2020年08月22日

夫婦の中にできた氷塊を溶かすものは、これしかない 《浅川先生・平和の母》



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浅川先生の「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」
今回は、『真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する』です。


事故もなく、大病にもかからず、夫婦げんかも小競り合いで終わり、
天国のような幸せがあったわけでもなく、
地獄のような苦しみもなかった夫婦がいます。

夫はつぶやきます。
「俺たちの人生、まあまあだったな」

妻は針仕事をしながら、
「そんなもんですかね」と無愛想に答えます。

結婚して50年、いつもの光景です。
波風の立たない無難な人生に、時折むなしさに駆られて
「人生、これで良かったのか」と考える時もありましたが、
「こんなもんさ」と開き直ってきました。

しかし「まあまあ」の人生が、神様が与えようとした
夫婦の喜びの5%にも満たなかったとしたらどうでしょうか。
それは悲劇を通り越して悲惨です。

この夫婦に悲しいこと、苦しいことがなかったわけではありません。
ただ、正面から向き合って解決せず、なおざりにして、
真剣さに欠けた居心地の良さが
夫婦を長持ちさせてきたにすぎないのです。


夫婦の愛の悲しみは、心の底に深く沈殿して、
冷たい氷のように凝固しています。
心の底をレントゲンや内視鏡で見れば、
氷塊の存在を知ることができるはずです。

人は必ず死んであの世に行きます。
あの世には、目で見え、手でつかめるものは持参できません。
持参するのは、心の底に沈殿した氷塊だけなのです。

氷塊は、永遠の世界で語り掛けるでしょう。

「なぜ結婚して夫婦になったのに、
真実の愛で愛し合い、喜びの人生を送れなかったのか」


死んでから後悔することほど悲惨なことはありません。
だから夫婦が生きている間に、
真の愛を与える決意をしなければなりません。

真の愛とは、与えて忘れ、さらに与える愛です。
夫婦が真の愛で愛し合ったとき、
夫の心の居場所は妻となり、妻の居場所は夫となるのです。

夫が「あなたの現住所はどこですか」と聞かれたら、
妻の名前を言えばいいのです。

人間の喜びは、夫婦が一心同体になったときに生ずるのです。
夫の喜びは妻の喜びであり、妻の喜びは夫の喜びです。

互いが真の愛を与えていったとき、悲しみも苦痛も、
固体が液体を通り越して気体となって天に舞うように、喜びに昇華します。

昇華とは、氷が熱さの故に、
水を通り越して気体になることをいいます。

真の愛という熱気を夫婦が与え合うとき、
喜びと歓喜の世界に昇華するのです。


真の夫婦となられた「平和の母」韓鶴子夫人は言われます。

「お互いが完全に愛し合うということは、
 相手が自分の中におり、
 自分が相手の中にいるということです。

 人間が求めるものの中で、最も貴いのが愛です。
 …真の愛を抱けば、いかなる悲しみと
 苦痛も、喜びに昇華します」

(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』301ページ)。

『平和の母』13の道しるべ 10
真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する
浅川 勇男

「平和の母」シリーズ第2弾
(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』関連記事)
自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による
「『平和の母』から学ぶ13の人生の道しるべ」をお届けします。
(Blessed Lifeより)


「人は、恋愛経験を通して愛を学び、
最終的に伴侶と出会っていく」
これは原理的には合っていません。

『真の愛を抱けば、悲しみも苦痛も喜びに昇華する』
浅川先生の表題にもありますように、
一人の人を愛することを通じて、
様々な心情を通過します。

しかし、最終的には、
喜びに昇華する、というのです。

なぜでしょうか。
背後には「真の愛」があるからだと思います。

神様の愛を媒介として、
物事を捉えていくことを通じて、
全てが喜びに変わっていく、というのです。






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2020年08月21日

怒ったら失格?! 子の前で、天情に通じ涙したことがありますか 《李ヨハネ信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言
「信仰・希望・愛の路程」より
『父母の心情、僕の生活』を紹介します。


イエス様の路程で、イエス様が悩んだことが何かといえば、
自分は神との縦的関係が確実であり、
神のものであることは間違いないのに、
実生活に入ってみると、神の立場で対する人がいないということです。

それゆえに自分の立場を隠して、対象の立場で
同僚と同じ相対基準を結んであげなければならない、
悔しさと悲しみがありました。
ここに涙がありました。

涙の中でどんな涙が貴いかといえば、
自分は間違いなく心情的に天の父との関係を持ったのに、
実生活でほかの人たちが皆それぞれの事情だけを持って自分に対するとき、
ここで彼らと調和しようとする切ない涙が、貴い涙なのです。

自分の事情を中心として私を必要とする人だけが
大勢いるときには、大抵、俗化されます。
自分の事情と生活観を持った人たちのために
生きようとするときは、私の立場を秘密にしなければなりません。

自分を中心として生きる人たちのために生きようとするとき、
涙ぐましい立場になるのです。
これが、父母の心情、僕の生活であるといえます。

父母の心は秘密なのです。
イエス様が持たれた心が父母の心です。

天の心情と事情を持って来られましたが、
貧しい者と病んだ者のために生き、
誠を尽くしてあげなくてはならないイエス様でした。
これが涙であり哀れみなのです。


このようなところで間違えれば、
神の立場を離れる危険性があることを、
皆さんは経験したはずです。

周囲をかわいそうに思って、天情が人情になりやすいのです。
天情をもって人を哀れに思い始めたけれども、
その人の立場と事情に主管されるようになり、
人情的に流されていきやすいのです。

ここで人情に流されないようにしようとするとき、
涙が混じるのです。
父母の心で僕の生活をするとき、涙があります。


父母が子供を育てながら何かを願うのは、
子供を愛しているからですが、
子供は自分かってに協助されることを望むのです。
自分かってにしながらお金を好んで使い、
父母の心を利用しようとするのです。

子供が幼いときには心配もし、しかりもするでしょう。
その叱責を、子供がありがたく思い、感激するなら、
そのしかったことは善なる叱責になりますが、
もし恨めしく思うなら善なる叱責にはなりません。

叱られた子供が悲しく思うときには、
父母が父母としての心を持ち、僕の生活ができなかったのです。
父母という立場が露骨に現れたら、子供は葛藤します。
そのときは父母の心で現れることができません。

自分のとる態度が、父母の心を痛めてしまって
申し訳ないという悔い改めの心になれば、
子供にとって薬になり、善なる教育になります。

しかし、父母が涙を流すべき場でかんしゃくを起こせば、
子供と全く同じ立場になります。
父母も子供も全く同じだというのです。

父母の立場を内的にとり、
とめどもなく涙を流さなければなりません。

「この野郎!おまえの思いどおりにしようというなら、
さっさとこの家から出て行け!」。
もし、このようにしかりながら、敵愾心を持って、
子供の前でかんしゃくを起こしたとすれば、
父母としての資格がない人です。

1985年10月29日(火)統一神学校
「信仰・希望・愛の路程」
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


「親の心、子知らず」とはよく言ったものですね。
子供の課題を指摘しても、
本人の自覚がないとただの叱責になってしまうということです。
そして、怒りにかられてしまったりするのは、
親の資格がない、とも言われています。

心当たりがあるので、
頭を下げるしかないですね。

さて、イエス様も神様を「父なる神」と呼ばれました。
しかし、当時のユダヤ人にとっては、
冒涜行為であると見なされ、迫害を受けました。

これがどれほど、イエス様にとっては、
悲しみの極致であったかしれません。
ヨハネ先生のお話を通して、
そのもどかしさが、今更ながらよく理解できました。

そして、今「神様は父母である」
とお母様が強調されています。

神様のことを思うと涙されるお母様。
そして、7年路程を通じて、
少なくとも人類三分の一には、
天の父母である
神様を正しく知ってほしい、と叫ばれるお母様。

その心情を、子たる私たちも悟り、
実感していかなければならない、と思うのです。






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posted by ten1ko2 at 09:23 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月20日

問題があっても、その人に対し指摘しないで、神の心で見守る?! 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」の続き
『許しは神の心情から』です。


先生は他人を苦しめる人に対して、今お話ししたように、
原理がこうであるからこうしてはいけないとは忠告されません。

こういった人のために、いかばかり
神は苦しまれたことだろうかと、神の心情を慰めるのです。

そして神の心をこれ以上苦しめないためには、
私が神の身代わりになって、こういう人たちを
見守ってあげなければいけないと考えて忠告するというのです。

先生は私たちに対して色々、ある時には命令したり、
あるいは忠告したりお話しをされます。
けれども、私たちとは全然その内容が違います。
次元が違うというのです。
先生はそういう立場でお話ししているのです。


ところが、私たちはそうではないのです。
そんなことよりも、あの人は悪いんだ、教えてあげなければ、
忠告してあげなければいけない、そういうことばかりやっています。

その解決は自分を中心としてしてはならないというのです。
先生は、神がこうであるから、ということによって
初めて解決されるというのです。

兄弟たちが私に良くしない時、
これからはどう考えなければいけないでしょうか。

自分を苦しめる人を、その人と考えず自分と考え、
苦しめられる自分を自分と考えず、
神様、先生であると考えるのです。

苦しめる人に対して、まず感謝の心をもち、
神の心をそして先生の心情を慰めなければならないというのです。

ですから、自分の心が痛いということは言わないのです。
このように皆がなれば、私たちの世界は、
今とは次元の違ったものに向かっていくのではないかと思います。


人に苦しめられた時、ただそれを忍ぶものだと考えても、
それはなかなか実行、実践できないものです。
悪口を言われても忍ぶものだ、愛するものだ、
許すものだといっても、ただ許すという心は起こってきません。

より高い心情をもたないと許すことはできません。
高い心情とは、神の心情、親の心情なのです。

ですから神の心情、親の心情を所有しない限りは、
そういう兄弟を許したり、愛したりすることはできません。

人間同士の愛というものは、同じ愛の量をもっているので、
与えれば自分の分は少なくなるから、あげることはできません。
愛するためには、より以上の愛をもたなければいけません。

より以上の愛というのは、人間の親に当たる神の愛です。
無限なる神の愛ですから、愛をたくさん受けることによって、
愛を与えることができるというのです。
神の愛ではなく、自分の愛ならば、私の愛の量はなくなってしまいます。

 
この世の兄弟関係でも同じです。

兄と弟がいて、その仲が悪い時には、
兄弟同士では仲良くなることはできません。
同じ次元ですから人間同士では和解できないのです。

神が仲介しなければ人間の和合というものはありえません。
人間は元々神を中心として始まっています。
ですから中心たる神を除いて、
人間同士の平和というものは絶対ありえません。

だから、共産主義の理想は、実現不可能だというのです。

神を中心としてこそ、初めて、人間の和合、人間の平和があるのです。


一つの例をとってみましょう。

今も話したように、兄弟ではなかなか伸直りができません。
同じ立場ですから。ところが私たちが仲良くしなければ、
親が心配するだろうと思う時、より高い親の心によって初めて、
兄弟の和解、和合がありえるのです。

喧嘩して何年たっても和解できないとします。
私たちは和解できなくてもいいのです。

けれども、こういうことによって親が心配するから、
親を心配させないために、ということで親の心、
親が仲介になって初めて、お互いに譲り合うことができるというのです。

誰がそれを始めるかといったら、
先に親の心情を受け継いだ者が動機になることができるのです。
ですから兄弟の仲直りも、一番大きいお兄さんからするのです。
一番上のお兄さんは、親の心情を受け継いでいるのです。

長男は親の身代わりです。
ですから、相続権が次男よりも長男にあります。
親の心情を受け継いだ者だというのです。
次元の高い心情をもつことによって、初めて和解がありえるのです。
また愛することもできるのです。

ですから、皆さんは永遠なる神の愛を受けずしては、
人を愛することや、兄弟を愛することは絶対にできません。
そういう心情を受け継ぐことによって仲直りもできるというのです。

そういうわけですので、問題の発見者は自分であっても
その解決は自分ではなく、
必ずそこに先生、神がいなければいけないというのです。

「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑


神様の立場に立って物事を捉えていく。。。
具体的な例題を取り上げてくださり、
本当に貴重なみ言だと思います。

兄弟間で相手の課題を指摘しても
なんの解決にもなりません。

これは、兄弟間だけでなく、
組織と組織の関係、また、国家間の紛争、
これも当事者だけでは解決できないことがありますよね。
お互いが父母の心情に立てれば何の問題もないのですが。。

人に対して、課題を指摘しても、
その人自体に自覚がないと、
むしろ反発されることもありますよね。

ですから、元弼先生の語られるように、
その人が私に対することは、
私が神様にしていることだと捉えて、
自分自身を悔い改めていく。。。

ある意味では、神様がわからない、という人は、
目の前の人間関係を通して、
神様と近くなる、ということなのかと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 07:58 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする