李ヨハネ(イ ヨハン)先生の「信仰と生活」より、
『見物人になるな』
ヨハネ先生の「信仰と生活」は1冊まるごと
宝物のように貴重ですが、
今回紹介するのは、その中でも印象深い
選りすぐりの内容です。
☆
自分の立場で伝道する人、自分の事情によって、
趣味によって働く人は、
結果が良くなければ気落ちしてしまいます。
だから、結果が悪かった場合に気落ちする人は、
その動機において、
自分の立場で出発したことが露見するのです。
信仰は、立場が問題です。
動機が問題なのです。
☆
コツは神の立場にあるのに、
この立場をしっかり結ばずに信仰する人が多いのです。
こういう人たちを先生は、
「見物人」と言われます。
公園に見物に行くというように、
教会に見物に来た人たちには、
信仰の立場を離れた人が多いのです。
☆
例えば、モーセが六十万の民を連れて
カナンに行く時には見物人がたくさんいたし、
イエス様が奇跡を行った時にも見物人がたくさんいたし、
イエス様の弟子たちですら見物人だったのです。
そのことはどこで分かったかというと、
イエス様が捕まって十字架を担いでいく時、
ペテロにおいては三回もイエス様を否定したことから、
結果が分かったのです。
☆
同じように、私たちが主のために献身的に働いて、
結果が思いどおりにいかなかった場合、
気落ちする人は、結局、この動機が違うのです。
落ちても上がっても、喜ぶ必要もないし、
悲しむ必要もないのです。
なぜ神が、私たちを使っているかを
理解しなければならないのです。
それを、神の仕事を自分がやっていると
錯覚してしまうのです。
自分の仕事は自分自身がやっているのではないのに、
人間は知らずに、うれしがったり、
悲しがったりしてしまうのです。
☆
それは、神の立場に固く結ばれていないからです。
その時は、動機が違うのです。
ここが、信仰者の一番の秘密です。
すなわち、神の立場と自分との関係、
これが「原理」を利用する人の秘密なのです。
だから神のほうで、手を出して捕まえてくださり、
いつも神のほうで、信じなくてはいけない
という証拠を下さるのです。
だれでも信仰を出発した日には、
何か説明できない不思議な力を与えられたはずです。
証拠がなければ、信仰するはずがないのです。
そこにおいて結んだ立場を、
もち続けること、それが信仰なのです。
☆
私がこの道に来たのは、
私自身もいろんな理由があったかもしれませんが、
考えてみたら、自分が動機ではありません。
自分が来たくて来たのではなく、
天が導いてくださったのです。
そのことを感じていながらも、
与えられたみ旨の中で、
あるいは生活の中で
よい結果が出ないと、落ち込んでしまったりします。
そういった意味では、
私たちは原点に返る、
基本に返ることが重要なのでしょう。
見物人にならないよう、
常に動機を意識していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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