2020年06月15日

何のためにやっているのか?! 分からなくさせる「恨」 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言、「本性の恨(ハン)」の2回目。
『無知の恨、無情の恨、気まぐれの恨』です。


ところで私たちには、この無知の恨(ハン)だけがあるのではなく、
無情の恨があり、
義を持続することができない気まぐれの恨があります。
このように三つに分けて考えることができます。

本性を中心として見るときには、
私たちは情的に受けようとしても受けることができず、
与えようとしても与えることのできない、乾いた者です。

また目的観を中心として見るときには、
変化が激しいので、一度正しいと思っても
根気よくやっていくことができず、価値観が混乱してきます。

気まぐれを起こすことで価値をすっかり失い、
動機をすっかり失い、
基準をすっかり忘れてしまうのです。

父との関係、父から愛を受けた基準を
すっかり失ってしまうのが私たちの気まぐれな人生です。
ですから、無知の恨と無情の恨、
そして気まぐれの恨を持った人間だということが分かります。


一度決心したことを、逆境の中で失望したり、
絶望したり、また苦労だと思ったり、
不平不満を持ってはならないのに、
環境の影響を受けるときは気まぐれを起こすために
良心の苦痛を味わうようになるのです。

私たちは初めの愛を持続できない者たちです。
だから時を逃したあとに、
「私がこうなるのは分かっていた。
動機は正しく持っていたのに時を逃してしまった」
ということになります。

このように私たちは、初めの心、すなわち
天が私を愛した基準を喪失し、嘆息するのです。

もしもこのような恨を原因者との関係において持つなら、
そのことが根気強さをつくり、生活の原動力になりますが、
結果と相対してしまうと気まぐれを起こし、
不平不満を持って方向を変えてしまうので、破綻状態に至るのです。


イエス様は、恨を持ち、苦痛を解決してもらうために
訪ねてきた多くの病人たちを哀れに思われ、
病気を治してあげました。

彼らは肉身の恨に凝り固まっていたので、
イエス様から同情を受けることができたのでした。
本当に奇跡的な体験をたくさんしました。

肉身の恨であれ、心霊の恨であれ、恨は恨どうし通じます。
恨を持っている人は神と通じることができます。

孤児の悲しみであれ、寡婦の悲しみであれ、
悲しみは悲しみどうし通じるのです。

『生活の中の心情復活』
(『信仰と生活 第3集・私の神様』を改題)
第三章 復帰人の本性「本性の恨」   
1985年4月23日(火)
統一神学校
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


私たちは受けた恩恵をすぐに忘れてしまいます。
心情を持続することができず、
すぐに目の前のことに感情を奪われる、
そのような者であることを告白せずにいられません。

神様や真の父母様の心情に触れ、
「頑張ろう!」と思っても、
ちょっとしたことに意識を奪われてしまいます。

大きな岩は障害物だとわかって遠回りしても、
小さな石にはすぐにつまづいてしまうのです。
変わらない心情、心情の継続が必要ですね。

このブログも、おかげさまで10年続けてきましたが、
動機を失って、
惰性で書いてしまうこともあったりして、
反省しきりです。

一度出会った神様との心情因縁を忘れることなく、
継続して歩むことのできる者になっていきたいと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 09:40 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする