2020年05月28日

小さなチップ一つで、全世界が動く?! 私はなくてはならない存在 《李ヨハネ先生》



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手足も指の一本も大切であるように、
ある一つの存在というものは、
全体を代身した一つ──

李ヨハネ(イ ヨハン)先生の
信仰サプリ、
説教「一人の人」の続きです。



一人の責任

すべての存在は、それぞれの創造目的のために
つくられたとおりに、ある役目を果たしています。

機械一つとってみても、非常に小さい付属品の一つでも、
もしそれがなければ力が出せません。
本当にこれを見て驚きました。

例えば、紙切れみたいなパッキングーつをはめて発動させると、
とても力強く動きます。
しかし、機械を長く使うと、そのパッキングも古くなってきて
パッキングの役目が果たせなくなり、
そのとき機械の発動は持続できなくなります。


人は心情の存在です。
ところで心情の誘発は、とても小さなことを通してなされます。
とても小さいことを通して心情を発動させなければなりません。

心情を保って心情的な発動をさせるというのは、
機械を発動させることよりも難しいことです。
愛というのはもっと難しいものです。

心情はお互いのサイズがきちんと合わないと
発動しないようになっています。
きちんと合うとき、あなたであり私であるという
心情の発動が起こります。

人間が作った機械も精密ですが、神が創造した人間においては、
愛を持つべき存在として、
どれほど精密につくられたかということを皆さんは推測できるはずです。

さあ、機械の小さな一つの付属品のように、
自分はいかなる分野であろうとなくてはならない自分であり、
どこまでも自分の存在位置で
必要とされなければならない自分であることが分かります。


この責任を果たすことにおいては、
自分を肯定することができません。
人は一生、自分を肯定できません。

全体との関係の中にあるので自分を肯定できないということを
知らなければなりません。

すべての機械が有機的な関係を持っているように、
自分という存在は全体目的のためにある者として、
自分が自分の責任を果たせなければ、無用の者です。
自分の責任を果たせなければ、落ちて出ていってしまうのです。

心情世界で授受できない人は、すぐに疎外され、
相対基準を結べずに審判を受けるでしょう。

今日私たちの家庭、社会、国家、世界においても、
あるいは心情の世界においても、授受できなければ埋もれてしまいます。
だれも相対しないというのです。

生活の中の心情復活 李耀翰
「一人の人」
一人の責任
1984年4月3日(火)統一神学校
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


「一人一人が大切な存在である」
というのは、先日子供たちに、
家庭礼拝で少し似たような話をしました。

今日のお話を読みながら、
子供たちに話すよりも、
私自身の心に留めておかないといけない、
そのような思いになりました。

自分に与えられた責任を果たせないと
ヨハネ先生が語られているように、
疎外されるような思いにさせられます。

たとえ足りない存在だとしても、
私は全体のために、全体を活かすために、
なくてはならない存在である、
そのようにとらえることによって、
私の存在価値を見出すことができると思います。

意識の転換、
私の存在位置というものを
明確にしていく必要がある、
改めて感じさせていただきました。





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posted by ten1ko2 at 08:02 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月27日

神様はカインを愛している! アベル殺害は、神がわからなかったから 《入山部長》



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入山聖基部長の講座
『〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』
「カインの祭物」続編です。


神様はカインも愛していました。

復帰摂理における救いの対象は、アベルだけではありません。
カインもその対象です。
むしろ、条件的に一番神様から遠いカインが救われてこそ、
救いの目的が成就するのです。

しかし、カインにはそれが分かりませんでした。


供え物を取られなかったとき、
「カインは大いに憤って、顔を伏せた」(創世記四・5)
という話を聞けば、カインが受けたショックのほどがうかがえます。

カインもまた、アベルと同じように、神様に供え物をし、
受け取られ、祝福され、認められたかったという
強い気持ちを持っていたことを表しています。

確かに、サタンの血統となったアダム家庭の長子として、
堕落の影響を受けやすい立場にあったカインは、
悪人となる素養を持っていたかもしれません。
血気怒気に走りやすい、粗暴な性格だったかもしれません。

しかし、だからといって救われたくない、
神様の祝福を受けたくないとは限りません。

カインもまた、自分の中の悪に苦しみながらも、
救いを求めていたのです。
その心の叫びを、誰が理解してあげるべきだったのでしょうか?

結果としてカインは、アベルに嫉妬し、殺してしまいました。
神様に供え物を受け取ってもらえなかったことが、
事件の発端になっています。

カインは、間違った思い込みをしました。
供え物を顧みられない神様の「態度」を見て、
自分は神様に嫌われていると思い、
存在が否定されているかのように思ったのです。

親から見捨てられた子供のような気持ちになりました。
「自分は親から愛されていない」という思いは、
絶望をつくりだし、「もうどうなってもいい」と、
自暴自棄になりました。

そして人を殺す──。
これがカインが殺人者となった動機です。


最近、日本の社会において、
「だれでもよかった」という直接の怨恨関係なき、
通り魔的な殺人事件がしばしば起こります。

そうした事件の背景を見ると、親から見捨てられたと
思うような家庭環境があることが多く見られます。
皮肉なことですが、
人は愛がなければ生きられないことを示しているのです。

彼らは世の中に腹を立てながら、
自分という存在に腹を立てているのです。
彼らは人を殺しながら、実は自分をも殺しているのです。

自殺者の動機も、殺人者の裏返しで、同じ面があるように思えます。


自分は神様、親から愛されていない
──カインはそう思っていたのです。

カインが抱いた思いが、現代社会においても
そのまま続いていることが分かります。
偽りの愛に基づく思いが新たな生命を生んで、
それが血統として後孫までつながっていくのです。

神様はカインを愛しています。
悪人をも救おうとしています。

しかし、カインは神様から愛されていないと思い込んでいます。
想いがすれ違っているのです。
これほど切ない話があるでしょうか?

「わたしは、それでもおまえを愛している」という
神様のこころがカインのこころに届くとき、
その恨みが解けていき、復帰が始まるのです。

入山聖基・著
『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(5)
第一章 カインの祭物
すれ違った想い


神様に愛されていることがわからず、
神様の意図や摂理がわからなかったカインは、
愛の減少感にとらわれてしまいました。

そういう時、
「神様は本当は愛しているんだ」
そのことを悟る、というのは簡単ではないと思います。

自暴自棄になり、自分を整理する、
余裕などないのかもしれません。

その時に現れるべき存在はアベルです。
神様のこころを伝える、
カインを愛する使命があったというのです。

続きます。




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2020年05月26日

(証し)親に敬拝してみたら、自分でも信じられないことが?! 《氏族伝道の心理学》



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氏族伝道の心理学
「親への敬拝について」の続き

実際に敬拝すると、
このような、驚くような結果が──
二つの証しです。


以前、ある方からメールを頂いたことがありました。

その方は教会で献身的に歩んでいた方でしたが、気持ちがとても不安定で大変だ、
というので、私のところに相談に来ました。

その方にこの成約牧会カウンセリングの内容を伝えたところ、
「私の心は不安と怒りでいっぱいです」と言いました。
そして、「親子関係の問題であることもよくわかっています」とも言いました。

その方は、小さい頃に両親が離婚し、母親に引き取られました。
そして、母親と祖母と一緒に住んでいたそうです。
そして、その母親と祖母から、いつも父親の悪口を聞かされていたといいます。

それで、「父親のことが嫌いで憎んでいたし、
同時に悪口を言う母親や祖母のことも嫌いで憎んでいました」と言いました。

私は、その人に、父母と先祖に敬拝をするよう伝えました。
そして、それを実行したそうです。
その後しばらくして、その人から一通のメールを頂いたのです。
それをご紹介します。
(私信なので、内容を一部割愛しています)


 お久しぶりです。

 ばあちゃんと母に敬拝を捧げさせていただいたときに感じたのが、
 過去の出来事や現在の心情はどうあれ
 『祖父母に、親に、敬拝を捧げる』という行為を通して、
 親に侍る(過去に対する許しとか、親としての絶対的な肯定とか、敬う)
 ことができるんだなぁと感じました。

 そして、祖父母を、父母を肯定すると、
 自己肯定にもつながるんだなぁと、
 なんとなくですが、実感しています。

 実の親に敬拝を捧げさせていただいてから、
 大知先生が言われていた、「宗教儀式としての敬拝」と
 「真の親に敬拝を捧げる」ことに差があると感じるようになりました。

 真の父母様に敬拝をさせていただくときの心情が、
 少しずつですが、親に敬拝させていただいている感覚に
 なってきているように感じていまして、驚きの変化です。

 今までは、真の父母様を親だと思っていいんだろうかと、
 よく思っていたのですが、敬拝という行為を通して、
 親子関係という動かし難い事実があるように感じています。

 父母に敬拝→心情一体になること、というような内容も、
 聞いてはいたのですが、実感していなかったなぁと思っています。

 敬拝という文化を通して、
 父母様を父母だと思えるようになるのが驚きですし、
 とても不足な息子ですが、真の親に
 敬拝を捧げることができるようになれるんだ、と思いました。

 よく考えると、○○家の先祖の中で、
 親に敬拝を捧げることができたのは僕が最初だなぁと思いながら、
 長い歴史の中で、真の親がいなかったんだなぁと、
 改めて感じさせていただいたり、父母の尊さを感じさせていただいております。

 次は、父親に敬拝を捧げられるように、計画していきます。
 本当にありがとうございます。

 
もう一つ紹介します。
これを書かれた方は、拉致監禁被害者の方で、
米国に在住の日本人です。

米国での私の講演を聴き、
父母に敬拝を捧げたことを証してくれました。(一部略)


 実は私も親に対する恨みが解けた、
 ということで証したいことがあります。
 アンビリーバボな体験です。

 私はシカゴで講義を受けたんです。
 私の場合、親に対して、恨みと恐怖が入り混じって
 これを解決なんて、霊界に行くまで無理、
 拉致問題以前に親子関係は頭の痛い課題でした。

 大知先生は、
 「親はたとえ殺人を犯した親であっても敬う対象である。
 まず、敬拝をしなさい。写真でも結構です」と言われました。

 実体の親になんてとても、できないけど、写真でいいのか……。
 とだまされたつもりで敬拝をしました。

 二十年以上会っていない親ですが、
 捜したら両親の写真が奇跡的に一枚、見つかって、
 それに向かって毎日、敬拝をしました。
 形だけでもいいと先生は言っていましたから。

 ……それで、ある日、気がついたことは、親とのいい思い出や、
 親のいいところがいっぱい思い出されて懐かしくなってきたんです。
 不思議にも、親とはこんなにも有り難いものなんだとさえ思えるようになり、
 自分自身も受け入れることができるようになりました。

 その後、やることなすことなんでもうまくいくようになり、
 怒らなくなってきました。

 先生は「決して怒ってはいけません」などと不可能なことを言っておられます。

 しかし、これは自分が親との信頼関係を取り戻すと、
 自然にあらゆることを受け入れやすくなるということです。

 自分が随分、楽観的な人間になったみたいで、
 つまらないことで、いらいらせず、何を見ても感謝、
 ありがたいと思えるのが不思議です。


宇宙は、本来、発展するようにできているので、
どんなことが起こっても、それは過程にすぎないんですね。

霊的秩序を立てる(儒教精神でも親子は絶対)、
たったこれだけのことがどれほど重要かということ、
また、韓国の文化を相続することが天国生活の基本だということを知りました。

自分の父母に敬拝を捧げることにより、親子関係が変わり、
そして自分自身の心の問題が解決していくこと。

さらに自分の親子関係が変わっていけば、
真の父母様と私との関係も変化していくことが理解していただけると思います。

ですから、ご自身の両親やご先祖様に敬拝を捧げてみてください。
まずは両親の写真に敬拝を捧げることから始められたらいいと思います。
そして、次の帰省の時には、ぜひご両親に、そして先祖のお墓に敬拝を捧げてください。

そして、敬拝を捧げることを第一歩として、親に侍る生活を始めてください。

大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
親への敬拝について


二つの証し、素晴らしいですね。
しかも、後者の証しは、
実体ではなく、写真に向かって敬拝を捧げました。

もちろん、実体が一番いいでしょうが、
写真に向かって捧げることを通して、
心情が復帰されるのだ、と思います。

遠く離れた両親や、
もう他界した親や先祖にも
敬拝を通して孝行をし、
さらに自らの心情を深めていくことができる、
敬拝がここまでに素晴らしいものだったとは・・・

改めて、にはなりますが、
真の父母様に捧げる敬拝も、
お写真に向かって捧げています。
しかし、このことも実体に捧げるのと、
同じ意味があるのだということになります。

敬拝に対する意識を変えて、
取り組んでいきたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 07:31 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする