2020年08月28日

「死にたい」と思ったとき、どう越える?! 恨みをもつ先祖の霊の影響 《元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」の続き
『現実問題と先祖の解放』です。


ある霊界に引っかかった人の話をしてみましょう。

先祖の中に、お嫁に行ってその姑の虐待に耐えきれないで、
首をつって死んだ人がいました。
その人が霊界に行って引っかかっているのです。

引っかかっているので自分の子孫を通じて、
恨みを解放したいと願います。
そこで自分がこういう立場であるということを子孫に言っても、

子孫は霊界に通じないので分かりません。
だからそれを分からせようとして、痛みを与えたり病気にします。
ところが病院に行っても原因が分からないのです。

結局、神に通じている人に見てもらえば、
それはあなたの先祖の中で、そういう恨みをもった霊が、
あなたについているからだと分かります。

そのついている霊は誰であり、誰がこのように
あなたを病気にさせたかということを知らせ、
その次にあなたを通じて恨みを解放せんがためであると教えるのです。

ところが皆さん、考えてみてください。
どうして首をつった者が天に引っかかるというのでしょうか。

その嫁は、その問題で死にたいという境地に責められた時に、
なぜ、死を選ばなければならなかったのですか。
苦しい問題の解決を、自分を中心として解決しようとしたから、
死を選んだというのです。

問題視したのはその嫁自身です。
彼女は死んだら全部忘れてしまうと思い、
この苦しみから逃れようとしたのです。

 
ところがすべての存在は相対的です。
だから主体なくして存在することはできません。
そしてその主体は、主体自身のためにあるのではなく、
相対のためにあるのです。
「ためにあって存在する」というのです。

神の存在も、神御自身のためにあるとするならば、
神の存在もありえないというのです。
そういうわけで、元々人間は、「ためにある存在」なのです。

ですからそういう原則にのっとれば、
その自殺した嫁は、旦那さんの家のためにいる存在ということになります。
旦那さんのために、そして子供のためにいるのです。

ところが、苦しい時に自分が苦しいと自分のことばかり考えたのです。
「もし私が死んだならば、相対者はどうなるのだろうか、
子供たちはどうなるのだろうか、この家はどうなるのだろうか」
ということを考えたならば死の道を選ばなかったでしょう。


もう一つは、人は神のためにあるのですから、
その苦しい時、死にたいなあと思った時に、自分のことを考えないで、
私が死んだら神はどうなるのだろうかと考えるのです。

しかし、皆さんはそういうことに慣れていないのです。
先程話したように、死にたいという心情は、
神やメシヤに死にたいという死の苦しみがあるということを、
姑の虐待を通じて嫁に知らせてくれたものとして
考えなければいけなかったのです。

そうすると、神はいつ死にたかったのでしょうか。
人間が神を知らずして、神のみ言を聞かない時に、
神はその人間を全部滅ぼしたいという心情でいっぱいだったというのです。
こういう話をよく聞くでしょう。


ある人が死の境地をさまよう時、
その人は神を知らない人であっても
「こういう私でありますけれども、私を助けてくださいましたら、
本当に神がいることを私は信じます。
永遠に神に仕えます。
本当に神がいるとするならば、今私を助けてください」と祈ります。

そして神はその人を助けました。
そこでその人は神を知らない人でしたけれども、
これから神を信じて神に仕えたいと決心しました。

ところが、その心もすぐ全部なくなり、薄れてしまって、
それからどんどん離れた生活をしてしまいました。
そしてそういうことが、何度もその人に繰り返されました。
このようにしてその人は神を遠ざけていきました。

そういう時に、神はその人に対して非常に喜ばれたでしょうか、
心が痛んだのでしょうか。

そうしてそれが一人だけでなく、全人類がそうであれば、
神には、全部殺してしまいたいという心が起こります。
そしてもう一度造りたい、そういう心もあったのです。


ところが、神は人のためにあるのですから
人類を滅ぼすということは、
結局は、神御自身を滅ぼすことであるわけです。
神御自身を否定するということです。

そういうわけで、神も御自身を滅ぼしてしまいたいと、
そういうことも考えたというのです。
神御自身の苦しみを考えたならば、全部を滅ぼしたいのです。

けれども、もし神が滅んでしまったとしたら、
この人間はどうなるのだろうかと考えると、
人間を滅ぼすことはできないのです。
神御自身も滅びの道を選ぶことができなかったというのです。
そういう神であったのです。

神もこういう立場でありながら、
神御自身が死の道を選ばなかったとするならば、
人間もそうしなければならないのではないかというのです。

神はそうしなかったのに、人間は苦しいからといって、
自分の生命を断ってしまいます。
これは神の心情を蹂躙するという結果になるというのです。

ですからその嫁が、人のために、
神のためにいるという生き方をしたとするならば、
天に引っかかることはなかったのです。

「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑


自分が苦しい時に、自分のことしか考えない、
まさに堕落性本性の成す業だと思います。
自己中心的な、堕落人間たる所以ですね。

先日、教会の食口から相談がありました。
「アメリカに住んでいる友人が、自殺をしたいと言ってきた
どういう風にアドバイスしたらいいか」というのです。

その友人は、神様も霊界も信じていない人です。
霊界にいったら苦しい思いが続くだけで、
地上にいたら、いつかその思いを乗り越えることが出来るし、
あなたを見つめる神様はどれだけ心配しているか、
そう話しても通じません。

せめて、自分が苦しいことを見つめる人、
(君の家族も「私」もそうだけれど)
その人たちのことを思ってほしい、
そう伝えても自暴自棄になるだけでした。

現時点では、「彼のために祈るしかない、
彼を知っている人に連絡をして、みんなで祈ろう」
という状況です。

「万民に天の父母様を知らせなければ」
という、お母様の願いがいかに切実でしょうか。
さらに先祖430代、地上430家庭を祝福に導く
「天寶入籍」の恩恵が、
どれほど貴いことであるか、と感じてやみません。






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posted by ten1ko2 at 08:02 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする