2021年01月25日

なんで子供を叱ってしまったのか、良心にきいてみたら── 《自己牧会プログラム》



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天正宮の花☆


自己牧会プログラム
今回は、「子供が幸福なら、それでよい」です。


昨年、新型コロナウイルス感染拡大を受けて、
緊急事態宣言が出されていた時のことです。

学校が休みになり、小・中学生のわが家の子供たちも
終日家にいるので、欲求不満がたまっているようでした。

一日中ダラダラと過ごし、やるべきことをやっていなかったり、
部屋も散らかしっぱなしだったりという状況が続き、
ある日の朝、思わずきつく注意してしまいました。

あとから、一方的に叱ってしまったなと
自分を責める思いが湧いてきて、もやもやが消えません。

バスで職場に向かいながら、
「私は今、子供を否定的に見つめています。
この思いはどこから来るのでしょうか」
と良心に尋ねてみました。

そうすると、「子供が心配だからだ」と返ってきました。

「何を心配しているのでしょうか」と尋ねると、
「子供の将来のことだ」という答えを感じました。

私が思わず、「子供の将来を心配するのは、
親として当然ですよね」と言おうとした瞬間、
「それは子供に任せたらよい。
子供が幸福なら、それでよい」
という答えが返ってきたのです。

バスの中でしたが、思わず、
「幸福か、幸福か」とつぶやいていました。

「子供が幸福だったらよい、幸福だったらよい」
という思いが心の中を巡りました。

そして、私はただ子供の幸福を願っていて、
注意し責め立てることを望んではいない
ということが分かったのです。

その時、前の席で3歳くらいの男の子がお母さんに、
「ああでね、こうでね」と一生懸命話をしている姿が
目に飛び込んできました。

その姿があまりにも自然で素直で無心で、
思わず笑みがこぼれました。

私もこのように、ありのまま、心のままに、
囚(とら)われなく生きていきたいなと
深く感じながら、職場に向かいました。

いつの間にか、心に光と平安が戻っているのを感じました。

(男性 40代)

私の心の中にいる神様 53
子供が幸福なら、それでよい
(blessed lifeより)


子供たちに対して、多大なる願いを
かけてしまうのが、親ではないでしょうか。

やはり、愛している、からであり、
自分以上になってほしい、と思っているからです。
しかし、なかなか親の願い通りには、いかないものですね。

「子供が幸福ならそれでよい」
これが良心の答えでしたが、
きっと神様がいつも思っていることなのかもしれません。

いずれにしても、
親というのは、子どもが生まれたから、
自動的に親になるわけではなく、
子どもの成長に応じて、親も成長していくのだ。。
日々、感じさせてもらっています。




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posted by ten1ko2 at 08:27 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月24日

なぜみ言が長いのか、なぜ大声で語られるのか 《平壌開拓 金元弼先生》



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金元弼先生の教会創立前の証しの続き。
今日は、『なぜ大きな声で語られるのか』です。

平壌時代のお話ですが、
お父様のみ言についてですので、
教会創立後の話も交えながら語って下さっています。


皆さん、み言を語られる時に
大きな声で語る理由を理解してほしいのです。

先生はなぜそんなにするのだろうかと考えるかもしれません。

み言を知らず真理が分からずに死にかかっている、
そういう人に真理を教えますと、
生き返って喜ぶ姿を見ることがあると思います。

それと同じく先生は人々が死の中にいるのを見ると、
それを生かそうとする深刻な心をもたれるのです。
先生はそのように考えてするのではなく、直接それが見えるのです。

そればかりではなく霊的に見れば、
サタンが傍らにいて連れていこうとする状態が見えるので、
話をする時に静かに語ることは難しかったと思います。

 
そして(平壌開拓の頃も)先生がひとたび語りますと
非常に細かく語られ、
時間にも注意していなかったのです。
ですから十二時になるのも分からなかったわけです。

それらの人の中には家庭を守らなければならない人もいます。
あるいは職業に就いていて、出社時間までに
行かなければならない人もいます。
学校に行かなければならない人もいます。

しかし、み言は非常に恵みとなりますから、
明日の時間や、これからの約束の時間を守らないで
み言を聞くようになったのです。

 
(後年)ある時、韓鶴子夫人が先生に、
「お父様、食口たちはみ言が非常に長いということを
言っていますけれども、なるべく短くすることは
できませんでしょうか」と勧めたことがありました。

その時に先生が夫人に答えたことは次のとおりでした。

「短くすることは私もよく知っています。
今この話をしてあげたらこの人たちが生き返る、
そういう人が見える」と言われるのです。

もしそれを止めたとするならば
そのまま生き返ることはできないというのです。

み言は人に生命力を与えるものです。
短くしたら別の人には良いのですけれども、
こちらの人はよみがえらないのです。

ですからその人の問題を解決するばかりでなく、
すべての人に解決を与えるために
仕方なく長く語らざるを得ないのです。

この世の講義とは違うのです。
知識を伝達するのと違い、生命をよみがえらせるために
長くなる、ということをお話ししてくださったのです。

先生と私たちと違うのは、死にかかっている姿や
生き返る姿が、先生には目に見えるということです。


話をする時、重要な点は大抵強調します。

先生が大きな声でお話しするのは、
その人にとって非常に重要なことですから、
真心を込めてあげようとすると大きな声に
ならざるを得ないと理解するのです。

愛する子供が泳げないのに、海の深い所へ
どんどんどんどん行ってしまうならば、
皆さんは子供が遠くにいるのに静かに
「帰ってきなさい。帰ってきなさい」と言いますか。
大きな声で叫ぶでしょうか。
それと同じことです。

 
私たちの背後には多くの善霊界と悪霊界があるということを
忘れてはいけないと思います。
私たちはそれがはっきり分からないのですが、
先生にはそれが全部見えるのです。

そういうことで、その時は何も分からなかったけれども、
今考えてみるとそういう事情であったのかと分かるのです。
それは時間がたつのを忘れて熱中して
み言を語ってくださったことから理解するようになりました。


(平壌開拓の頃)先生は本当にいつもいつも
汗を流し、さっきも言ったごとく
み言を与える時に涙で訴えてくださいました。

お祈りの時、あまりにも先生が涙を流し、
食口たちが全員涙を流すのを見たときに、
私は非常に苦しかったのでした。

なぜかといえば、そのように全員が涙でいっぱいなのに、
私は涙がでなかったからです。

お祈りの間は分からないのですけれども、
お祈りが終わった時には全員が涙をふくのです。

私には涙がないからそれが大変恥ずかしかったのです。
私だけが涙を流していないので、
その人たちが私を見てどう考えるか
ということを思うと非常につらかったのです。

そのくらいに先生と食口たちが、
たくさん涙を流したということを皆様に話したかったのです。

 
先生はたとえ年を取った食口であっても、
帰ろうとすると、それを決して喜びませんでした。

「もっとここにいるように」と
いつもいつも言われるのです。

また、先生は食口が見えないと、
来ないのだろうかと非常に待ち遠しくしておられました。

編集・文責:ten1ko2

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々


真のお父様は、まさに、霊的なお医者さんですね。

医者はある人が病気にかかった場合、
その人の命を助けるために、手術をします。

お父様のみ言を通して、
人は復活して生き返る、というのです。

また、み言を長く語ることを通して、
蘇る人がいるとするなら、
長く話さざるを得ないのは、
まさに「真の親」であるからにほかなりません。

私たちは誰がどのような状態なのか、
霊的に鈍くて全く分かりませんけれど、
私も講義する機会がありますので、
貴いみ言を語ることができることが感謝であり、
霊的生命を復活させるために、み言を語れるんだ。。。
そういう心情で臨んでいきたいと思うのです。






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2021年01月23日

原理講論の一節一節に込められた精誠・・! 《劉孝元先生の執筆日誌》



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先日、2日修錬会の講義を担当した際
史吉子(サ キルジャ)先生の証しを読みました。

原理講論を執筆された劉孝元(ユ ヒョウウォン)先生が、
真のお父様に一つひとつ確認しながら
書かれていったやりとりが掲載されていました。

当時の劉先生の日記の部分を
紹介します。


1966年1月31日(月)

陰陽の調和で性相と形状が、
形成されるのかを質問した。
先生の答えは、反対だった。
性相と形状の調和で、
陰陽が生じるといわれた。

青天の霹靂だ。
すべての存在が陰陽の調和で成されるという、
従来の説が覆された。

これは結果の世界ではそのように見えるが、
神様においては不然(そうではないの意)であり、
神様に陰陽がすでに成されているなら、
創造がないのであるとおっしゃった。

神様には本性相と本形状があり、
それが男性と女性の関係をもっているので、
二性性相の調和で被造物が創られる時、
陽性と陰性、性相と形状が生まれたと
表現しても良いかという質問に同意され、
本意がわかるようになった。


1966年2月3日(木)

創造原理第1節を、
もう一度書かなければならない。
性相と形状がすべての存在の
根本になるという論証だ。

先生は真理の本体であることを、
もう一度悟らされた。

史吉子
『原理に関するみ言の証』より


劉孝元先生がこのように
真のお父様と一問一答しながら、
原理の探求をされ
原理講論を執筆された様子を
うかがい知ることが出来ます。

一つ一つの言葉の背後に
血のにじむような精誠と
涙が綴られていることを
改めて感じました。

劉孝元先生は、お父様の原理原本を
1ページ読まれる時、数百回涙を流されたそうです。
また、1ページ書き上げるのに、
1週間かかったこともあったそうです。

「原理の復権」が叫ばれる今日。
み言の貴さを改めて感じつつ、
精誠を込めて、語っていきたいし、
多くの人たちに伝えていきたいと思うのです。





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