2020年09月16日

贖罪には父母の涙が必要だった あなたの罪は私の罪?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
「信仰・希望・愛の路程」より
『相手の過ちに涙を流し哀れむとき贖罪になる』を紹介します。


父母の立場は、メシヤの立場と同じです。
イエス様は、仲保者の立場に立たなければならないかたです。

神の立場で人間に対するなら、
悔しくて残念でのろいたいことでしょう。

しかし父母の心を持ってふびんな大衆を見つめるとき、
哀れみと涙で神の前に
謝罪しなければならないイエス様でした。
これが贖罪です。

子供のために心を痛めたとかんしゃくを起こすなら、
子供の過ちに責任を持っていないことになります。

子供の過ちに責任を持たなければなりません。
子供の過ちを見ながら、「私に似たんだなあ!」
と責任を持って涙を流さなければなりません。

「おまえはほかの人に似たのではなく、私に似たんだなあ!
 おまえの罪は、私の罪だ」。
これが贖罪法です。

あの者たちの罪が私の罪であり、あの者たちの犯罪が私の犯罪だと、
涙を流して悲しむとき、堕罪になるのです。
これができなければ天情が人情になってしまいます。

塩がどんな物質の中に入っても、塩辛い味を失わないように、
どんな難しい状況の中にあっても、
味を失わない父母にならなければなりません。

父母が子供の事情を聞いてあげ、協助しながらも、
父母の味を失わないのは、父母が
哀れみと涙を持った生活をしているからです。

どんな子供でも、父母の哀れみと涙の前には、
悔い改めの心を持つようになります。

ところが、もしかんしゃくを起こせば、
その子供を直すことはできません。
その子供の過ちを贖罪してあげることはできないのです。

李耀翰 
「生活の中の心情復活」
 (『信仰と生活 第3集・私の神様』を改題) 

信仰・希望・愛の路程  
一九八五年十月二十九日(火)統一神学校
この説教はチャペルの時間に語られたもの


子供の問題は、本人に指摘しても、
結局自分に返ってきます。

「私の責任」という観点ですべての物事を
見つめるなら、どうでしょうか。
責任を持つ人、というのは、
そういう見つめ方をするわけですね。

私が父母の立場で、見るならば、
足りない部分を批判するだけで
終わることはできません。

環境のせいにするとか、
人のせいにするとか、
そういう見つめ方ではないでしょう。

それが、真の父母様の立場だと思うのです。

神(天の父母)様と真の父母様は、
私たちの幸せを願っている。。。
この子の願いを叶えてあげたいと思っている。。。
だから、代わりに愛してあげる。。。
それが、責任をもつ者の立場かと思います。

父母様の願いにいかに応えることができるか、
「私の責任をいかに果たすか」
そのことを追い求めていくわけですが、
「私の責任」が、ただ私個人のことだけの
責任ではないということを、
心に留めていきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 10:25 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする