2021年04月12日

「私は囚われている」と感じたら、即ワーク 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。
今回は、「心がゼロになった時、良心が現れる」です。

(男性 50代)

ある土砂降りの雨の日のこと。
わが家はちょうど引っ越しの日でした。

新居でガスレンジの取り付けをしている時、
元栓につなぐホースが劣化していることが分かり、
妻から「新しいホースを買ってきてほしい」と頼まれました。

土砂降りの雨の中の買い物に葛藤を覚えましたが、
それを押し込めながら近くの店に行きました。
しかし、2軒回ったのですが、合う物は売っていませんでした。

土砂降りだし、もう諦めようかとも思ったのですが、
ホースがなければ食事を作ることができません。

さらに20分ほど歩いたところにも店があることが分かり、
家族のためだと思い直して、そちらに向かいました。

その店で無事に目当ての物を買うことができましたが、
結果的に1時間以上歩き回り、
家に帰り着いた時は頭のてっぺんから足のつま先までずぶ濡れでした。

それでも、妻から「ありがとう」の言葉をもらい、
行ってよかったと思いました。


疲れ切った私は、その夜、少し早めに床に就きました。
眠りに入る前に、長男が帰ってくる音がしました。

長男は毎日、夜遅くまでアルバイトをしています。
妻はおなかをすかせている長男のために、
食事の世話をするのが日課でした。

すると、妻と長男の会話がふすま越しに聞こえてきました。

妻「きょう大変だったのよ。土砂降りの中、
ガスのホースを買いにいったんだけど、
なかなかなくてねー。ようやく見つけてきたのよー」

長男「そうなんだー。大変だったねー」

ん? ちょっと待てよ。この会話おかしくないか?
完全に妻が買いに行ったことになっていて、息子から慰められている!
一言も「お父さんが」という固有名詞が出てきてないじゃないかー!

私は、今にもふすまを開けて飛び出し、
「俺がー! お父さんがー!」と叫びたかったのですが、
大人げないなと思い、その夜はただ忍耐して寝ました。


次の朝、出勤前にシャワーを浴びながら、
何か悶々(もんもん)としていることに気付きました。
そうだ、きのうのことを引きずっているんだと気付きました。

何でうちの奥さんはいつもこうなんだろう!
この家には父親がいないんだ!
だから駄目なんだ!

前日の出来事とともに、過去からの
積み重なった思いがふつふつと湧いてきたのです。

マズイ、俺は今囚(とら)われている。

そう気付いた私は、
「この思いは本当の私ではありません」と必死に自らに訴え、
「私は今シャワーを浴びている。
体を洗っている」と、
囚われを外すワークを実践していきました。

するとだんだんと、それまでのいらいらが
薄れていくのを感じました。
そして、平安感とともに、
心が完全にゼロになったのを感じたのです。


そこで、「きのうの出来事を、真の愛を中心として
父母の立場で見させてください!」と祈りました。

すると間髪入れず、良心からのメッセージが返ってきました。
「彼女はお前と一つなんだね」というものでした。

私は、自分がそう思えていなかったことに恥ずかしさを感じました。
同時に、彼女はいつもそう思ってくれていたのか
という感動が湧いてきました。

シャワーのお湯とともに涙が流れていく感覚でした。

「自己牧会プログラム」では、
「囚われを外し、心がゼロになった時、
天の父母様が私の心の中に主人として現れてくる」
と教えています。

そのことを実感し、体感した瞬間でした。

私の心の中にいる神様 64
心がゼロになった時、良心が現れる


なにかとても共感を抱くような、
夫婦あるあるの証しでした。

夫であれば(妻もそうかもしれませんが)
たとえば家事をして、「これだけやったのに」
という思いが湧いてきます。

やるのが当たり前だと思われて、
否定されることがあると、
「あなたは何もしていないのに、
指摘される筋合いはない」
と思ってしまいます。。。

心のワークは、良心を目覚めさせてくれます。
魔法のような素晴らしい道具が
あまりにも身近にあること、本当に感謝です。



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posted by ten1ko2 at 08:33 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

「いちばん悲しいときは笑うのよ」 私が見たお父様とお母様



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光言社刊【真のお母様感謝します】より
阿部公子先生の証し。
「狭い家の中でも捜し合われた父母様」です。


夫と私は一九八〇年に渡韓し、
真の父母様の館で生活させていただきました。

父母様は、狭い家の中でも「オンマは?」「アボヂは?」
とお互いに捜し合っていらっしゃいました。
喧嘩をしないという次元ではなく、
いつも一心一体でいらっしゃったのです。

真のお母様は、家の中でも決して大きな声は出されず、
低く落ち着いた声でゆっくりと話されます。


ある時、お母様がお出掛けの問に、
真のお父様が利川に行かれたことがありました。

戻られたお母様が私に「アボヂは?」とお聞きになったので、
「利川に行かれました」とお答えすると、
日頃静かなお母様がばたばたとスリッパの音をさせて
二階に上がられたのです。

しばらくして下りてこられたお母様は、
「イサラム(この人)」と言われて、
私のおしりをぽんと叩かれました。

私は「이천(イチョン・利川)と言ったつもりだったのですが、
お母様には「이층(イチュン・二階)」と聞こえたのです。
                                          
そのときお母様は私を、「韓国に来て何力月経ったの? 
まだ利川と二階の発音もできないの」
とお叱りになりながらも、おもしろそうに
「二階に上がってみなさい」とおっしゃいました。

不思議に思って上がってみると、
夫が大の字でいびきをかいて寝ていたのです。

当時、父母様が帰国されると、
私たち夫婦の部屋はスタッフの部屋になり、
夫は先輩の先生方と一緒に二階で休んでいました。

その先生方がお父様と一緒にお出掛けになったので、
一人になった夫は久しぶりにゆっくりと寝てしまったのです。
その姿をお母様に見られてしまったのでした。

お母様はいたずらっぽく笑いながら、
「見た?私も見たわよ」とおっしゃいました。

お母様は、権威があって近寄り難く感じる一面もお持ちですが、
ユーモアを解されるお方です。
ジョークを言って、皆を笑わせてくださることもあるのです。


一九八三年十二月、興進様がアメリカで交通事故に遭われました。
この知らせは、韓国八力都市勝共大会で
光州におられた父母様のもとにも届けられました。

光州大会の後、お父様は皆がいる前でお母様に、
[オンマ、絶対に悲しみの涙を流してはいけない。
泣くんじゃないよ。自分の部屋に入ってはいけない。
みんなとここにいるんだよ」と言われ、
お母様はそのとおりにされました。

その後、お父様は大会の報告を受けたり、
み言を語ったりされました。
お父様は大会の勝利に大満足され、
満面の笑みで勝利を祝われました。

そして初めてぽつりと、
「興進君はどうなの?」とお尋ねになったのです。
報告を聞かれると、お母様のほうをご覧になり、
「オンマ、偉いね、泣かないで」と言われました。

父母様がアメリカに戻られる日、
泣かないでお見送りしようとみんなで決めました。

お母様は玄関先で、「いちばん悲しいときは笑うのよ」と言われ、
にっこり笑って出発されました。
その後、残った私たちは抱き合って泣きました。

父母様の行かれる道がどれほど厳しく、
天情に徹する道であるかを垣間見た出来事でした。

阿部公子(七七七双)


お母様と阿部先生とのやり取り。
とても微笑ましいエピソードですね。

さらには、興進様の証しは壮絶です。
「泣いてはいけない」とお父様が
お母様に語られたことはあまりにも有名ですが、
その前後の経緯を阿部先生は見ておられました。

どこまでも公的に、
天を愛し、私たちを愛するために、
ご自身とご家庭を犠牲にされる、
真の父母様の深い真の愛の心情を
感じさせられるのです。




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posted by ten1ko2 at 09:29 | Comment(0) | 私と御父母様 ・信仰の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月10日

私たちに必要なのは、切実で砕かれた心だった 本当の悔い改めに至るまで 《奈田壽美子先生》



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奈田寿美子先生の「父母と共なる生活」 
『悔い改め』最後の内容になります。

四 悔い改め
(4)罪との決別

このように指導者は、信仰を持ち始めた人が罪と決別して、
自分自身で善いことも悪いことも公開できるように、
導いてあげなければなりません。

そして、そこで二度と再び罪の世界には戻りたくない、
生命を懸けても戻らないという決意をするようになるのです。

 
(5)救いの切望

そこで初めて、救いを切望するようになります。

「主よ、わたしはあなたに寄り頼む。
 とこしえにわたしをはずかしめないでください。
 あなたの義をもってわたしを助け、
 わたしを救い出してください。

 あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
 わたしのためにのがれの岩となり、
 わたしを救う堅固な城となってください。
 あなたはわが岩、わが城だからです。

 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、
 不義、残忍な人の支配から、
 わたしを救い出してください。

 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの
 わたしの望み、わたしの頼みです。
 わたしは生まれるときからあなたに寄り頼みました。

 あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。
 わたしは常にあなたをほめたたえます」
(詩篇七一篇1〜16節)


ここでよく引き合いに出されるのが、
マタイによる福音書一五章22〜28節のカナンの女のことです。

イエス様が弟子たちと一緒に歩いておられる時に、
カナンの女が悪霊に取りつかれた自分の娘を
何とか救ってほしいと、取りすがってくるのです。

このカナンの女は異邦人だったので、
イエス様は相手にもされませんでした。
弟子たちも「追い払ってください」と言うのです。

イエス様は、「子供たちのパンを取って
小犬に投げてやるのは、よろしくない」
すなわち、お前に与えるパンはないと言われました。

すると、カナンの女は、
「主よ、お言葉どおりです」
と、いったんイエス様の言葉を受け入れます。

これは足げにされたのも同然のことですが、
だからといって、「こんなに切望する自分なのに……」
と、ふてくされてしまったりしません。

そしてさらに、
「でも、小犬もその主人の食卓から落ちる
パンくずは、いただきます」
と、観点を変えてさらに願い出ます。

そこでイエス様は、
「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」
と言って、その願いをかなえておあげになるのです。

このように、神の言われたことをいったん受け入れて、
別の角度からさらに救いを切望するという
柔軟で熱意のある態度が、
この段階においては非常に重要なのです。

奈田壽美子
「父母と共なる生活 
信仰生活の真髄をつかむ」 
第一章メシヤ観
四 悔い改め


カナンの女の話。
これは皆様もご存じかと思います。
そして、彼女の信仰心、イエス様を求める切実な思い、
私たちが学ぶべき姿勢なのではないか、と思います。

私のクリスチャンの知人が、
よくこのように言われます。
「私は、家庭連合の食口である。
祝福を受けた者である。
原罪が清算されている。
そういう上から目線で
ほかの人たちを見ているのではないか」

心のどこかに、「そうではない」
と言い切れない、何かしらの
優越感があることを否定することができません。

そういう意味でも、カナンの女のような、
砕かれた心、謙虚な思いをもち
熱く切実に天を求め、さらに具体的に
実践していきたいと思うのです。






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posted by ten1ko2 at 07:54 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする