2021年02月22日

滑り込みアウトの花嫁たちにお父様は・・・ (祝福エピソード65 番外篇)



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6500双の祝福


倉本正彦先生の講話を紹介します。
「祝福家庭を愛される真の父母様」
〜最後の1カップルまで精誠を込められる〜


式典の直前になり、“相手と出会えない”
“キャンセルがあった”と
駆け込んでくる者が数人いました。

それを真のお父様にご報告すると、
「すぐに集めなさい」と言われ、
改めて実体で組んでくださったのです。

お父様は、聖酒式、祝福式を主管される超多忙な中でも、
そのような人が出てくるたびに、
個人個人に丁寧に接して事情を聴きながら、
祝福式の直前までマッチングしてくださったのです。

いちばん最後にマッチングされたカップルは、
真の父母様が主礼の服装に着替えるため、
お部屋に入られたあとにやってきました。

お父様はドアを半開きにして顔だけのぞかせて、
その人に事情を聞かれたうえで組まれたのでした。

お父様は、神様が創造において完全投入されたように、
最後の1カップルまで精誠を込めてくださったのです。


また、祝福式の途中で会場に入ってきたカップルも少なくなく、
彼らは、果たして式が成立したのかどうか不安がっていました。

のちに、お父様にお尋ねしたところ、
お父様から「祝祷が終わる前に
式場に入っていればOKだ」とのお答えを頂きました。


全ての式典が終わったあと、私たちは外に出て、
真の父母様をお見送りしました。

お父様の車が動き出したとき、
数人の女性たちが歓声を上げて、
お父様のお車に駆け寄りました。
彼女たちは日本から来たのですが、
式典には間に合わなかったのです。

お父様が車を停めて降りられ、その女性たちに
「今、来たの?」とお聞きになりました。

「はい、今来ました」
「悪いね。もう式は終わってしまったよ。
どこの人と組まれたの?」

二言、三言、彼女たちと言葉を交わしたあと、
お父様は「これでおいしいものでも買って食べなさい」と、
ご自分の財布をお渡しになりました。
女性たちは飛び上がって感激していました。

お父様は寂しく悔しい思いをしていたであろう彼女たちに、
ある意味、式典に参加した人以上の、
「お父様との忘れられない出会い」をつくってくださったのです。

『祝福家庭』94号(2019年秋季号)

倉本正彦先生の講話
「祝福家庭を愛される真の父母様」
〜最後の1カップルまで精誠を込められる〜
(blessed lifeより)


滑り込みアウトの花嫁たちは、
式典に間に合わなかった、ということは、
6500双祝福を受けることが出来なかったわけです。

ここでのお父様との出会い、というものは、
天の計らいだったと思わされます。

おそらく、その後の3万双の祝福を
受けられたと思いますが、
当時は、いつ行われるか、わからなかった時代です。
胸痛い思いは、どれほどのものだったか・・・

わずか一瞬の出会いだったかも知れませんが、
財布を丸ごと渡されたお父様の姿に
心が癒されたに違いないと思います。

今回は、二つのエピソードを紹介しました。
どちらもお父様が祝福に対して、貴く思われる、
深い深い、親としての心情を感じます。
それは、神様も全く同じでしょう。

だからこそ私たちは、祝福の価値を再確認しつつ、
万民に分け与えていきたい、という、
父母の思いを共有していきたいと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 08:45 | Comment(0) | 祝福の価値 祝福の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月21日

神様が恋しくてたまらない 優先順位は、頭ではなく情で 《李ヨハネ先生「信仰と生活」》



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李ヨハネ先生の信仰生活講座。
今回は、「何を先にやるか」です。


信仰の出発は、自分よりも何か他の問題、
公の問題を情的に心配することから始まるのです。

具体的にいえば、自分の家のことよりも
教会のことを心配するようになれば、
本当の信仰者としての道を歩きだしたのです。

青年においては、普通、自分の将来を心配するのですが、
良心的な人であれば、自分の家庭があるから自分があり、
民族があるから家庭があり、
国家があるから民族がある、というようになるのです。

だから、韓国の例でいえば、国家を心配する人は
ほとんど宗教に入ったのです。
だから、過去において日本に迫害されたのは、宗教人です。
国を愛する者は、全部キリスト教に入ってしまうのです。

なぜ信仰と愛国とが結びつくかというと、公の信念があるからです。
だから、愛国者とか科学者とかは、霊界へ行っても、
自分のために生きた人たちと一緒にいるのではなく、
特別に待遇されるというのです。

だから、私たちが何を先にやるかということも、
情的に扱わないで、頭脳で考えたり使命感で考えたりすると、
こっちもこうだし、あっちもこうだし、
どれも貴重に思えてどうにも判断できなくなるのです。

情的に判断すれば、私はこの教会が恋しくて来た、
すると掃除したくなっちゃったというようになるのです。


韓国で、ある高等学校の先生が「原理」を聞いたのですが、
その先生は哲学を専攻していて、
韓国で一番有名な哲学者を訪ねていって、
人生問題を討論したりした人なのです。

その先生が創造原理を聞いてみると、あまりにも痛快に
問題が解決できるものだから、何か教会へ来て
仕事をしたいと、便所掃除をやり始めたのです。

「だれが毎日便所掃除をやっているのかな」
と私も思ったのですが、内緒で朝早く来てやっていったり、
夜遅く人が寝ている時にやったり、
一番人目につかない時を見つけてやるのです。

理論で考えると、「私はこの教会の信者になったのですが、
何をやるべきですか」と聞くはずですが、
やりたくてたまらない人は、
自分で自分のやるべきことを見つけるのです。

この高等学校の先生に対して、
「お前、便所の掃除をしろ」とは命令できないのです。

しかし、その人は自分から学校もやめて、
「原理」をマスターして献身してしまったのです。

奥さんも捨てて、二人の子供も孤児院に行くことになり、
本当に家族はかわいそうになってしまいました。

けれども、もしこの「原理」を知らなかったなら、
自分は結局、奥さんと子供を捨てて
自殺するつもりだったというのです。

だから、自分の奥さんには、「私は死んだと思って、
私のことは考えるな」と言って出てきたのです。

何を先にやるか

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


人は何のために生きるか、
誰のために生きるかによって、
その人の価値が決定します。

義人、忠臣と言われる人たちは、
世のため、人のために、人生を送りました。

さらに聖人と言われる人たちは、
世界のため、神様のために命を捧げていきました。

イエス様の公生涯はたった3年間です。
しかし、今も名を残し、数十億の人たちが、
イエス様を慕っています。
しかも2000年という歳月が経っているのに、です。

お父様は、家庭盟誓の中で、
「家庭では孝子、国家では忠臣、
世界では聖人、天宙では聖子・・・」
そのように表現されています。

昔は、「献身」ということで、
愛する家族を犠牲にして、
神のために歩む時代でした。

しかし今は、「神氏族メシヤ」ということで、
むしろ家族を愛する時代に入りました。

ですから、例にあった高校の先生の家庭のような犠牲は、
行き過ぎのように感じられるかもしれませんが、
そのような方々の歩みのおかげで
今のような時代圏を迎えられたのだという
理解と感謝は必要かと思います。

本然の愛で愛すべき時代となったとはいえ、
もちろん、なんでもかんでも
自分勝手に愛するということではないでしょう。

私的なこと、公的なこと、
どちらを優先するかということではなく、
どちらも心情を先立てて、
家族を愛するときも、み旨に関わるときも
神様を慕う気持ちを大切にしていきたいと思うのです。





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2021年02月20日

喜びすぎると、失敗しやすい?! また、つらく寂しい時には 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言、
今回は、「授受作用から見た喜びと失敗」  
前半部分を紹介します。


ここで皆様にお話ししたいことがあります。

人は失敗するときに二つのポイントがあります。
人が失敗するのは、一番喜んでいる時、
次は一番苦しく、つらく寂しい時です。

一番つらく悩んでいる時に失敗する
ということはよく理解できるでしょう。

しかし、人が喜んでいる時にどうして失敗するか
ということは、皆さんもなかなか理解できないと思います。
それを創造原理の授受作用の原理で説明します。

存在というものは必ず主体と対象があって、
それがよく授受作用することによって、
初めて安定した存在を維持することができます。

私が呼吸をして、息を吐き出し、吸い込む場合に、
フーッというかたちでそれを表してみましょう。

そうした場合に、喜ぶというのは、
フーッと息を吹き出したのと同じで、
それを飽くまでやり続けて喜んでみたら、
息苦しさと同時に必ず何だかむなしさを感じます。
そして寂しさを感ずるのです。

それと反対に、非常に寂しくて泣いたとしましょう。
そうしますと、泣いた後は何となく
晴れ晴れしたような感じがするのです。
これは喜びの反対のことと考えてください。

必ず授受作用しなければいけないと言ったのですから、
問題は授受作用をどのようにするかということです。


喜びを感じているときには、
この喜びが神から私にもたらされる前に、
神がサタンとの闘いを通じてどのように苦しまれたかを考え、
そして今、その喜びを私たちにもたらして
くださっているということを考えてほしいのです。

私たちが先生からみ言を受けたとしましょう。
そうしたらその恵みを私たちに与えるために、
先生は過去にどのような苦しみを通過してこられたのだろうか
という、その先生の苦しみを先に考えてほしいのです。

喜びを得たとしたら、その喜びを得るまでの
神の、主の、親の苦しみがあったということを
まず考えてほしいのです。

そうしますと、喜ぼうとする時に、この喜びを私に与えるために
神が、主が、親が、そして我々の先祖たちが苦しんだ後に、
このようになったのだということを考えて、
主体と対象の立場で、
まず感謝しようという心が出てくるのです。

ですから必ずこういう対象の立場を見つけて喜ぶのです。


反対に寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。

寂しいというのを、一つの対象の立場
あるいはマイナスの立場として見てみましょう。
その時には、プラスの立場を見付けなければいけません。

人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。
その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、
なぜ愛する私たちにこういう苦しみを
与えなければならないのだろうか、こういう寂しい境地に
追い込まなければならないのだろうかと考えてみるのです。

それはそういう蕩減の道を通じて、
もっと大きな恵みを与えんとする神の愛が
あるからこそだということを考えなければいけません。

寂しさや苦しさを感じることを蕩減しなければならない
という条件が私たちに提示されたのです。

神は、子供にその蕩減を払わなければならない
条件があるのだから仕方がないのです。
しかしこれを勝利したら、神は最も大きな愛を
与えようとして待っておられるのです。

そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、
もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、
神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだという
神の愛を感じて、私たちは望み、
希望をもつことができるようになるのです。
授受作用から見た喜びと失敗

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々


まず、喜ぶ時は舞い上がってしまってはいけない、
そのことを言われているのだと思います。

また、つらいときにも
自分の思いだけにとらわれて
落ち込んでしまう必要はないということでしょう。

真の父母様は、さまざまな摂理の中で、
多くの勝利を打ち立ててこられました。

その都度、祝勝会を成していかれましたが、
それは、自分だけで喜ぶのではなく、
天と共に喜び、
天に栄光をお返ししていかれました。

また、最近のお母様は、祝勝会、というより
出発式のような立場でなされておられます。
一つの節目としてとらえられ、
勝利をして一休み、ではなく、
先を見据えていかれるお母様です。

私たちも相続しなければ、と感じます。





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