2020年06月06日

何かあった時にわかる?! 神に求めるか、自己中に陥りサタンに取られるか



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家庭教育局内田由喜先生の講話、
「生活信仰のすすめ」の2回目です。


  生活の中で神様に語り掛ける

前回は信仰生活における「動機(情)の成長」の重要性と、
成長のための「命の源」となる、
み言の訓読生活の大切さについて触れました。

それに続く内容として、
日々、神様に語り掛けながら生活することの
大切さについて触れたいと思います。


私自身、例えば講義を担当するときも、
み言を整理しながら、
「神様、これでいいでしょうか?」と祈りながら
講義の資料を作っています。

あるとき、講義を担当したあとに真のお父様が夢に現れて、
「あんた、この話を何でしなかったのか」と、
まるで講義のようすを見ていたかのように
指導してくださったことがあります。

神様からの答えというものは、
このほかにも、実体の人間を通して返ってくることもありました。

そのような体験を通して私は、
「神様が絶対的な存在でいらっしゃる」
と受け止めることができたのです。

 
私はまた1人の主婦でもあります。

例えば、事情があって帰宅が遅くなり、
家族と共に夕食の場にいることができなかったとしても、
夕食後に夫や子供の食器を洗うとき、
「神様、きょう私の夫はどういう1日を過ごして、
この夕餉(夕食)を迎えたんでしょう?」、

「子供たちはどのようにご飯を頂いたんでしょうか?」
というように、
神様と対話しながら食器を洗います。

このような生活の一コマ一コマを神様に問い掛けると、
次の段階で悟らされることが実際に起きています。

洗濯物を干していても、
「ああ、神様。太陽がありがたいです」と感じます。


私たちは現実世界に身を置いて生活していますが、
心の中心にいつも神様を感じながら、
神様との関係を動機として生活することが大切です。

考えてみれば、とても簡単なことで、特別難しいことではありません。
そのように生活の中で、
神様との間で心情的な世界を感じることができるのです。

「生活は生活、信仰は信仰」と切り離すことはできません。
教会の集会に行ったら信仰者となり、
家に帰ったら別世界であるというわけではないのです。

信仰と生活は一つであり、祈りやみ言学習、
そして動機も常に生活と一つです。


  サタンの働きを見抜いて分別する 

私たちが気をつけるべきことは、やはり
サタン(悪魔、悪霊)という霊的な存在です。

「神様を中心とする生活を」と思いながらも、
一方では、自己中心的な思いや不平不満、
堕落性から来る思いに相対してくるサタンがいます。

信仰生活をする中、神様を中心として頑張ってみるのですが、
心の底では、「もうこんなのやりたくないよ」とか、
「苦労ばかりだ」などといった不満が生じるとき、
そうだよ、やめちまいな≠ニサタンがささやいてくるのです。


このようなときには、み言学習や祈祷を通して、
サタンを分別しなければなりません。
サタンを見抜く力をつけていくのです。

そして、「堕落した人間を救うために、
神様が長い歴史をかけて苦労してこられた」
というように祈るとき、神様に対する情が湧き上がり、
信仰的な動機が成長していくのです。

木の根が張り、木が繁茂していくのと同じです。


そのような生活を積み重ねていくようにしないと、
根を張ることができず、樹木全体に栄養が供給されずに、
木は枯れていってしまいます。

教会でも、信仰生活の長い人たちが
マンネリ化や世俗化に陥ってしまうことが多いのです。

何か一つのことが起きたときに、
「ああ、神様、何か意味があるんですね」というような、
神様を動機にした考え方になったり、
「えー、何でこんなことが起きるの。
私、何か悪いことした?」というような、
自分中心の罰論≠フような考え方になったりします。

信仰の動機が成長していないと、
神様との関係が遠くなり、
不平不満や平面的な見方に陥ってしまいかねません。


  自分の親としての神様を実感していく

訓読会をしっかりと実践することは素晴らしいことです。

しかし、訓読会をすること自体が目的ではなく、
訓読するみ言の背後にある神様と真の父母様を
「自分の親である」として実感し、
そこから「私は新しく生み直された、重生された」
ということを実感できるように、
み言をしっかりと学習することが必要ではないかと思います。

私たちは社会の中で生活しているため、
不本意ながら、外的な生活に追われる日々となっているかもしれません。

もちろん、現実社会で外的(物質的)な
豊かさを求めることは必要ですが、
もっと必要なものは、内的(心情的)な「心の豊かさ」です。

神様と自分との関係が主体であり、
その相対圏にあるのが現実の社会ですから、
まずは神様との親子の心情関係を強化しなければなりません。

そのためには、霊的な糧である、み言が絶対的に必要なのです。

(一部割愛しました 文責:ten1ko2)

生活信仰のすすめ 第2回
家庭教育局相談員 内田由喜
日々、神様の愛を感じる生活を〈後〉
(『祝福家庭』での連載を整理したものです)
Blessed Lifeより


自己牧会プログラムにおいて、
心の中の神様に尋ねる生活、
その内容と似ているな、と感じました。
常日頃から神様を中心とした日常生活、
そこに意識を傾けていきたいものです。

また、サタンがささやく、ということ。
私自身においては、
教会で公務を歩んでいるときよりも、
正直なところ、家での生活で感じることが多かったりして。。。

動機の転換、発想の転換。
自分自身を戒めないと、と思います。

何よりも、真の父母様に似る者となるべく、
生活信仰を体恤していきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 07:47 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする