2020年06月24日

一度きりの人生、誰にも聖人になれる道は開かれている?! 《松本雄司先生》



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☆天正宮のバラ☆


APTFの小冊子『真の家庭』より
松本雄司先生のコラムを紹介します。


  人生は一度きりしかない

人は誰でも、天から“一つの命”を与えられて、
この世の人生を歩む機会が与えられます。
裕福な家に生まれようと、貧しい家に生まれようと、
この点では平等で変わりがありません。

「死んだらどうなるか」という疑問に対しては、
各人の人生観によって様々な見解がありますが、
自分の「この世での人生は、ただ一度きりである」
ということは明確です。

だからこそ、どのように生きるかということが問題です。
時の流れに身を任せ…というような凡庸な人生ではなく、
死ぬ時に後悔のない充実した人生にしたいものです。

そのためには、「価値ある目的のために生きる」
ということが必要です。


  一般的な人物評価と本当の評価

「棺(かん)を蓋いて(おおいて)(こと)定まる」
ということわざがあります。

人の評価は生きているうちは利害や感情が絡むのでわかりにくい。
死んだ後にこそ、その人物の真の価値がわかる...という意味です。

自分が死んだ時に、心の底から惜しみ、悲しんでくれる人が
何人いるか...それが問題です。

それは、今の自分に心から感謝し、尊敬し、慕ってくれている人が
果たして何人いるのか? ...ということを考えてみれば、
おのずと答えが見えてきます。


一般的には、私たちはある人物を評価する時に、
その人物の「能力」の大きさで評価しています。
つまり、その人の学歴や職歴、社会的な地位や業績などで
判断していることが多いのです。

もちろん、私生活の面で倫理に反することをすれば評価は下がるので、
道徳的基準での判断もしますが、おおむね、
頭の良し悪しとか、身体能力とか、仕事の能力などで判断しています。

そこで、多くの人々がスキルアップのために、
時間とお金と労力を注ぎます。
この世で裕福になったり有名になったりして、
成功者になるためにはそれが役に立つからです。


しかし、私は、ある人物の「真の値打ち」というものは、
その人の「能力の大小」によって決まるというよりは、
その人が「何のために生きたのか」によって決まるのではないかと思います。

また、人間には「能力」だけでなく、「愛情」という分野がありますから、
別の言葉で言えば、
「何を、どれだけ愛したのか」によって決まるということです。


  私の人生を“何”にかけるか

 私 ×「自分」= 個人的人物
 …私が私のために生きれば、死んでも誰も惜しんではくれない。

 私 ×「家族」= 家庭的人物
 …私が家族のために生きれば、家族が感謝し覚えていてくれる。
 
 私 ×「親族」= 氏族的人物
 …私が親族のために生きれば、親族が感謝し覚えていてくれる。

 私 ×「地域」= 地域的人物
 …私が地域のために生きれば、地域の人々が覚えていてくれる。

 私 ×「国家」= 国家的人物
 …私が国家のために生きれば、国民が感謝し覚えていてくれる。

 私 ×「世界」= 世界的人物
 …私が人類のために生きれば、世界の人々が覚えていてくれる。

 
つまり、自分の能力が大きかろうと小さかろうと、
その差が問題ではなく、その能力を
「何のために用いたのか」ということによって
人生の値打ちというものが変わってきます。

従って、私たちは自分の能力が他人より劣っていても
失望する必要はありません。
自分が「何のために生きるか」、
「何をどれだけ愛するか」が重要なのです。

たとえ、自分は小さな者であっても、
「崇高な理想」「価値ある目的」のために生きれば、
“尊い人生”になります。


  誰にも聖人になれる道は開かれている

そういう意味では、最高に価値のある人生というのは、
世界・人類よりももっと大きいもののために生きること
…すなわち、宇宙の根源者、天地の創造主のために
一生を捧げた人こそが、最も偉大な人生を送った人と言えるでしょう。

そう考えれば、イエス、釈尊、孔子、マホメットのみならず、
シュヴァイツァー博士やマザー・テレサのように、
神と人類のために生きた人たちも皆、聖人と呼ぶべきでしょう。

さらにもう一歩踏み込んで言えば、たとえどんなに小さく貧しい者でも、
天のため人のために生きれば、聖人と等しい
価値のある人生を送ることができるのだ…ということができます。


神を愛し、人を愛し、祖国を愛した内村鑑三は、
その信念を自らの墓碑にこう刻んでいます。

I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.

「我は日本のため、
 日本は世界のため、
 世界はキリストのため、
 そして、全ては神のために」


愛の知恵袋 123
人生は掛け算...「何をどれだけ愛するか」
(APTF『真の家庭』243号[2019年1月]より)
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)


私たちは、人生は地上での生活だけでなく、
霊界に旅立っていく、ということを知っている者たちです。

目に見える物、外面的な価値は、
霊界には持っていくことができないことを知っています。

しかし、そういった物に意識を奪われ、
価値を追求してしまう私たちの姿です。

本当に必要なのは、
一つ一つの物事をどのように感じていくのか、
そのことが重要だと思わされます。

話は飛びますが、
今、お母様が最も意識しているのが、
「救国救世・国家の復帰」なのだそうです。

そこに意識をしていくことを通して、
絶対善霊が間違いなく協助する、と言います。

ですから、私たちの一挙手一投足も
ちっぽけな歩みであるかもしれませんが、
「国家の復帰」のために歩んでいる、
まさに内村鑑三の精神で、
大義を抱いて歩んでいきたいと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 07:29 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

北からの生還と韓国動乱、独生女5歳と7歳の奇跡 《浅川先生・10大奇跡》2



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漢江大橋爆破(1950年6月28日2時30分)


浅川 勇男先生の
「『平和の母』に見る10大奇跡」より、
今日は、
「第2奇跡〜北朝鮮脱出と朝鮮戦争危機回避」です。

奇跡の連続の、北からの脱出劇、
さらに2年後、韓国動乱が勃発し、
ソウルからも逃れなければなりませんでした。

 
サタンは、(数え)6歳まで
神の独り娘(韓鶴子総裁)を殺害できませんでしたが、
北朝鮮に拘束さえしていれば、
いつでも殺害蹂躙(じゅうりん)することができました。

この期間は、独り娘の命を巡る神とサタンの
壮絶で激しい戦いの分水嶺であり、
一瞬一瞬が生死の岐路を分かつ奇跡の連続でした。

祖母(趙元模)は南に行くことを決断します。
祖母の息子(韓鶴子総裁にとっては叔父)が南の軍隊にいたからです。

「天は叔父に対する祖母の切実な思いを通して、
 私たちが出発できるように役事(やくじ)されたのです」

(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』77ページ)


(1948年秋、)祖母、母(洪順愛)、娘の三人は、
200キロメートルを超える道のりを、
千辛万苦して38度線にたどり着きます。

しかし、北朝鮮軍に拘束されました。
万事休す。
サタンにとって、最後の北朝鮮内での拘束のチャンスです。
救われる可能性は皆無。
しかし奇跡が起こりました。

寒さと空腹で苦しむ歩哨に、
6歳(満5歳)の女の子が食物を分け与えたのです。
生死を分かつ死線の中で、怨讐への愛が道を開きました。

「故郷に帰れと言って、人民軍が
 私たち三人を解放してくれました」

(同、78ページ)


38度線を超えましたが、新たなる死の危険が迫っていました。
もしそこで、北朝鮮の歌を歌ったら、
瞬時に南の軍隊に銃撃されていたでしょう。
しかしこの時、「南の歌」を歌ったのです。

「もし、私が歌を歌っていなければ、北の人民軍と誤解され、
 その場で銃弾を浴びて命を落としていたでしょう」

(同、79ページ)

その後、ソウルで奇跡的に叔父と出会えました。


1950年6月25日、サタンは、あたかも独り娘の殺害のために
一挙に南に進攻しました。
またもや、危険にさらされたのです。

(6月27日夜)
住居から避難しますが、そのまま漢江大橋を渡っていたら、
命を失っていたでしょう。
 
その時です。

「私はふと何かを感じるものがあり、
 祖母の服の裾を引っ張りました。
 祖母は足を止めたのを見て、母がいぶかしげに尋ねました」

(同、82ページ)

祖母は来た道を振り返り、息子(叔父)が
「来るかもしれない」と言い、戻ることにしたのです。

叔父は家に迎えにきました。
軍隊の通行証をもっていたので、早く橋を渡れたのです。
その直後、橋は爆破されました。

「わずか数メートルの差で、
 生と死が分かたれた瞬間でした」

(同、84ページ)

サタンは、独り娘の命をわずかの差で逸したのです。
祖母のひらめきが奇跡的に道を開いたのです。

 
「私は幼い年でしたが、戦争の残酷さを直接目撃し、
 悲惨な避難民の生活を経験しました。
 純朴な人々がまるで虫けらのように死んでいき、
 親を失った子供たちが泣き叫びながら街頭をさまよっていました。

 私は数えで八歳にして、戦争は地上から
 永遠に消えさらなければならないという思いを強く持ちました」

(同、85ページ)

編集・文責:ten1ko2
(年月日、年齢について括弧書きで加えました)


『平和の母』に見る10大奇跡 2
第2奇跡〜北朝鮮脱出と朝鮮戦争危機回避
浅川 勇男


まさに「奇跡の生還」ですね。

感想文にも書いたのですが、
韓国動乱(朝鮮戦争)において、お父様は興南監獄から
奇跡的に解放され、生還することができましたが、
真のお母様も北朝鮮から韓国に、
奇跡的に逃れることができたのですね。

お父様の場合は、
興南監獄で12名の基台を立てた、
その土台で霊的に守られましたが、
お母様の場合は、
母と祖母、お母様ご自身、
三代にわたっての信仰によって
守られたのだと思います。

そういう意味で、
韓国動乱は、真の父母のための
聖戦であったといえるのではないか、と思います。

お母様の自叙伝にも、
参戦した国々の兵士たちを集めて、
リトルエンジェルスの公演をして、
慰労した記述がありますが、
受けた恩を忘れない、御父母様なのだと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:49 | Comment(0) | お父様・お母様の路程 証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月22日

父母マッチング、親の願う相手が、理想の相対なのか?! 《倉本正彦先生》



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倉本先生の祝福の講話。
「祝福家庭を愛される真の父母様」
〜「理想の相対」とは?〜です。


理想の相対を得るのは何のためでしょうか?

一言で言えば、「真の愛を得るため」です。

「真の愛」をつくり出すことのできる相手が「理想相対」です。
性格の合う人、好きなタイプの人との間から、
果たして怨讐をも愛する真の愛が生まれるのでしょうか?

もしそうであるなら、そのような愛は
既に多くのカップルに見いだされていることでしょう。

堕落によって真の愛は破壊され、
永遠性のない「偽りの愛」となりました。
偽りの愛を否定し、転換しなければ、
真の愛に至る道はありません。

そのため、真の愛が生じる前に、
「愛の分別」という過程が不可欠になったのです。


父母たちは普通、性格の合う人、気に入った相手、
あるいは、外的に釣り合いの取れている相手を探そうとします。

しかし、その考えは従来の結婚観の延長であって、
真の父母様の観点とは相容れないのです。

祝福を受ければ、いつか自然に
真の愛が出てくるわけではありません。

二世は、ただ「祝福を受けるだけで良し」としないで、
「真の愛が生じるような祝福」を目指すべきです。
それが真の父母様が願われる祝福です。

それは、マッチングの在り方にかかっています。
 

神様が祝福してくださるカップルとは、
むしろ「合わないという立場を超え、
尽くし合って一つになったカップル」です。

“自分とは逆のタイプ”、あるいは“苦手なタイプ”を受け入れ、
投入して一つになっていくときに
非原理的な愛が分別され、永遠の真の愛が生まれます。

最初から気に入った者や、気が合う者同士というのは、“
飽きやすく、愛の終わりが早い”というのです。
合わないタイプというのは、
「似ていない面が多い」ということです。

そういう相手ほど“飽き”がこないし、
「お互いの欠点を補い合える」という利点もあります。

そのようなカップルからは、父母の欠点を補うような、
「より素晴らしい子女が誕生する可能性が高い」というのです。


最初から感じる愛は、やがて消えていきます。
残るのは、祝福後に2人でつくり出した愛です。

その愛が生じる度合いは、
相手に投入して新たに創造し、感化したぶんに
比例するというのです。

現在のマッチングでは、より優れた相手を探そうとしています。
しかし、相手が優れていると、
「投入して相手を再創造してあげたい」という思いよりは、
「相手に期待し、頼る気持ち」が強くなります。

相手を思いやる気持ちより相手に対する要求が強くなると、
そこには相互の成長や発展は期待できず、
真の夫婦愛は育ちにくいと言えるでしょう。

『祝福家庭』96号(2020年 春季号)
倉本正彦先生の講話
「祝福家庭を愛される真の父母様」
〜「理想の相対」とは?〜


今までは、私たちも含めて、
祝福のマッチングは真のお父様がしてくださいました。
しかし、今は、特に祝福二世たちにおいては、
父母マッチングが主流となっています。

形態が大きく変わりましたが、
祝福の価値そのものは全く変わっていません。
そういう意味では、父母の立場が、
より重要になってくると思います。

父母マッチングに対しては、
どれだけ、公的無視の心情で、
子供たちを見つめているか、
多少なりとも携わっている者として、
果たしてどうなのか・・・と思うところもあります。

自分自身はお父様に委ねてきたのに、
自分の子供に対しては、
そのように見つめるように、
どれだけ教育しているのか。。。
自分自身にも問うべき課題ですね。






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posted by ten1ko2 at 07:24 | Comment(0) | 祝福の価値 祝福の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする