2020年06月18日

「平和の母」が、いかに「人類の涙をぬぐう」のか! *感想文コンクール、最優秀作品紹介



20305.jpg


コロナ禍にあって、何よりも
私たちの心の支えとなったのが、
真のお母様の自叙伝、
『人類の涙をぬぐう平和の母』でした。

感想文コンクールにおいて、最優秀賞となったものから
2点、紹介します(要約)


  2020年3月10日、真のお母様の自叙伝
  『人類の涙をぬぐう平和の母』(日本語版)が発売され(24日発行)
  家庭連合では真のお母様自叙伝「感想文」コンクールを開催しました。

  5部門(中学生、高校生、大学生、社会人・一般、VIP)で感想文を募集し、
  その中から各部門で最優秀賞1点、優秀賞2点、佳作5点が選ばれました
  (高校生部門は最優秀賞に同点が2点、優秀賞1点)。

  どれも感動的な内容ですが、このうち最優秀賞6点は
  『世界家庭』7月号で、優秀賞9点は『祝福家庭』97号(2020年夏季号)で
  全文が掲載されます。



○中学生部門
「気づかせていただいた大切なこと」

僕は、この本を読んで、お母様の絶え間ない努力を知りました。
そして、自分でも何かしなければと思い、体がうずうずしてきました。

今、コロナウィルスによって、世界は混乱に陥っています。
けれど、このことも神様の試練と思い、自然と共に生きて、
感謝して為に生きれば、きっと助かるはずだと思っています。

小さなことですが、これから僕は、まずは家庭の中で、
手伝うことを頑張っていこうと思います。

そして、コロナウィルスを乗り越えた時は、
自然の素晴らしい太陽の光をいっぱい浴びて、
神様に感謝して暮らしたいと思いますし、
より多くの人のために行動できる人間になりたいです。

真のお父様とお母様は本当に素晴らしい人です。
お母様は、苦しい中でも為に生きて、
他人のことでも涙される、素晴らしい人です。
僕は、とても尊敬しています。

だから、僕は一つ一つお母様についていけるような努力と、
自然と人を愛する心を育てていきたいと思いました。

男性、14歳(第1地区・茨城教区)


○社会人・一般部門
「誰よりも多くの涙を流されたお母様」

お母様と同じ女性として、母親として、
特に涙を禁じえなかった箇所があります。
それは、まだ幼い孝進様が
世界巡回に発たれたお父様の似顔絵を描く場面です。

何日も何日も飽きずにお父様の顔を描いて
再会を待ちわびる幼く健気な孝進様。
何日も経ってお父様が戻られてようやく絵を描く手を止めると
「世界をすべて手中に収めたかのように、
父に向かって明るい笑みを浮かべ、腕に抱かれた」といいます。

私にも4歳と2歳の娘がいますが、どれほど恋しければ
3歳にもならない子供が父親の似顔絵を描き続けるでしょうか。

まだ幼く父母のみを慕い求める我が子の姿が自然と重なり、
黙って絵を描きながら
お父様を恋しがる純真な孝進様の思いに涙が溢れました。

そして間違いなく、当時の孝進様を見つめるお母様の心情は、
母親であるが故に、誰よりもつらく複雑だったはずです。

その孝進様をも先に霊界に送られ、
今も父に抱かれた幼い息子の後ろ姿を
切なさとともに覚えておられるお母様。

言葉では表現できないお母様の切なさを感じ、
涙で曇る目に思わず本を閉じると、自叙伝の題目である
「人類の涙をぬぐう」という言葉が目に入り、
思い出されるお父様のみ言葉がありました。

悲しみに閉ざされた人を慰めることのできる人は、
 それ以上の悲しみを経験した人のみが可能である


お母様はお父様とともに、ありとあらゆる艱難辛苦に打ち勝ち、
ご自身が地獄の底のような心情と環境を通過して来られたからこそ、
すべての「人類の涙をぬぐう」ことが可能なのだとその瞬間悟りました。

自叙伝のなかでお母様が、セネガルのゴレ島をはじめ
世界を巡回されながら、既にこの世を去った霊魂の解怨にも
注力しておられることが印象的でした。

悲しみを慰労することは正に聖霊の業、
母性を持ち合わせた母親にこそできる業であり、
人として経験する悲しみを既に知り尽くしておられるお母様だからこそ、
霊界肉界を問わず、いかなる人の悲しみにも
寄り添い慰めることができるのだと感じました。

そうだとすれば、「人類の涙をぬぐう」という一言には、
お母様が通過してこられた
数え切れないほどの哀しみと涙が秘められているはずです。

それでも、お母様は常に毅然とした態度で私たちの前に姿を現されます。
私たちの目には一輪の花のように可憐に映るお母様は、
同時に人類の母として、み旨とご自身の宿命の前に
かくも強くあられたことをこのエピソードを通じて再認識しました。

女性、32歳(第1地区・東東京教区)

(中和新聞より)


二つの感想文、ともに、率直な思いが
文章に表現されていて、素晴らしいですね。

特に一般部門、最優秀賞の作品では、
孝進様がお父様の絵を描くところが書かれていますが、
その見つめ方が、とても深いな、と思わされます。

3歳の孝進様がお父様をどれだけ慕っていかれるのか、
またその姿を見つめるお母様の思いを
ご自身の立場と重ねながら、表現しておられます。

この方は、3人目の赤ちゃんを妊娠されていて、
その立場からも、14人の子女様を出産された、
お母様の「真の母」としての凄まじさも、
記述しておられました。
機会があれば、全文紹介したいと思います。

お母様の自叙伝を通して、
私の人生観そのものが、
そのごとく表れていくのだな、
そのように感じました。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 06:37 | Comment(0) | お父様・お母様の路程 証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月17日

アベルはなぜ殺されたのか、そして何を失ったのか?! 《入山部長》



200618-SantiagoRebull.jpg


入山部長の地域化講座、
今回は、カインの祭物「アベルの立場」です。


このような神様のこころを誰が理解すべきだったのでしょうか? 
アベルです。
そうすべきだったのがアベルの立場であり、使命でした。

アベルは神様から供え物を顧みられ、祝福を受けました。
その時、「祝福」と同時に摂理の中心人物としての
「責任」も授かっていたのです。

そこには大きく見て、二つの責任(使命)がありました。
 

第一に、摂理の中心人物は、
「神様のこころ」を知らなければなりません。
そして「神様のこころ」を「私のこころ」としなければなりません。

アベルが、アダム家庭を見つめる「神様のこころ」を
正しく知っていたとすれば、
「堕落した人間に創造目的を完成させる」という、
神様の決意が分かったはずです。

そして、神様が、兄カインをも愛し、
「カインの祭物」をも受け取りたいことを知ったはずです。

「ああ、神様は兄さんも愛していて、
供え物も受け取り、救いたいのだ」
これが分かったとするなら、
まったく違う摂理的展開がなされたでしょう。

復帰原理では、「信仰基台」とは、中心人物が
ある条件を立ててある期間を守ることだとあります。
それは外的な行動目標にすぎません。

その内的な復帰目標は、
「神様のこころ」を知ることではないでしょうか。
そしてそれを、「私のこころ」とすることでしょう。

 
第二に、摂理の中心人物は、
「兄カインのこころ」を知らなければなりません。

カインは、「地に顔を伏せて憤る」ほどに、
供え物を受け取られなかったことにショックを受けました。

カインは、サタンの血統を受け、粗暴な性格であったとしても、
そういう自分に満足していたでしょうか。
悪人においても、良心は、「神様に帰れ!」と命じるのです。

兄カインの「救われたい!」という心の叫びを、
アベルが知ってあげなければなりませんでした。

「神様のこころ」を知り、「兄のこころ」を知り、
それを一つに結んであげること、
それが「アベルの立場」に課せられた「責任」だったのです。

 
もし、その責任を果たしていたら、
アベルは殺されることはなかったでしょう。
アベルは、「カインのこころ」を知ることができなかったために殺されたのです。

「恨み」というのは、大変な思いをしたこと自体が
その原因ではなく、それを誰にも分かってもらえなかった、
という愛の減少感が原因となって心に蓄積されていくものです。

ですから、それを分かってくれる人が現れると、
それ以上恨むことができなくなってしまいます。
まさに「解恨(解怨)」です。
アベルはカインを解恨する使命を持っていたのです。


しかし、実際には、聖書に描かれたアダム家庭において、
アベルが「神様のこころ」を理解していたでしょうか? 
そして、「兄カインのこころ」をつかんでいたでしょうか?
そうではなかったと思われます。

アベルの心のアンテナは、
ただ「祝福を受けた」という
自分だけの喜びに向けられていたのです。

こうして、アダム家庭における神様の摂理は
失敗となってしまいました。

神様のこころだけが残っていました。
そのこころはどれほど痛んだでしょうか。

こうして、摂理的な「アベルの立場」は空席となりました。

その後、復帰摂理の中心テーマとして、
「アベルの立場を復帰する」
「アベルの立場に立つ」という表現が、
『原理講論』に繰り返し登場してくるのです。

この、失われた「アベルの立場」を全うする者を、
神様は探し続けられました。
それが、復帰摂理歴史の表題なのです。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜
天一国時代の伝道論』(6)
入山 聖基・著
第一章 カインの祭物
アベルの立場


中心人物、というのは、
ただ外的な目標を成すだけでなく、
それを通して、復帰しなければならない心情がある、
ということを感じさせていただきました。

アベルも供え物を捧げて、神様が受け取ることにより、
信仰基台の中心人物になることはできましたけれど、
本当の意味では中心人物に立ったとは言えなかったのです。

「神様のこころ」を知り、
「カインのこころ」を知る。。。
私たちにも突き付けられた課題だと言えます。







にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


2020年06月16日

たとえ信仰10年たったとしても、変われないのはなぜ・・・?! 《金元弼先生》



200616-20200609.jpg
天正宮の道☆


金元弼先生のみ言、「悔い改めは出発の時と同じ」
今回は、『信仰歴と心霊基準』です。


信仰の道に入って十年たったとします。
ところがいつも同じ繰り返しで、
結局信仰とは何だろうということになります。

十年たっても分からない。
こういうことがあるのです。

信仰の道に入って、目的を立て、
目的に向かって十年の年月が過ぎたとします。

肉体の人間は十年たったのですが、内的な人というのは、
どの位置にあるかというと、落ちて、悔い改めて、
決意して出発したのですから結局A点(出発点)でしかないということです。


皆さん、統一教会に入って、
七年あるいは十年たった人がいると思います。
そういう人がこの道は真の道であると思って出発しました。

そして七年あるいは十年たちました。
ところが途中で失敗して落ちてしまいました。

そして悔い改めて、復興会に出たりみ言を聞いてとても心が復興し、
再び決意して出発します。
そして年月は七年あるいは十年と経過しています。

けれども、自分を振り返ってみる時に、
勝利したような実感が出てこないというのです。
本当に真の道ならなぜこうなるのだろうかと考えるというのです。

五年たっても、七年たってもいつも繰り返しなので、
むなしさを感じるのです。

真の道であるならば、五年たったらそれなりに
発展していかなければならないのに、
自分の内面の世界を見てみると、
全然成長したような感じがしてこないというのです。

かえってこの道が、本当の真の道であるかどうか、
分からなくなったということが起こるのです。


なぜですか。
私たちは普通決意したり約束したりすると、
私自身が人の前に、先生の前に、神様の前に心を決める、
そういうふうに考える人が多いのです。

しかし、一歩進んで考えると、サタンも必ず身構えているというのです。
背後にサタンがいるということに全然気を遣わないのです。
私たちはこのことを忘れてはいけません。

このように神の前に、先生の前に、人々の前に決意し、
約束したのに守れなかった時には、
約束する前の位置C点に落ちるのです。

そして、自分の間違いに気が付いて悔い改めた時に
A点(出発点)まで戻るのです。
B点(以前到達した地点)まで上がってくるのではなく、
そこまで上がることのできる象徴的条件しか
成り立たないというのです。

B点に立ち返るためには、失敗を取り戻すことのできる
勝利の実績が必要なのです。

 
サタンは、皆さんが決意してそれを成しえなかった時には、
それをそのままにしているでしょうか。
それとも、それを讒訴する条件とするでしょうか。
言うまでもありません。

サタンの目的は、私たちが神に向かわないように、
神から引き離そうとすることであるということを知らなければなりません。
私が神と人の前に決意して、それを成しえなかった時には、
それをサタンは讒訴条件として提示するというのです。

「悔い改めて勝利した。だから今は、私は勝利したでしょう」と言っても、
サタンは「さっきあなたは失敗したではありませんか。
だから今勝利したって、無の立場、勝負をつける前の立場ですよ」
とこう言ってくるというのです。

もう一度失敗した事柄が再現されて、
勝利した実績をもたない限り、サタンは讒訴するというのです。

(「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑)


最初にみ言を聞いた時には、ものすごく復興します。
伝道も頑張ったり、霊的な体験をしたり。。。

しかし、いつの間にか、心霊が下がるというか。
このままでいいのだろうか、と思ったりします。
個人的な体験ですが、
みなさんも同じような経験をしているか、と思います。

下がっている、と思う時には、
サタンが讒訴しているのだ、ということです。

ようするに、決意したり下がったり
また決意して続かなくて。。。というのは、
サタンにやられっぱなしの状態といえますね。

普通にしていても
サタンに引っかかりますから、
天と真の父母様をもっと求めて、
命綱としていくしかないでしょう。

天に捧げた目標を果たさない時に、
サタンのささやきが来たとしても、
主管されることなく、天を見つめて歩む、
そのような者になっていきたいと思うのです。






にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 10:17 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする