2021年02月25日

私たちは、真の父母の頭の上に足を置いて立っている?! 《今週の礼拝2》



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昨日の御聖誕及び基元節8周年記念式☆


渡邊教会長の説教。
後半の内容をお伝えします。


そして、私が信仰生活を送りながら、幼い時には
真の父母様について考えることがたくさんありました。
よい思いで考えることもあれば、
凄く複雑な思いで見ることも、やはりあったんですね。

2世というのは、選べないですから
強制されたという言い方は変ですけど、
生まれた時からそうじゃないですか。

逃げられない、でもプレッシャーがすごい、みたいな感じで。
それがすごく嫌だった、
要するに自分自身で選べない
自分の努力でどうした、ということでもない。。。

でももう決められてしまっているということに対しての、
何か複雑さと、まぁ抵抗でありましたが、
今ではそれが本当に大きな
導きであると、もちろん感じています。


真の父母様に対して、慕わしい思いを持ってきましたけれども、
ある時に、真の父母っていうのはどういうことか、
ということを感じたことがありました。

自分自身が悩んだり揺れたり、思春期の頃に社会との
隔たりというかわだかまりの中で父母様を見上げる時に、
もちろん悪い感情で見たくはないけれど、
父母様の語られるその言葉の強さに、
すごく恨めしく感じてしまうこともあったし、
「真の父母」って自分で言うってことは
一体どういうことか、と思ってしまったんです。


真の父母様が「真の父母宣布」をされたのは、3万双の時ですよね。

そして、家庭連合を94年に創設されていかれますが、
それまでは真の父母様がメシアであるということは、
信仰がある程度進まない限り、証されなかったと聞いています。

それで、真の父母宣布ということが
どういうことなのかを考えた時、
とらえ方によってはえらそうにも聞こえるじゃないですか。
私がかつて感じたようにです。


でも、よく考えてみると、親と子というのは
どちらの方が恵みを多く受けるかというと、子供なんですよね。

親は子供のために命をかけます。
親は子どもの過ちも自分のものだ、自分の責任だ、
と言って引き受けます。

以前よくマスコミに取り上げられた、
二世芸能人の不祥事の話でもそれを感じました。
問題を起こした時、二世芸能人の親が出てきて謝るわけです。

「別に謝らないでもいいでしょ」
と言う人もいれば、
「何で親が出てこないんだ」と
いろんな社会の論調がありますが、
でも親の立場で考えてみた時に
出ないわけにいかないだろうと感じるのです。


ある芸能人の親が、子どもが覚せい剤をやって
捕まったという時、マスコミにさらされて、
「本当に自分の育て方が悪かった」

そして「自分は一生懸命やってきたつもりだったけれども、
そうでなかったことに本当に反省をしています。
皆様にご迷惑をおかけしました」
涙ながらに語るんですね。

保釈金を出さないで、「拘置所で反省してもらう」、
というようなことをその人は言われていて
「息子を周りの人たちはどう見るか分からないし、
もうダメだと(見るかもしれない)。
もちろん芸の道に戻ることを許すつもりはないけれども、
でも、人間として再び反省をし、更生することは信じています。
周りの方々は信じられないかもしれない。
それは当然かもしれないけど、私は信じてます、
親ですから」と言って、「ワー」と泣いたんですね。

それを見ながら、
私もその語る親の芸能人の心にすごく共感を覚えました。
私はまだその時、親になっていなかったと思いますが、
私の親のことも思い出しながらですね。
そうなんだな、と。


親というのは、子どもの人生全部を背負い込みながら、
もちろん子供が独り立ちして行く時までなのかもしれないけれど、
でも子供がどれだけ大きくなったとしても
親はどれだけ老いたとしても、
子供のやることは、自分の責任だと思うのが
親の心情であるし、またある意味で
そう思いたいのが親だと思います。

全人類の真の父である、母である、親である
ということはどういうことか。。。
世界の中で起こるあらゆることは自分の責任だ
というふうに、御父母様が言われているということなんですよ。

みんなは子供だから、私に従いなさい
私を慕いなさい、という宣布ではなくて、
全ての出来事の責任を負い、すべての
この世界が真の意味で幸福になるための責任を
私たちが背負いますという宣布が、
「真の父母宣布」であるということを
ある時にハッと気づかされたんですね。


それ以来、私の父母様に対する見方は
本当に大きく変わっていきました。

私たちは、一世、二世かかわらず、
どれだけ年老いたとしても
父母様の子供じゃないですか。
皆様、神様の子供ですよね。

私たちの歩みというのは、自分の価値は、
測りにくいものがあります。
悪いところもいっぱい見えますし、
弱い部分をたくさん見えますから。

だけども私たちの歩むこの信仰、そして人生というのは
それは父母様の生涯が重なっているものなんだ、
という風に理解をする必要があるわけです。

私たちはただ個人として信仰の道に立っているのではなくて
父母様のそのここまで尽くされた、
もっと言えば神様が復帰摂理をずーっと導いてこられた
そこと、私たちの信仰の歩みというのは直結しているんです。


私の信仰の師匠である中村惣一郎先生が
「祝福の意義と価値」の講義の時に語られていたのは

「我々はどこに立っているかと言うと、
 神様と父母様の頭の上に足を置いて立っている立場が
 統一の信徒たちの立場なんだよ」

ということをいつもいつも語られていたんですね。

父母様が下に入られて、私たちを
持ち上げてこられたんだ、というふうに語られました。

だからなんていうか、私たちの歩みというのは、
父母様と直結しているのだ、と。


そしてこのたび御聖誕日を迎えましたが、
私たちは父母様を貴い存在として感謝をし、
御聖誕日を捧げていくわけなんですが、
父母様の尊さというのは
「私たちが救われたその命に直結している」
ということを忘れてはいけません。

父母様が素晴らしい、だけど私はダメだじゃないんですよ。
本当は父母様が素晴らしいからこそ、
そこに救われた私たちも素晴らしい!

そういう(父母様に救われた)魂を持っている、
そういう命をもっているんだということに
誇りを持って、歩んでいってほしいというふうに思います。

貴い名節を重ねる度に、歴史の中で初めて取り戻された
大きなものを越えていくたびに、
父母様の貴さ、そして神様の偉大さ、愛、
それを感じると同時に、そこによって連結された、
救われた、私自身の命を尊く思える
皆様一人一人になっていってほしいと思うのです。
文責:ten1ko2

渡邊一喜教会長
松戸家庭教会聖日礼拝 2.21


教会長の捉えられる観点が、二世の立場から
語られているというのもあるのですが、
何か、私たちが気づかなかった部分の
深い心情を味わせていただきました。

お父様のみ言の中に、
「真の父母という言葉は、
福音の中の福音である」
さらには、
「神様も恐れる言葉であり、
サタンも恐れる言葉です」
そのように表現されています。

さらに「真の父母」という言葉は、
私たち統一食口に対する呼称ではなく、
「人類の」真の父母という立場であります。

真の父母を知らない人に対しても、
さらには、否定する人に対しても、
「親」として責任を持たれる真の父母様。。。

「真の父母様」と形式的に呼んでしまっている、
そんな自分であることを反省しつつ、
心から誇りに思い、感謝すると同時に、
子女としての道理を果たせるように、
孝情を持っていきたいと思うのです。





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2021年02月24日

教会長の神体験、「私(神)のことを本当に親だと思うのが親孝行だ」! 《今週の礼拝1》



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基元節8周年、おめでとうございます!
今日は9時10分から記念式とのことです。

日曜礼拝において、
渡邊教会長が語られた説教を
2回にわたって紹介します。
説教題目は、「取り戻された『真の父母』」です。

自叙伝「平和の母」より

イエス様は、「私は神の息子であり、神は私の父である」、「私は独り子である」と言いました。独り子とは、天の父母である神様の初愛の実であり、初愛を受けることのできる王子を意味します。だとすれば、独り娘もいなければなりません。独り子は新郎であり、独り娘は新婦です。独り子と独り娘が出会い、結婚しなければなりません。それが聖書に出てくる「小羊の婚宴」です。この婚宴を経て、家庭を築くのです。天の父母様の願いとは、独り子と独り娘が真の家庭を築くことなのです。
人間の願いは、その真の家庭において、真の父母に出会うことです。人間は、真の父母の愛によって完成するのです。真の人間としてこの世を生き、永遠の生を生きるためには、真の父母に出会わなければなりません。たとえ死の道を行くとしても出会うべきなのが、真の父母です。歴史をすべて失い、後孫をみな失うことになるとしても、真の父母に出会えば、歴史を取り戻し、未来も取り戻すことができます。



先日、真の父母様の御聖誕日を迎えました。
名節の中でも、とても重要な一日であると思います。

(また、誕生されたことも貴いですが、)
真の父母として立たれたということが、
最も大きな救いの出発であるということを我々は知る必要があります。

改めて、私たちは真の父母様にどのようにして信仰をつくし、
侍っていくかということが、
やはりこの人生の中で大切です。

お母様は最近、「孝情」という言葉を強調されますね。

日本語にそのままない言葉ですが、
漢字を見ると、親孝行の「孝」なので、親孝行ということだろう、
そういうふうにも思いますが、(「孝情」の意味を)
我々はしっかりと理解をしなければならないと思います。

信仰というと、それぞれ捉え方があるんです。

一番平たい捉え方というのは、信仰というのは神様を信じることです。
これ全然間違ってないんです。
でも、神様を信じる・・・その神様がどういう神様なのかというのは、
この言葉の中では規定されてないですよね。

そこで、「孝情」ということを考えたときに、
この神様がまず大前提として「親」であるということが出てきます。

神様は親でなければならない。
その神様を信仰してきた部分に対して、お母様が数年前に
孝情という言葉に変えてくれたわけですね。

今は、お母様は、どんな文言においても「孝情」を付けられます。
孝情なんとかみたいな、それがないと不信仰みたいな感じで(笑)
それぐらいに神様が親であるということを
私たちは忘れてはいけないんだということを強調されています。

「孝情」というときに、どうしても私たちは
お母様だけを見てしまうことがあります。
でもお母様は「私を慕いなさい」ということを
言われているわけではないのです。

もちろん真の母としてお母様はメシヤだから
イエス様が語られたように、
「私は道であり命であり真理である
私によらずしては神の国に入ることができない」
だから私たちは真の父母様を見なければいけません。

そういう意味では、父母様を、お母様を慕う
というのは正しいことです、だけれども、
お母様だけに留まってしまうと、
それはお母様の言われていることとまた違うのです。

お母様が見ているのは神様ですよ。
だから本当の孝情という時には、
お母様が見つめられている方向を同じようにしてみる
お母様が見ているものを同じくして見るということが
私たちにとって重要なことなのです。


ここで、ひとつすごく大きな
私にとって忘れられない出来事があるんですね。
直接父母様とお会いした時のことではないんですけども、
私が初めて日本で伝道した時の経験をお話します。

私は鮮文大の神学部に行った、とお話ししましたが、
「神の道に自分も行く」と思ってここに来たはずなのに
自分自身に自信がなかったり、
どうしていいのかわからなかったりする中で揺れて揺れて、
休学をたくさんした結果、韓国に8年いました。

そして26歳の時に卒業して、
日本の公職に就くという決意になったんですね。
日本に来た、その1年の始まりが
千葉中央修練所の21修に参加をすることでした。

その21修のプログラムで3日間の伝道路程があります。
千葉駅の駅頭でペアを組んで、歩みました。
1日目、2日目、止まりはしますけど、
全然教育センターに連れていくことができませんでした。

そして、3日目になって、内的目標を「親孝行」にしよう、
修錬会でみ言を受けながら、神様に対する慕わしさとか、
父母様に対しての感謝であるとか、が思わされていたので、
とにかく神様に親孝行できる歩みをしたい、
というふうに思って3日目に入っていったのです。

でもやっぱり止まりはするけれど、
連れていくことができません。
伝道の時間が流れてしまいました。
教会まで戻る前、最後にペアで一緒にその任地でお祈りをします。

その時に私は、お祈りを始めました。
「今日は親孝行という思いであなたのために歩んだつもりでありましたが
何か精誠が足りなかったんだと思います。
あなたが本当に出会いたいその人を私が逃してしまった。
出会うことができなかったと思います」

ちょっと小さな声で祈ったその後に、
突然内から声が聞こえた、というよりも
感覚がバーンとこみ上げてきました。

私は親孝行として歩んでいたつもりだったんですね。
でも、このこみ上げてきた思いというのが
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」
その思いが体の中を駆け巡りました。

その瞬間、涙がバーッと出てきて、止まらなくなって、
一日の歩みが走馬灯のようによみがえりました。

歩みを振り返ってみたときに、
親孝行、と思いながら、神の手足で歩んだか、
そうではなかった気がします。
自分の自尊心というか虚栄心というか、
そういうものが先立っている伝道の歩みだったな。

とにかく一日歩み切ったし精神的にも投入した感はありました。
でも、祈ってみたときに、それが親孝行だったか、
本当に神様に対して今でいう孝情を捧げたいという思いで
歩んだ3日間だったかというと、全くそうではなかったんですね。

自分の親孝行というのは、誰よりも激しく歩んでいる
という見栄みたいなものだし、
何かこうポーズで何かやってる・・みたいな
「俺はこれだけやったぜ」みたいなことを周りの兄弟たちに示す
それが親孝行なんだろうか、恥ずかしくなりましたし、
ものすごく反省をさせられました。

その時に私の中に祈りとして与えられた神様からの言葉です。
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」

私は今まで、神様のためにこれをやってあげる、あれをやってあげる、
図々しくもそんな思いの方が強かったです。
でも自分の根本に、神は親だということに、思い違いがあったんですね。

親だと思ってきたし、今までだって、「神様はいない」とか、
神様も悪く思うことなど、一度もなかったです。
悩んだり迷ったりすることはたくさんありましたけれども、
でも、神様のことを捨てようと思ったことは
一度もありませんでした。

それは幸いでしたが、でもそんな自分の信仰すらまったく幼く、
人と比較をする自尊心だけの、そういう信仰だった、
その愚かさに気づかされました。

でもそんな恥ずかしい歩みでも
その歩みがなければ、それに気づかなかったと思うと、
伝道の実績は、何も与えられませんでした。
だけれども、その1日が神様から、
私に与えられたプレゼントだった、
導かれたのだ、と思います。

導きは、実績から感じるものだと思いがちです。
でも実績が与えられないことも導きです。

本当に良心に従い、信仰の中で神を思い、進んで行ったならば、
何も与えられなくても、そのときに私の中に宿る、
一つの思いが、神から与えられている実績なんです。
それを私は忘れてはいけないと今でも強く思います。

神様が親である、真の父母様が親であるということ、
これほど貴いものはないというふうに私は思っております。
文責:ten1ko2

渡邊一喜教会長
松戸家庭教会聖日礼拝 2.21


教会長が神様から与えられたメッセージ。
「私のことを本当に親だと思うこと、それが親孝行なんだ」
これは、私たちにも願われていることだと思います。

日々の生活においてもそうですし、
また、心情の壁にぶつかるようなことがあったり、
何か限界に直面したりするような時ほど、
神様が私の親である、
その意識を強く持っていきたい、
そのように思いました。

基元節を宣布されるために、
真の父母様が苦労と犠牲の道を歩まれた、
その土台があって、今日の8周年を迎えています。

そのことを何よりも感謝して、
常に孝情の心情を持っていけるようにしていきたいと思います。

明日に続きます。





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2021年02月23日

伝道が実るための必須事項・・・一つになる *劉孝元先生のエピソード



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以前、本部で伝道教育部長をされていた
篠崎幸郎先生(現:地区教育部長)が書かれた
「喜びと幸せの生活伝道」という本があります。

伝道するにおいて、私もとても参考にさせて頂きました。
特に心に残っている部分を紹介したいと思います。


  神様が取ることのできる条件

責任者(アベル)と食口(カイン)の一体化を阻む障害として、
例えば、アベルの堕落性、互いの性格の違い、
そして意見の相違などがあります。

互いにみ旨を愛し一生懸命取り組んでいるのに、
責任者と食口の意見が合わないということが起きるのです。
この意見の相違という問題について考えてみます。


韓国の草創期の、劉孝元先生と
食口たちとのエピソードを紹介します。

あることを進める際、AとBのどちらの方法が良いか、
劉孝元先生と食口が相談しました。
食口たちはどう考えてもBが良いと思って
劉孝元先生と多くの意見交換をしましたが、
最終的に、劉孝元先生はAで押し切ったそうです。

そして、その結果は良くありませんでした。
皆は「だから言ったじゃないか」
と言って劉孝元先生を批判しました。

その話が真のお父様まで届いたそうです。
ところが、お父様は
「それでも劉協会長が正しい」
とおっしゃったというのです。


なぜでしょうか?
AよりもBのほうがいいのに、中心者が認めない。
だから自分でやって中心者に認めさせようという発想は、
たとえ七の実績が上がっても、サタンが持っていくというのです。

三の実績しかなかったとしても、
神様が主管されることをすべきだというのです。

原理的な条件があれば、神様が
さらに大きな恵みを与えてもサタンは讒訴できません。
神様がお取りになれる原理的な条件があれば、
神様はその条件をもって摂理されるでしょう。

重要なことは、サタンが侵入することの
できない基台をいかに立てるかなのです。


堕落の血統を受け継いだ私たちにとって、
「堕落性を脱ぐ」ことは簡単ではありません。

アベル・カインの関係を通して、
堕落性を脱ぐための闘いも起こります。
特に、伝道においてそれが起こりやすいのです。

闘いが生じることは悪いことではありません、
それは歴史的な蕩減を懸けた闘いなので、
すべてに意味があります。

伝道においては、アベルとカインが
その立場に置かれたことを感謝し、
互いの立場を尊重しながら一つになったときに、
神様の愛が流れ、新しい生命として霊の子が誕生するのです。

アベルとカインの愛の秩序が立ったとき、
伝道は実るようになっているのです。

篠崎幸郎著「喜びと幸せの生活伝道」より


このみ言を初めて読んだとき、
結構、衝撃を受けました。

劉孝元先生だけでなく、
お父様ご自身も、実績が少ない、
「劉孝元先生が正しい」と言われたのです。

これは、お父様が劉孝元先生を好きだから、
という理由ではなく、
アベル・カインの原則に応じたものだからこそ、
語られたみ言だったと思います。

やはり、供え物は、アベルを通じて、
神様が取られるものであるし、
一つになることが、目的であることを
教えていただきました。

今、天の父母様聖会が設立され、
新しい体制になりました。
天の願われる方向性と一つになって、
目の前の中心と一つになって、
新しい出発を成していきたいと思います。





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