2021年01月19日

第六感 神・霊界・メシヤをみんな知っている?!  《李ヨハネ先生の信仰と生活》



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李ヨハネ先生の「信仰と生活」より、
今回は、「勘」です。


「勘」は知よりも先にあるのです。
善悪を分別するのです。

理知的に分からないから、自分たちが感じながら
失敗してしまい、あとでだれでも告白するのが
「どうもおかしかった、そうじゃないかと
思ったのだが失敗しちゃった」という言葉です。

失敗したあとの告白を聞いてみると、
「全然知らなかった」と言う人はいないのです。
「予感した」と言うのです。
「何か不思議だった」と。

 
一九四五年八月十五日、私は愛知県豊橋市で、
ある会社の社長さんたちと一緒に「降伏」の日を迎えたのですが、
その日の幹部の人たちがどう言うかというと、
「これはもう、新聞は全部うそだと思った」、
「いつもいつも新聞にはB―29が何十機、
何百機が落ちたと出たけれども、全部うそだと思った。
それはもう簡単に分かった」と言うのです。

田中さんという事務員がいたのですが、
その人も「戦争は終わったと分かっていた」と言うのです。
結局、勘でみな分かっているのです。


今の時代もそうです。

今の時代、キリスト教の牧師たちはみな分かっているのです。
これではいけないと、こういう聖書の解釈の仕方ではいけないと。

これでは霊的な糧にならない、こういう説教では、
もう若い人たちをリードすることができないと、
みな牧師たちが自分で、その勘から告白するのです。

分かっているのです。
この時期を分かっているのです。


なぜかというと、天から地上の人に、
いつも秘密に摂理するのではないからです。
絶対に神様は、秘密に摂理をするのではないのです。

人間を愛するから、三年前、七年前に、
全人類にもはや秘密を教えているのです。

しかし、人間たちが頑固なのです。
悲観的な考え方で、感ずるけれども、
実際には動かないから、結局、悩みの中に渦を巻いていくのです。

聖書の解釈でも、これではいけないと分かりながらも、
これを捨てて何か新しいものを探そうという
革命的な行動をしないから、
結局、霊的にとても苦しんでいるのです。
勘は神の立場を知っているのです。

メシヤがユダヤ人の中にいて、
人々はその人をメシヤだとは知らなくても、勘では知っているのです。

どこまで?
最後まで知っているのです。

エデンの園、愛の世界をみな知っているのです。
具体的に暮らしたことはないけれども、
情的には、接触しているのです。

だから何か、心が慌てるのです。
肉体は心に遅れているし、
勘はその本然の世界に行っているしで、とても慌てるのです。

信仰者は慌てるのです。
信仰者でなくても、青年たちが今、慌てて、慌てて、
疲れて、疲れて、もうでたらめになっています。

勘/感じても行動しない

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


「勘」という題目に接するのは、初めてのような。。。

別の言葉で表現するならば、「霊的直観力」
とでも言うのでしょうか。
俗に、五感とは別のもう一つの感性ということで、
第六感と呼ばれたりしますね。

お母様は、事あるごとに
「私と一つになりなさい」と仰られます。

天運の中心であるお母様と一つになることが、
天運を相続することであり、
霊的な恩恵を受ける立場になるのだ、と思います。

お母様をもっともっと意識していくことを通して、
最高に「勘」の鋭い者になっていけるに
違いないと思うのです。




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2021年01月18日

これが本当の私だ! ワクワクの始まり 《自己牧会プログラム・方法と証し》



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「本然の自分を感じる」ワーク、
解説の続きと証しの〆になります。


まず自分の中に天国を築かなければならない

神様の核心は心情です。
本来、すべての人は神の子女ですから、
愛することを通して、喜びたいというのが、その本質です。

そのことを思えば、本来あるべき
自分を思い描くことができます。
嫌な気持ちが生じても、
それがあっという間に消えていきます。

このようにして、平安な心の土台の上に、
すべてを愛そうとする本性が引き出されたら、
おのずと、皆と一つになることができる自分を
感じることができるのです。

皆さんのイメージの中で、出会うすべての人と
一つになっている平和を感じませんか? 

それを感じたら、すべてに感謝する、
そんな気持ちが自分の心の中に築けるのではないでしょうか。

自分の中にまず天国を築かなければならないのです。

そうすると、私の中に
神様が臨在していらっしゃることを感じませんか。

真の父母様のみ言を実践して、
生活の中で実体化すれば、
神様の真の愛を相続することができるのです。

これが私たちの目指すべき本当の姿ではないでしょうか。
うれしくなりますね。
これこそが真の父母様が語っていることなのです。


「本然の自分を感じる」ワーク実践の証し

自分が解放された分、願いもかなう!
                   [50代/女性/1さんの実践報告]
「本然の自分を感じる」ワークを実践する中で、
妄想の中で生活している自分だったということがはっきり分かってきました。

「これはこうだから難しい」
「こうなったらどうしよう」と
自ら苦しみや心配を作り出し続け、
自分の限界も決めていたことを感じています。

囚われのない自分って、どんな感じがするだろうか? 
自由で平和で一つの幸福な世界、平安を
イメージし、感じるように努めてきました。

そして、創造本然の自分を感じながら、
実現したい目標を明確にして歩んでいきました。

年頭に12個の目標を立てましたが、半分は実現し、
他の目標に対しても具体的な前進がありました。

その中に、真のお父様の聖和4周年までの8ヵ月間で
21人のゲストをワークの受講決定に導こうという
目標がありましたが、結果として23人を
ワークにつなげることができました。

「本然の自分を感じる」ワークで
囚われの自分から解放され、
自分で作った限界線がなくなったからだと実感しています。

(一部割愛しています
文責:ten1ko2)

「信仰生活補助教材 自己牧会プログラム
『囚われの自分』からの解放を目指して」
第1章 心のしくみ
1.自己主管
WORK1「本然の自分を感じる」ワーク


私の「心」は、制限のない、
自由と平和と幸福を感じることができるものなのだ・・・
だから、良心に従って生活していきたい。
本当にそう思います。

ワークを読んでいるだけでも
心が解放し、満たされていきます。

深く瞑想し、実践していく
そんな者になって行きたいと思います。






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posted by ten1ko2 at 07:25 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月17日

若き再臨主の「火のようなみ言」 神霊の役事で礼拝は大騒ぎ 《平壌開拓 元弼先生》



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金元弼先生の「伝統の源流」から、
平壌(ピョンヤン)時代の証しの3回目、
『火のようなみ言』を紹介します。


先生はその当時、先生を訪ねてくる人々に
テーブルに座って話してくださいました。

そのみ言はとても簡単明瞭でした。
創造、堕落、復帰原理という筋で、ポイントをついて
一、二時間で全部話してくださいました。

一緒に周りにいた人たちは、先生の言われることに
非常に感動してよく頭に入れ、うなずきながら聞いていますが、
私はその人たちのごとくはっきりと分かりません。
感動できません。

そこでどうして私はそうならないのかと、
先生のみ言を聞いて感動する隣の人に対して、
非常にうらやましく思いながら、
先生のみ言を聞いたことを記憶しています。

私はキリスト教の教理が何も分からず、
人生の問題に対する深刻な悩みを
特別にもったことがなかったからかもしれません。


私はその当時、先生のお年を聞こうとも考えなかったのですが、
お年が分かったのはそれから何年も経てからでした。
私には先生が若くは見えませんでした。

先生はこの世の人とも思えない本当に慈悲深い、
そういう平和のお方であると思いました。
心が先生にどんどん引かれたのは否定できません。
私は先生に会って非常に平和感を覚えました。

先生のみ言の一つ一つを熱心に書き付けておいて、
それを覚えるくらい何度も繰り返して読みました。

ただ一つ私の心から離れないのは、
先生が下さったそのみ言であり、
町を歩いてもどこを歩いても頭から離れないで
いつもいつも思い浮べました。


先生の周りにいる食口たちは、年を取っている人や若い人たちですが、
私の目にはすべての人が神様のごとく天使のごとく映りました。

そこで時間があれば教会を訪ね、「帰りなさい」と言われない限り、
いつまでも教会の中にいました。

もちろん私に帰りなさいという人はいませんが、
その当時は午前零時から通行禁止(戒厳令)になっていましたので、
自分で時間を見て帰らなければなりませんでした。

食口たちと一緒に、先生のみ言を通行禁止の時間になっても、
それを忘れて聞いていた時にはそのまま教会に一緒に寝ました。

食口たちは本当に道を求めてきた人たちでしたので、
通行禁止の時間が迫ってもなかなか教会を出ようとはしませんでした。


私がこのように先生の最初の牧会のことを話しているのは、
その時の先生の様子を共に皆様に想像してもらうためです。

皆さん、米国では男女が同じ部屋で話し、
いろいろな人が寝泊まりしていても何も言う人はいません。
けれども当時の韓国では、男女が夜遅くまで同じ所で、
たとえクリスチャンであっても、同じ場所で長く話し、
そこに寝泊まりするということは、本当に理解し難いことでした。

米国では壁と戸が全部屋にあって
隣の部屋に人がいても見ることができませんが、
韓国の家というのはそうなっていないので、
人々がいるのを見ることができるのです。

先生は、み言を与えることによって人々の生命が復活するのを願う
その一念に心掛けていますので、時間が遅くなっても、
人はどう見るだろうかということに気付かずにみ言を下さいました。


先生はみ言を語るにしても、お祈りをするにしても、
いつもいつも涙を流しておられました。

今、先生の年は中年を越えているのですが、
私たちの前でみ言を本当に大きな声で熱心に語ってくださいます。

二十六歳という若い時の先生が、
小さな部屋でどれくらい大きな声で熱心に語ってくださったか
想像するのに難しくないと思います。

先生はみ言を語り始めると、食口たちが用事があって立たない限り、
いつまでも語り続けられるのです。


また先生がお話しされる時に入神する人、予言する人、異言を語る人、
その異言を通訳する人もいました。

そのような雰囲気の中で、食口たちの大部分は火を受けるようになり、
ある人は肩から火が入ってくるのを感じました。
また、胸から火が入ってくるのを感じ、熱いながらも平和感を感じていました。

先生は公席ではお話をたくさんしてくださいますが、
私席においては絶対にみ言を語られないのです。

そして先生がみ言を語り始められますと神霊の役事が起こるのです。
そうなると声が大きくなり、その次には体がじっとしていられないのです。

過去には神の心情を知らなかった人が、神の心情を体恤するようになって、
悔い改めながら泣き、泣いた後は心からうれしくなって喜んで歌ったり、
踊ったりするので、礼拝は大騒ぎとなるのです。

火のようなみ言

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々


残念ながらその当時のお写真はありませんが、
お父様がみ言を何時間も熱く語られる
その姿が浮かんでくるようです。

火のようなみ言を語られるお父様。
そして、集まった人たちが霊的な役事を受ける。。。
すごい光景だったことでしょう。

東洋のエルサレムと言われた平壌、
神霊的な雰囲気があったのかもしれませんし、
共産党の本拠地で、外は迫害の真っただ中だったわけですから、
天が霊的な役事をおこさざるを得なかったのかもしれません。

それでも、時代は違うとはいえ
み言は、普遍的なものですから、
今も切実にみ言を求めれば
そのような役事が現れるのでしょうか。

もっともっと切実な姿勢が必要なのか、
いろいろ考えさせられます。

そんな中、金元弼先生は、
食口たちが感動しているのに、
感動できなかったと語られています。

お父様の三弟子であられる金元弼先生であっても、
導かれた当初の18歳の頃は
み言がわからなかったのですね。

しかし、お父様のみ言を書き付け、覚えるくらいに読んで、
心からみ言が離れなくなった、というのは
心情がとても素直であり、
本当にお父様を慕っていたんだなと思います。

昔は、み言は書き付けておかなければ
記録されませんでしたが、
今は、み言が溢れている時代です。

だからこそ、私たちも、金元弼先生のように、
切実にみ言を求める姿勢が必要だ、と感じるのです。





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posted by ten1ko2 at 08:58 | Comment(0) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする