2020年09月18日

こんな私が、神の働ける私になるために──こう祈ってみよう 《信仰生活講座》



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前川講師の、「天一国時代の信仰生活講座」より、
「神様が共にいれば、できないことはない」

召命について、先回の続きです。


知って、定めて、召命する、ここまでが神様の責任です。
それを実らせるか実らせないかは、私たちの責任です。
私たちがいかに責任分担を遂行するかにかかっています。

しかし、私たちにそれを果たす自信があるでしょうか。
信仰も幼く、心情も能力も実力も足りない私たちです。

ところで、自信というのはどこから来るのでしょうか。
能力や実力があれば自信が湧いてくると思いますか。

お父様は、
「渉外力やみ言(ことば)の力、経済力などは、
徹底した訓練を通してついてくる」
と語られましたが、そこに到達するまでどうしたらよいでしょうか。

自分が自信のないことをしようとするときは、
神様に祈るしかありません。
自信がないから、必死にお祈りして、
一生懸命、伝道や学業、仕事に励むのです。

そうすると神様が応えてくださいます。

何よりも、私たちは真の父母様の勝利によって、
人間始祖アダム・エバの堕落以前の時代を迎え、
基元節(天一国元年天暦一月十三日)が宣布されました。

それは堕落前の状態、つまり
神様と一問一答を交わした創造本然の世界です。

だからこその報告祈祷です。

「〜してください」「こうなりますように」
と祈るのではなく、自らが実践した内容を
具体的に神様に報告し、神様のみ声に耳を傾けるのです。

神様が働いてくださることで勝利できたという体験が必要です。
このような体験を積み重ねていけば、
「神様が共にいれば、できないことはない」
という確信が生まれてくるでしょう。

大切なことは、神様が働ける自分になることです。
どのようにしたら神様が働ける自分になるのかを知ることこそが、
一番大切なことです。

スマホで立ち読み Vol.10
『天一国時代の信仰生活講座』(9)の後半
第一章 神による召命
4. 召命された者の立場
(二)神様が共にいれば、できないことはない
前田千代子・著

(季刊『祝福家庭』で10回にわたって連載され、
好評を博した「信仰生活講座」を書籍化。
千葉中央修練所で長年行われてきた
講義のエッセンスが詰まった一冊。
Blessed Lifeより)


基元節の宣布、というのは、
人類歴史の大転換、ターニングポイントでした。

外的に見ると、その変化を
私たちには、見ることができませんが、
霊的に見るとこれ以上の変化はありません。

ですから、祈祷するにおいても、
神様が働く勝利圏は拡大しているので、
祈って実践することを通して、
導かれていくのだと思います。

まさに、自己牧会プログラムに通じますね。
時代の恩恵を自分のものにしなければ、ですね。





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posted by ten1ko2 at 11:27 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月17日

暑さ疲れの解消に セミが教えてくれたこと 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム
今回は、「蝉時雨の中で」です。

また、自然に関する真のお父様の
み言も添えてみました。


車で移動することの多い仕事をしています。
ある夏の日、少し空き時間ができたので、
車を日陰に止めて休憩することにしました。

そばに木立があり、たちまち
賑やかな蝉時雨(せみしぐれ)に包まれました。

私は目をつぶってセミの声を聞きながら、
心を空にして一体感を味わってみようと思いました。

いつの間にかセミに語り掛けていました。

「暑いのに、そんなに鳴いていて疲れないの?」

するとセミからこう返ってきました。
「暑いことはとてもいいことなんだよ!
こうして鳴ける日をずっと待ってきたんだから、
うれしくて鳴いているんだよ。
このうれしさ、分かる?」

「そうだったんだ!
うれしくて鳴いていたんだね」

「そうだよ、そうなんだよ。
だから暑くても、それがいいんだよ。
私たちは今この時を精いっぱい生きてるんだ。
あなたはどうなの?
精いっぱい生きているの?」

思いがけない問いに、私は思わず、
「私もあなたたちのように生きられるかな?」
と聞いていました。

するとセミは力強い声で、
「生きられるさ、絶対に!
あなたは私たちにとって神様のような存在だからね!」
と言うのです。

私は驚いて、つい日頃の悩みをつぶやきました。

「神様のような存在と言われても、
ちょっと嫌なことがあると落ち込んだり、
すぐに人や自分を責めたりしてしまうから、
自分のことそんなに素晴らしいって思えなくなってしまうんだけど……」

「大丈夫だよ。あなたが自分のことをどう思っていたとしても、
あなたは素晴らしい人だよ。
落ち込んだり人を責めたりすることがあっても、
あなたは素晴らしいってこと」

「どうすれば、自分を素晴らしいと思えるかなあ」

「良くても悪くても、できてもできなくても、
あなたは生きているでしょう。
私たちと同じように生きているじゃないか」

そうセミに言われて、自分が生きていることを
自覚していなかったことに気付きました。
生きていることをあまりにも当然のように思っていたのです。
心が軽くなり、癒やされていくのを感じました。

「セミさん、ありがとう」と声を掛けると、
「もう行っちゃうの?」と、名残を惜しんでくれました。

セミとの対話を通して、
神様の貴い愛に包まれた瞬間でした。

(男性 60代)

私の心の中にいる神様
「蝉時雨の中で」
(Blessed Lifeより)


一つのものに全精神を集中させれば、
自然が海が語りかけていることを知るでしょう。

肉が心と戦っている時、もっと心の方に、
あなたが耳を傾ければ、
良心の声がどちらか聞こえてくるでしょう。

そのように、神をみつけるのです。

そのようなことに集中して、黙想する時、
風が吹けばや神秘的な音楽を聞き、
陽がのぼり、小鳥がさえずる時、
何かすばらしいことがありそうな気がします。

それが、神の創造の心情でした。


「神の悲しみと人間の無知」
1975年10月14日(解放記念日)
ベルベディアにて


セミと会話をする、ということは、
通常あり得ないような話ではありますが、
良心の声が目覚めると、
そういうこともあるのでしょう。

自然万物は堕落していないので、
神様の心情を知っているし、人間の愛を求めている。
神が私たちにも
働きかけてくださっていることを
このように無邪気に教えてくれるのですね。

自然を媒介として神様を知ることもあるのだなぁ、
自然の中にいると癒される理由がわかった気がします。

真の父母様は、困難な道のりを歩んでこられました。
そういったときに、自然と対話されながら、
神様の心情に触れていかれたのだと思います。

日常の喧騒に飲まれそうになる時、
「神の息遣いを聞く」と言われるように、
自然の声に耳を傾ける、
心の余裕をもっていきたいものです。






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2020年09月16日

贖罪には父母の涙が必要だった あなたの罪は私の罪?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
「信仰・希望・愛の路程」より
『相手の過ちに涙を流し哀れむとき贖罪になる』を紹介します。


父母の立場は、メシヤの立場と同じです。
イエス様は、仲保者の立場に立たなければならないかたです。

神の立場で人間に対するなら、
悔しくて残念でのろいたいことでしょう。

しかし父母の心を持ってふびんな大衆を見つめるとき、
哀れみと涙で神の前に
謝罪しなければならないイエス様でした。
これが贖罪です。

子供のために心を痛めたとかんしゃくを起こすなら、
子供の過ちに責任を持っていないことになります。

子供の過ちに責任を持たなければなりません。
子供の過ちを見ながら、「私に似たんだなあ!」
と責任を持って涙を流さなければなりません。

「おまえはほかの人に似たのではなく、私に似たんだなあ!
 おまえの罪は、私の罪だ」。
これが贖罪法です。

あの者たちの罪が私の罪であり、あの者たちの犯罪が私の犯罪だと、
涙を流して悲しむとき、堕罪になるのです。
これができなければ天情が人情になってしまいます。

塩がどんな物質の中に入っても、塩辛い味を失わないように、
どんな難しい状況の中にあっても、
味を失わない父母にならなければなりません。

父母が子供の事情を聞いてあげ、協助しながらも、
父母の味を失わないのは、父母が
哀れみと涙を持った生活をしているからです。

どんな子供でも、父母の哀れみと涙の前には、
悔い改めの心を持つようになります。

ところが、もしかんしゃくを起こせば、
その子供を直すことはできません。
その子供の過ちを贖罪してあげることはできないのです。

李耀翰 
「生活の中の心情復活」
 (『信仰と生活 第3集・私の神様』を改題) 

信仰・希望・愛の路程  
一九八五年十月二十九日(火)統一神学校
この説教はチャペルの時間に語られたもの


子供の問題は、本人に指摘しても、
結局自分に返ってきます。

「私の責任」という観点ですべての物事を
見つめるなら、どうでしょうか。
責任を持つ人、というのは、
そういう見つめ方をするわけですね。

私が父母の立場で、見るならば、
足りない部分を批判するだけで
終わることはできません。

環境のせいにするとか、
人のせいにするとか、
そういう見つめ方ではないでしょう。

それが、真の父母様の立場だと思うのです。

神(天の父母)様と真の父母様は、
私たちの幸せを願っている。。。
この子の願いを叶えてあげたいと思っている。。。
だから、代わりに愛してあげる。。。
それが、責任をもつ者の立場かと思います。

父母様の願いにいかに応えることができるか、
「私の責任をいかに果たすか」
そのことを追い求めていくわけですが、
「私の責任」が、ただ私個人のことだけの
責任ではないということを、
心に留めていきたいと思うのです。





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