2021年03月20日

原罪に目覚めなければ、本当の悔い改めではない?! 《奈田壽美子先生》



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「悔い改めます」と簡単にいいますが、
本当の悔い改めは、ちょっと基準が高いようです。

奈田先生の「父母と共なる生活」
今回は、『悔い改め』の前半です。

四 悔い改め
罪を自覚した立場の次は、悔い改めの段階に移ります。

悔い改めを分析すると、

(1)反省と悔悟、
(2)心の転換、
(3)告白、
(4)罪との決別、
(5)救いの切望

の五つの過程に分けることができます。

「悔い改めなさい」としきりに言われますが、
本当に悔い改めたかどうかを知るためには、
どこまで悔い改めたのかをはっきりと確認する必要があります。

ところが、実際はその確認をしていないことが多いのです。


自分は今、反省と悔悟という段階にあるのか、
心が転換しつつあるのか、
本当に自己を見つめることによって
罪を告白せざるをえなくなっている段階なのか、
はっきりと罪と決別して罪から逃れたいと
切望している段階なのかと確認する必要があるのです。

そのように確認して初めて、救いが自分の願いになってくるのです。
一つの悔い改めというものの中にも、
このような段階があるのです。

(1)反省と悔悟
反省と報告は蕩減生活の原則であるといわれますが、
ここで注意しなければならないのは、
内的報告をしなければならないということです。

往々にして、自分自身の内面がどう変わったか、
どういう蕩減生活をして、どういう結果が
現れたかというような報告をすることが少ないのです。

反省と報告の本当の意味は、こういう内的なものなのです。
報告・連絡・相談にも、
外的なものが多いようですが、これは問題です。

反省と悔悟で注意すべき点は、
内的な報告、内的な反省をすることです。
それがないと向上しません。

サタンは内的に自分の中に働くので、
自分の中にある神の性質とサタンの性質とが
見分けられなければなりません。

正直に自分を診る、反省するという方向に
持っていかなければならないのです。

 
それから、自分中心であるかどうかという問題です。

自己中心性を取り除くことについては、
聖書の中にたくさんのみ言があります。

例えば、テモテヘの第二の手紙三章2〜5節に、

「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、
 高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、
 思を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、
 融和しない者、そしる者、無節制な者、
 粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、
 乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
 信心深い様子をしながらその実を捨てる者」


とあります。


こういうみ言を一つひとつ挙げて、思い当たるものはないかと
自分をチェックしてみるか、
あるいはコリント人への第一の手紙一三章4〜7節の
愛の記述を取り上げてみるのもよいでしょう。

「愛は寛容であり、愛は情深い。
 また、ねたむことをしない。
 愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、
 自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
 すべてを望み、すべてを耐える」


 
こういう聖句を一つずつ解釈すると、
それを聞いて皆よく反応します。
自分にぴったり当てはまる内容が多いからです。

そういう聖句をいつも繰り返し、繰り返し、読むようにしたり、
聖書で何か心に響くところがあれば抜き書きしたり、
人に読むことを勧めるのもよいでしょう。

そのように、自分で乗り越えていけるような材料を
手元に集めておくとよいと思います。

聖書には、割合容易に気がついて、
内的な課題を乗り越える手助けとなるものがたくさんあります。
そういう生活に密着したものを読んだり、
記憶しておくことは霊の成長に役立ちます。

 
さらに、自分を中心とした問題だけでなく、
先祖の問題だとか、民族や国家の問題など、
義憤心、公憤心といった「公」に対する気持ちも
どんどん引き出していく必要があります。

悔い改めの気持ちが進み、
自己中心的な思いがだんだんなくなってきて、
初めて「原罪」という問題にぶつかるのです。

その時に初めて、情的問題が堕落の根本にある、
これがあのアダム・エバの犯した問題であったのかと
気がつくようになるのです。

こういう問題に突き当たった時に、
神に本当に近くなっているのです。
ですからその時に、どのように
情的問題を転換するかということが、とても重要です。

 
アダム・エバが不信仰に陥った過程を見ると、
まず神のみ言を忘れたということです。
これが不信仰の始まりでした。

そしてあくまでも神に相対すべきであったのに、
神を抜かして天使長と横的に相対したということ、
これが誘惑に陥った原因です。
これは中心性の問題としてとらえることができます。

すなわち、自分の内的な生活を何でも神に報告、相談しながらいけば、
エバもアダムも、そういう過ちは犯さなかったということです。

エバやアダムが神に向かうのでなく、
神を通さずに横的に行ったということが、
情を横に流していく原因になってしまったのです。

その結果、不道徳になり、情の用い方を間違ってしまったのです。
そして性的に堕落したから、最終的には
血統的問題として残るようになったのです。

 
原罪を血統問題として理解することはとても難しいのです。

これは、祝福を受けて初めて実感していく問題なのです。
この血統問題と祝福とのつながりについてこれから述べますが、
その前提になる罪の自覚の段階の方がずっと重要だと思います。

すなわち、「自分は汚れているのだ。自分は本当に汚い、醜い。
自分で自分が嫌だ。風呂に入って骨になるまで自分を磨いてみたい」
というほど悔い改める段階までいかないと、
原罪や血統の問題はなかなか分からないのです。

原罪に関して本当に目覚めていないうちは、
悔い改めに至ったとはいえません。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
四 悔い改め


真のお父様は、
「堕落観念に徹せよ」と語られました。

すでに祝福を通じて、
原罪を清算された立場であったとしても、
罪の中にいた者である、
という自覚と感謝は必要なのではないでしょうか。

罪とは神様を悲しませること、
神様と関係なく、自分中心に生きること。。。

ですから、祝福を受けたからといって、
すべての罪がなくなったわけでは
もちろんありません。
むしろ、自らの穢れや不足を
より感じるようになっているかもしれません。

今は、天一国時代を迎えて、
本然の時代に入った、と言われています。
ある意味、罪と関係ない者に
なっていかなければならないのでしょう。

神様、父母様に出会ったことにより、
救われ、生かされている者である、
そのことを強く感じつつも、
だからこそ、本然の者に近づいていくためにも、
深い悔い改めが必要なのではないかと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:04 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする