜこのような言葉が出てきたのでしょうか? 
それは、「時代が変わった」からです。
時代の要請で生まれてきた言葉なのです。

天の摂理の目的は不変なものですが、
その手段は時代に合わせて変化もします。

「今は成約時代ではなく、天一国時代です」と、
真(まこと)のお母様が語られています。
「天一国時代」にふさわしい教会づくりが始まったのです。

「天一国時代」は、神氏族メシヤの時代です。
ですから、神氏族メシヤが活躍できる教会づくりが必要です。

今まで、教会の活動と氏族メシヤ活動は希薄でした。
しかし本当は、教会の成長(発展)と氏族メシヤの勝利は、
車の両輪のように、同時並行的に、共になされるはずだったのです。

今日を迎えるまで、誰もが全力投球、
死生決断、実践躬行(きゅうこう)で歩んできました。

いったい、何が足りなかったのか。
それを明確にすることが、新しい出発には必要になるでしょう。

これまで、氏族メシヤ活動といえば、
ともすれば各家庭がなすべきものと考え、
孤立しがちであったように思います。

神氏族メシヤの立場に立つ祝福家庭は、氏族のアベルです。
もう一度、アベルのなすべきこと、カインとの関係などを、
復帰摂理と真の父母様の勝利路程を確認しながら、
神氏族メシヤの勝利の道を探りたいと思います。

「天一国時代」は、天一国を定着・安着させていく時代です。

長かった、荒野移動時代は終わりました。
したがって、天国は「行くところ」ではなくなりました。
私たちは、天国に「到着する」時代を迎えたのです。

ですから、「天国はどこですか?」と聞かれたなら、
「ここですよ」と、自分の足元を指し示すべき時代となりました。
これまでの経験では、誰も答えを出せない、新しい時代なのです。

一人のリーダーだけが答えを知っていて、
そのリーダーに従ってさえいれば勝利できる時代ではなくなりました。

何をつくりたいのか、何をすべきなのか、
一人一人が知っていて、協力し合いながら、
共に考え、共につくり出すことが必要なのです。

「天一国時代」は、実体的な天一国主人の時代です。
真の父母様は、天国は、
「つくるもの」だということを教えてくださいました。

主体的に天国をつくる人が、「天一国主人」です。
自分の家は自分で建てるように、
自分の国を自分でつくる時代です。

それは、自分の住んでいる足元の「地域」から始まります。

地域化とは、地域の天一国化です。
そこには、苦労もありますが、
建設する喜びと希望が生まれてくるでしょう。

「地域教会づくりが国づくり」であり、
「地域集会づくりが国づくり」なのです。
本書が、そのための一助になれば幸いです。

二〇一八年十月
入山聖基

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(1)
入山聖基・著
 「スマホで立ち読み」コーナー第9弾
Blessed Lifeより


時代の最先端が、「地域化」です。
ちょっとハードルが高いキーワードのような気もします。

しかし、実際に取り組んでいる教会もありますし、
本当に復興していると言います。
近くの食口同士が集まって、集会をすると、
その場が離れがたくなるほど、
ずっと授受しているそうです。

このように地域化は大切ですが、
さらにコアになるのが、「家庭集会」かと思います。
家族が一つになるところは、神様も喜ばれます。

そういう意味では、コロナ事態のこの時、
家庭礼拝をおこなう、ということが、
どれほど貴重なのか、ということを感じます。

お一人様家庭は、地域の結びつきが
より重要でしょうが、
家庭集会の延長線上に、地域化があります。
ですから、土台の土台作りである、
家庭集会、家庭礼拝をしっかりと行っていきたいと思います。






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