2020年10月24日

苦痛をさけてばかりではいけない 「私の十字架」を正しく越える?! 《李ヨハネ先生》



10371928_395847543898983_1473957547634981457_n.jpg


李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「苦痛の中での『信従』」です。


きょうはイエス様のみ言の中で一番の至上命令として扱われている
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」
という聖句をもとに、
「苦痛の中での信従」という題目で考えてみようと思います。

「信従」の意味は信じて従うということですが、
苦痛における「従順」という言葉を使わずに、
信従という言葉を選んだのは、従順とは少し違って、
「信じて従う」という内容でお話ししようと思うからです。



自分の十字架を探したか

この一カ月間、私たちは苦痛という問題を考えながら、
信仰の道を正しく行くためには、
苦痛を正しく扱わなければならないことが分かりました。

苦労はしながらも、私たちの心霊があまり復活していなかったのは、
苦痛を私たちの生命の役事として感受できなかったためです。


私たちが受ける苦痛とは、
その中に神が私を呼ぶ声や啓示があるのです。
苦痛を通して訪ねてくる神のみ意を
正しく知らねばならないということです。

十字架は苦痛なのですが、苦痛は罪ゆえに来るのであり、
その罪は「私たちの」堕落性の発露の結果です。
堕落性のゆえに苦痛が来るようになるのです。

それは、初めに私たちの堕落性が神に苦痛を与えたからです。
私たちの堕落性ゆえにイエス様にも十字架を負わせ、
前後左右にいばらのやぶをつくってきたという事実を、
私たちはよく知っています


自分の十字架は自分が負いなさいと語られましたが、
私たちはどういう場合が自分の十字架であり、
堕落性が何であるのかを見分けられずに、
ろくろく成長してきませんでした。

自分たちの生活が正当だと思って生きてきましたが、
気がついてみると堕落性がそのまま残っていました。

カインは自分の考えが正しいと思っていましたが、
気がついてみると堕落性でした。
ハムもそうであり、イスラエル民族もそうでした。
自分たちが空腹の時、それを恨むことが正当だと思って恨みました。


このように今日まで、自分の十字架を正しく負うことができず、
天を悲しませてきた不信の歴史を考える時に、
私たちは果たして自分の十字架を正しく悟った自分だろうかと、
自ら問うてみないわけにはいきません。

私は、私の十字架を発見した私なのか、
「本然の私」と「堕落した私」を正しく分立できる自分なのか、
という自覚が要求されます。


ここで指摘せざるをえないことは、恵みを受けた人たちに
「自分」という堕落性がさらにあるということです。

聖霊を受けさえすれば生まれ変わると思ったのに、
聖霊を受けた人たちに堕落性がなお残っているということは、
どういうことでしょうか? 

信心深い律法学者や祭司長がイエス様を殺害し、
信心深い人が文先生を憎みます。

こういうことを見ると、信じるという人たちがもう一段階生まれ変われず、
白く塗った墓(マタイ二三・27)になっていると
イエス様がとがめられた意味が理解できます。


自分の苦痛と天の苦痛を負って従ってこない者は、
私にふさわしくない、すなわち自分の十字架と主の十字架を負って
従順に従ってこない者も私にふさわしくないというのです。

さらに、自分の両親や夫や妻や、自分の生命よりも
私を愛する者こそふさわしいというみ言は、
自分の苦痛を捨てて主の苦痛を負って、
従ってこない者は私にふさわしくないというみ言として、
肝に銘じなければなりません。


私たちは普通、苦痛を避けようとします。
苦痛が来なければいいと思います。
私たちは苦痛に出遭うと、蕩減を受けるのだと、恥ずかしく考えます。

しかし、苦痛はそれを正しく受け止めれば、祝福であり、神の愛です。
苦痛は神の秘密が伝わってくる通路です。


この苦痛をまず探し出さなければならないのですが、
私の苦痛が何かというと、それは善悪の闘いのことなのです。

すなわちみ言によって自分における苦痛を正しく見いだす人が、
真に自分の十字架を探し、つかむ人なのです。

それは、何が私の中で怨讐であり、
何が私の平和を妨げるのかを正しく見いだす人です。

 
(月刊『ファミリー』一九八二年十二月号掲載)


「聖霊を受けさえすれば生まれ変わると思ったのに、
聖霊を受けた人たちに堕落性がなお残っている」
今回、このみ言がとても印象的でした。

信仰とは、山を登るときと同じだな、と思わされます。
山を極めた時の感動、喜び、その背後には、
山を登るにあたっての苦労、苦痛というものがあります。

さらには、登った後に山を降りなければなりません。
堕落性を脱がないといけない、ということなのだ、
山を登って満足するだけではいけない、
それが、自分の十字架を背負う、ということなのかな、
そのように思いました。

そして、私たちは、「天の父母様を知っている」
「真の父母様を知っている」「祝福を受けた者たちだ」
そのような思いに留まっていることも、
「白く塗った墓になっている」
イエス様がかつて指摘した律法学者たちと
同じ立場になってしまうのではないか、
そのようにも思わされます。







にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする