2021年04月21日

(証し)私たち夫婦が霊的体験で出会った父母様・・基元節では一緒に杖を揚げられる



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光言社刊、「真のお母様感謝します」より
今回は、『基元節の式典で聖杖を
一緒に掲げられた父母様』です。


私たち夫婦は、これまでの信仰生活を通して
多くの霊的な体験をしてきました。

1975年に1800双の祝福を受けて、
私の実家に妻と挨拶に行ったときのことです。

家に足を踏み入れたとき、霊的に、
血の海のようなものがパーツと晴れて、
先祖がずらりと並んでいるのが見えました。

先祖はそれぞれ、額に名札を付けていました。
そして「あなたたちのおかげです」と言いながら、
私たちに対して王子・王女に侍るように三拝したのです。
祝福の尊さを実感しました。

また祝福は、真のお父様お一人で
お与えになることはできません。
真のお母様が勝利してくださったからこそ
可能になったことを思うと、
お母様に対する感謝が湧いてきます。

その後、清平で先祖解怨をするたびに、
私たちに三拝した先祖の方と再会しています。

 
妻にはこういう体験があります。
神様王権即位式(2001年1月13日、韓国・天城旺臨宮殿)
の式典に日本の所属教会で参加したとき、
礼拝堂のお写真の中のお母様から
雲のようなものがもくもくと出てきたのが見えたそうです。

妻はイスラエル民族を導いた「雲の柱」を思い出し、
「お母様は本当に聖霊の実体だと実感した」と言っていました。


お父様の天宙聖和式(2012年9月15日)を前後して
清平に十日問、滞在したときは、お父様が
そばにいらっしやるのをしばしば感じました。

ある時、お父様が、「どれくらい成長したの?」と
お尋ねになったので、
「お会いした分だけ成長しました」とお答えしたら、
喜んでくださいました。

また、この期間は大母様も夢に出てきてくださり、
「お父様のお墓の周りをブーゲンビリアで囲みたいのです。
一年中、ブーゲンビリアが咲いているような庭園に
造ってください」とおっしやいました。

私は造園の仕事をしているので、
大母様が励ましてくださったのだと思います。


お父様を霊界にお送りした後に迎えた天一国基元節の式典
(2013年天暦1月13日)でのことは忘れられません。
私はそのとき、日本でインターネットを通して
参加させていただきました。

映像で見る会場はまばゆいばかりに光り輝いていて、
無数の天使が頌栄を捧げていました。
その中を、五十代の若いお姿のお父様が、
お母様と共に入場されるのが見えたのです。

おふたりは、金の光を放つ聖杖を一緒に持っておられました。
そしてお母様が聖杖を持ち 上げられるときは、
お父様の動きに合わせていらっしゃるのが、
はっきり分かったのです。

真の父母様は本当に一つでいらっしゃるのだと
確信した瞬間でした。



「五十代の若いお姿のお父様が、
お母様と共に入場されるのが見えた」
とありますけれど、
霊人体は、一番お元気なころのお姿である、
と伺ったことがあります。

ですから、霊界におられる
お父様、そのものだったのだ、と思います。

お母様がおられるところには、
お父様もともにおられる。

そのことをもっと意識して、
父母様に侍る心情をもって
生活しなければ、と思うのです。






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2021年04月20日

感情のジェットコースター、うまくいくと思ったのに… ヨセフの場合 《橘先生》



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橘先生のエッセイ「夫婦愛を育む」
今回は、『感情のジェットコースター』です。

嬉しいことがあったとき、
期待に胸を膨らませていたとき、
すべてが水泡に帰する出来事が起こったら・・・


先回本欄で書いた横断歩道での出来事。
実は感動して幸せな気分に浸っていた数日後、
今度はがっかりすることが起こりました。

ショッピングモールの入り口に立てておいた傘が
無くなってしまったのです。
今まで安心して置いていたので、ちょっぴりショックです。
やっぱり良い事・悪い事、波があるんだなと思いました。

それくらいの緩やかな波なら平穏に過ごせますが、
時には一日・二日の間に大波が来たかと思ったら
サーッと引いていくことがあります。

ある朝、信じられないような良い知らせが舞い込み、
期待と不安が交錯する一日を過ごした後、
翌日には水泡に帰すということがありました。

もともと知らせは可能性レベルでしたので、
理性では期待し過ぎないようしていました。
翌日の知らせも「ああ、そうなんだ」
と理性的に受け止めようと努めましたが、
感情の疲労は半端ありませんでした。

表向きは穏やかにしていましたが、
内面はまさに感情のジェットコースターです。


希望を感じて前に進める出来事であった一方、
心の消化機能が動きません。

そんな脱力した私に、神様はその日のうちに、
第三者を通じて軟着陸できるメッセージを下さいました。
神様の介在を改めて感じた後は、消化が楽になりました。

これからもいろいろあるでしょうが、夫婦で二人三脚、
いや神様も一緒ですので三人四脚?
この先の大波小波の中も進んでいけるかなと思います。

人生を大きなスパンで見ても、やはりさまざまな波がやってきます。
自分の人生を振り返っても、忍の時期もあれば、動き出す時もあります。
時にはじっと忍の字で、気が付けば数年を過ごしていたりします。

 
願いがあり祈り続けていても事が動かないように感じる時、
思いを馳せるのがヤコブの息子ヨセフです。
(ディズニー映画『ヨセフ物語』はとても感動的でしたね)

兄たちによって奴隷として売られエジプトに行った彼は、
無実の罪で投獄され、いつ釈放されるか
分からないという時期を通過しました。

一度、釈放につながるかもしれない
大きなチャンスが訪れましたが、
望みを託した人が彼のことを忘れてしまいます。
どれほど落胆したことでしょうか。

さらにじっと解放の時を待つこととなり、
次のチャンスが訪れたのは2年後でした。
その2年間も希望を失わず、神様を信じ続けたヨセフでした。

ヨセフと共にあられた神様は、私とも
私の家族とも一緒にいてくださる。
その思いを柱に、与えられた道を
歩んでいけたらと思います。

夫婦愛を育む 156
感情のジェットコースター
ナビゲーター:橘 幸世
(blessed lifeより)


聖書に出てくる義人たちは、
私たちが壁にぶつかったときに
乗り越える術を与えてくれる友ですね。

試練を乗り越えられた真の父母様も
当然、生きた教訓ではありますが、
聖書の義人たちも、
時代は違ったとしても、
身近に感じる存在ではないかと思います。

神様が今の時代に生きる私たちに
残して下さった貴重な証し人達ですね。







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2021年04月19日

聖くなりたい! 旧約の信仰に学ぶ…人間の為に万物が犠牲に?! 《奈田先生 聖別1》



210213-Gustave Dore - The trial of Abrahams faith  -.jpg


奈多壽美子先生の、「父母と共なる生活」
今日から「聖別の道」を、数回に分けて
ご紹介します。

五 聖別の道
(1)罪からの分離

まず、「聖別」の意味を考えてみましょう。

だれでも聖くなりたいという願いを持っています。

「聖」というのは、ヘブライ語では「分離する」という意味です。
どこから分離するのかというと「俗」からの分離で、
「分ける」とか「切る」という意味があります。

その「聖別」のために、今までの歴史がありました。

したがって、蕩減復帰の歴史というのは分離の歴史であり、
キリスト教の歴史は、聖なるものと俗なるものを
全部分けようとしてきた歴史なのです。
今でもクリスチャンには、何でも分けようとする傾向があります。


 
(2)聖別のための歴史


ではどうして神は、聖を俗から分離するように
摂理を進めてこられたのでしょうか。

それは、復帰摂理的な歴史観から見れば、
中心的な立場を立てなければならなかったからです。

中心は全体を決定します。
したがって、聖別というのは、個人的なものではなく、
世界全体を考えてなされてきたものだと言わなければなりません。

歴史を通して、すべては聖別のための歴史だった
ということが分かります。

聖別を行うために、旧約時代は万物を犠牲にしました。
新約時代は実体の人間を犠牲にしました。
成約時代は心情をささげてきたのです。


聖書を見ると、旧約時代の聖別は
万物を供えて行っています。

アべルとカインに、神は作物や動物の
一番最初にできたもの、つまり初物、初子をささげさせました。

ノアには箱舟を造らせ、モーセの時には幕屋を造らせました。
その幕屋を造るにあたっての命令は本当に細かいものでした。
しかも、まず自分自身を聖別して造るのです。

縫うにしても、一計一針、聖別された行いでなければなりません。
でき上がった幕屋をたたんで担ぐ人も決められていた
というように分離(聖別)して、分離して、分離して、
さらに聖なる物を造っていったのです。

神から遠く離れ、何も分からない無知な人々に対して、
神は聖別の摂理を進めてこられました。

当時は、神が「こう造れ。こうせよ」と言われるから、
そのとおりにやったのです。
それが一分でも狂うならば、すぐにお怒りがくるのです。

アブラハムなどはそのいい例です。
象徹献祭に失敗した(ことで、)後に、再び神は
息子イサクを燔祭としてささげなさいと命じたのです。


そうすることによって、人間は
自分自身を分立することができ、
その結果として聖別されてきたのです。

それは今日でもそのまま有効なのです。
ですから、今日でも供え物をしたり、献金をします。
その他、伝道をしたり、礼拝に参加するときの
心構えなども、聖別の摂理に根拠があるのです。

すなわち神は、人間自身の汚れを、万物を通じて
自分で悟るようにさせてこられたのです。

それで、祭壇の前に行くときや儀式を行うときには、
本当に緊張するのです。

ですから、教会においてもただ礼拝に人を参加させるだけではなく、
礼拝で祭壇を築く新鮮さ、神聖さを
意識させるものがなければならないと思います。


子女教育の話をするときによく言うのですが、
特に小さい子供の場合など、
お水一杯でもいいから神様にささげさせるといいのです。

そのときに母親がきちんとやってみせてあげるのです。
水の持ち方など、何から何まで、例えば右を上にするとか、
左を上にするとか、きちっと決めておくのです。

祭壇に行くときにはこういうふうに頭を下げていくのだとか、
そういうことを一つ教えても、子供は小さいなりに
そのとおりにやろうとして必死になるものです。

礼拝の中にそういう雰囲気があることが重要です。
そういうものが今は本当に足りないのではないかと思います。

聖歌を配るときも、聖歌の置き方、聖書の置き方など、
細かい心配りが必要です。

ここに本当に神がいるのだろうかなどと疑われるようでは問題です。
儀式というのは、神に対する敬虔な思いを
人間に起こさせるものであって、
緊張しないと何にもならないのです。

礼拝堂にただぼんやりと座っていても、み言は心に入ってきません。

 
そういう意味があって、旧約時代には供え物をさせて、
罪の血、死亡の血を流させたのです。

供え物を裂いたり、焼いたり、身と骨を分けて、
内臓のどの部分は食べてもいいが、どれは食べてはいけない
といった、とても細かい規定があったのです。

そうして立派にできたら、
神はその芳ばしい香りをかいだといいます。

これは、自分の言ったとおりに人間がしてくれたことに対する
神の喜びの表現であって、文字通りというわけではないのです。

ですから、儀式に対する神の意図、
つまり何をしてほしいのか、何が欲しいのか、
そういう内的な世界を悟っていかなければなりません。

いずれにしても、旧約時代には、本当に苦労に苦労を重ねて
ささげた供え物が、受け取られるか、受け取られないか
という瀬戸際にある人間の、祭壇の前に立ったときの
心境というものを、考えてみなければならないと思います。
そうすることによって、人間自身が復帰されるのです。


万物を犠牲にさせたのは人間の立場を復帰させる
ためであったと『原理講論』に書かれています。
(その他に、万物自体の復帰という意味も含まれています。)

人間の立場を復帰するというのは、神の前に立つ人間だ
ということを意識させるということです。

統一思想の中には、「対象意識」という概念が出てきます。
人間は格位的存在なのです。
人間はその対象意識に立たなければなりません。
そこから謙遜とか、神に対する畏敬の念といったものが生じてくるのです。

こういう意味をもって神は、万物を犠牲にしてこられたのですが、
考えてみれば、万物は人間のために
黙って犠牲に犠牲を重ねてきたのです。

このことについて、もっと考えてみる必要があると思います。

万物自体は汚れたのでも、堕落したわけでもありません。
万物はただ人間に主人となってほしいと願って、
ずっと忍耐してきたのです。

万物は人間のためにつくったものなので、
神は人間自体を復帰するために
あらゆる万物を犠牲にしてこられたのです。

ですから、人間が目覚めなかったら、いくら献金しても、
いくら働いても、何にもならないのです。
また、神の命令、み言、戒めを守るという意味は
それほど深刻で真剣なことなのです。

一部割愛、編集しています
文責:ten1ko2

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
五 聖別の道
(1)罪からの分離
(2)聖別のための歴史


子女教育については、
子どもの小さいころ、
このことを聞きたかったな、と
思う内容でした。

万物を捧げるというのは、
人間が位置を復帰するためであって、
万物は、ずっと犠牲を払い続けてきた・・・

人類歴史はすべて聖別のための歴史だった・・・

さまざま、とても深い内容を
教えていただきました。

また、不定期に続きます。




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posted by ten1ko2 at 08:40 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする