2021年05月31日

罪をすべて忘れてあげるから帰って来なさい 自犯罪は一時代を失う 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の「信仰と生活」の
み言より、「原罪と自犯罪」です。


自分がサタンの息子だと聞いた時に、
私たちはどの程度胸が痛かったでしょうか。

「原理」によって自分の位置を発見したあとで、
自分自身が誤ったのを恥ずかしがるのと、
血統的問題を恥じるのと、相当差があるのです。

私たちは、自分が失敗したのは重要に思うのですが、
歴史的なものは、「だれだって同じではないか」
というような腹で、平気でいるのです。

だから、堕落論を話しても、
原罪を分かったあとの自分の苦しみを知るよりも、
自分自身が犯した罪を考えて苦しむ人のほうが多いのです。


本当の良心的な人だったら、自分の原罪が分かった時の
自分の立場を、よほどの痛みをもって
苦しまなくてはいけないのに、堕落した人間は
原罪という問題に対して全く平気なのです。

だから、信仰しながら自犯罪を犯すことがあるのです。
そういう人は、原罪というものを恐ろしく思わないからです。

自犯罪を犯すということは、自分の身に
もう一度原罪の血統を流したという条件になってしまうのです。


しかし、不幸にしてそれを犯してしまった人に
どういうふうに指導するかというと、
原理的に解決してしまわないのです。

もしそうすれば、「私はもう蕩減する道がない。
原罪もこんなに重大なのに、自分自身が
また罪を犯したから、もう滅びだ」と落胆してしまいます。

だから、率直に原理的に説明できないのです。
指導者はその人のために原理的なことを
知っていなくてはならないけれど、
自分が知っているとおり説明できないのです。
その人を救うのが目的だからです。


その人のほうからすれば、質問しに来たのは、
自分の犯罪を許してほしいからであり、
「犯した以前の立場で付き合ってくれたらいいな」
という希望をもっているのです。

その人の、そういう動機を取り上げてやらなくてはなりません。
私はどうしたらいいのかということは、
自分の心が知っているのです。

知っていながらなぜ聞くのかというと、
「許してほしい、救ってほしい」という内面の願いがあるわけです。
だから、原理原則をもってしては説明できないのです。


そういう場合には、「あなたの犯したのは、
あなたがしたのではない」と慰めてやるのです。

要するに、祖先から流れてきた原罪が現れただけであって、
罪を犯していない自分だって、
そういう人間だということを告白するのです。

「私の血も、分析してみれば結局同じだ」と言って慰めてあげながら、
その人に希望を与え、勇気を得させるような方向に向けて
説明する方法しかないのです。


神様でも、神は愛だから私たちの罪を忘れてやるという約束で、
人間を呼ぶのですが、本当は絶対忘れられないのです。
最後には、全部蕩減しなければならないのです。

黙示録にあるように、「自分の着物を洗ったか」と検査されます。
それなのに、初め呼ぶ時には、
「忘れてやるから来い」と言って、人に希望を与えるのです。


原理的にいえば、罪を犯さなくても、
その人の歴史的な条件を子女の立場から見れば、
原罪と認められる場合もあるのです。

例えば、結婚した人としない人とでは、差があるのです。
結婚した人は、旧約時代を蕩減する人物です。
婚約していて堕落論を聞いてから別れた人は、
新約時代を蕩減する人物として祝福されるのです。

また、全然異性との関係を結んだことのない人は、
これからの歴史をつくっていく主人となるのです。
そういう血統的な、血縁的な差があるのです。
いくら信仰が篤い人でも、どうしようもありません。

例えば、一度結婚した人は、旧約時代の子女という立場で、
霊人たちを代表して、旧約時代の歴史において
結婚した人の全部の責任をもって
蕩減しなくてはならない供え物として選ばれたのです。


だから、自犯罪を犯した人は、
一つの時代をショートしてしまったのです。

成約時代の先祖となる望みが消えて、
新約時代のパラダイスにいる大勢の霊人の代わりに
選ばれた立場で、もっともっと蕩減を
負わなければならない条件を
自分自身がつくったことになるのです。

まっすぐな道に、自分自身で丘をつくってしまったのです。

1.牧会
原罪と自犯罪

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


自犯罪の背後に原罪の存在がある、
そのことを自覚しなければならないということだと思います。

以前紹介したことがあるのですが、
長年、東京拘置所の医務技官をしていた加賀乙彦氏が
「悪魔のささやき」という著書でこのように述べています。

  「悪魔は果たして存在するのか? は、
  私自身が数十年にわたって考え続けた疑問でもあります。

  刑務所や拘置所で出会った犯罪者(死刑囚)や
  病院で診療してきた患者さん(自殺生還者)と向き合い、
  同時に自分自身の内面を覗き込みながら、
  そしてまた聖書や文学に描かれた悪魔というものも手がかりにしながら、
  私なりに出した結論は、やはり悪魔はいるだろうということです。

  どんな姿をしているのか、肉体などなく霊的な存在なのか、
  そういったことはわからないし、これからもわかり得ないでしょう。

  しかしこれだけは断言できます。
  少なくとも私たち人間の心の中には
  悪魔的なものが確固として存在している、と。



死刑囚との面会で、彼らが殺人をした時に、
自分ではない、何かが自分を動かしていた、
「悪魔がささやいたんです」
と告白する人が複数いる、というのです。

「出来心」とか、「魔が差す」というように、
サタン(悪魔)の存在を感じている人が多い、というのです。
本当に恐ろしいことです。

そういう意味でも、堕落性に誘発されて、
自犯罪を起こさない生活、
天とともにある生活を心がける重要性をかんじます。



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2021年05月30日

「真の父母様の誕生」前後に吉兆があらわれた?! 〜小学生と共に主の生涯を学ぼう〜



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真のお父様が生まれる前後には、
多くの吉兆が現れました。
金鶏が庭のねずの木に留まり、
鳴いて飛び去ることがよくありました。



小学生向けの
ムーンワールドに連載されている
「真の父母様の歩まれた道 汗と涙の歴史

イラスト入りでとても分かりやすいので、
皆様と共に父母様の幼少期からの路程を
振り返ってみたいと思います。


  13人兄弟の次男で5番目にお生まれになる

真のお父様は、1920年天暦1月6日(陽暦2月25日)に、
現在の北朝鮮にある、平安北道
定州郡徳彦面上思里2221番地で生まれました。

お父様の父親の名前は文慶裕、
母親の名前は金慶継といいました。

6人の男の子と7人の女の子がいる13人兄弟で、
真のお父様は次男でした。
上には3人のお姉さんもいましたから、
5番目に生まれた子供ということになります。


アダムとエバが神様との約束を守り、神様の願いどおりに
大人になっていれば、人類の真の父母となって、
そのとき天国ができていたはずでした。

しかし、アダムとエバは、約束を守ることができなかったので、
神様は4000年たってから、アダムと同じ役目を持った
イエス様をイスラエルの地に送ってくださいました。

ところが、イエス様も真の父母になることができなかったので、
神様は、それからさらに約2000年後の
1920年に真のお父様を地上に送ってくださったのです。


真のお父様が生まれた当時の韓国は、日本に支配されていました。

ですから、韓国の人々は、もともと自分たちが話していた
韓国語ではなく、日本語を使うようにさせられたり、
韓国の名前を日本の名前に変えさせられたりするなど、
自分の国がなかったため、とても悲しい思いをしていました。

また、世界を見ると、1914年7月から1918年11月にかけて
繰り広げられた第一次世界大戦という戦争で、
ヨーロッパの国々を中心に1600万人以上の人が死に、
とても広い土地が焼け野原になるなど、世の中が大きく乱れていました。

どこを見ても、未来に対する希望がなく、暗い世の中でした。

真のお父様は、そのように自分の国も世界も、
最も大変なときにお生まれになったのです。

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出産の日が近づいたある日、暴風が吹き、
村全体が雲に覆われました。
そこに一筋の光がさすと、帝釈山の頂上に黄金の龍が現れ、
山腹を回りながら登っていきました。



真の父母様がこの地に誕生されたということは、
神様がどれだけ喜び、人類にとっても
どれだけの慶事であるでしょうか。

その喜びがあふれにあふれ、吉兆という形で
表れたのかもしれません。

真の父母様がおられるこの時に、
私たちもともにいるということ、
さらには、ともにみ旨を歩めるということに
改めて感謝を捧げていきたいと思います。

真の父母様の路程を知ることは、
私たちにとってとても大切なことですし、
喜びでもあります。
続きをお楽しみに。





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2021年05月29日

神が想定していたものとは・・ 私が先に選ばれた理由があった 《篠崎先生》



210529-Gustave Dore - Cain and Abel offering their sacrifices.jpg


篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『なぜ私を先に選ばれたのか』です。


先に挙げた『原理講論』の
予定論の最後の記述を注意して見ると、
「その個体を先に選ばれるのである」とあります。

「先に」とは、後があるということです。
神様は私たちを召命するに当たって、
後に来る人を想定しているというのです。

私たちがその人々を復帰できると確信を持っているからこそ、
神様は私たちを先に召命しているのです。


聖書の中のアダム家庭における献祭について、
「主(しゅ)はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」
(創世記四章4〜5節)
とあります。

憤るカインに対して、神様は、
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。

正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。

もし正しい事をしていないのでしたら、
罪が門口に待ち伏せています。

それはあなたを慕い求めますが、
あなたはそれを治めなければなりません」
(創世記四章6〜7節)
と語り掛けています。

神様はアベルの供え物を取りながらも、
カインの心に関心を持たれていたのです。


神氏族メシヤとして立てられた
私たちにとって、後の人とは誰でしょうか?

それは夫、妻、両親、子供といった
家族をはじめとするアベル圏の氏族、
そして友人・知人をはじめとした
地域社会のカイン圏の氏族です。

神様はこのような氏族圏の復帰を
どれほど心待ちにしていらっしゃることでしょう。


それでは神様は、私をなぜ先に
アベルとして選ぶことができたのでしょうか。

サタンはこの世で社会的基盤を持った
実力者であるカインを手放したくありません。

だからといって、私たちが能力のない愚か者ということではありません。
神様の心情に通じる孝行心を持った善なる群れなのです。

神様はそれぞれの氏族、家系を復帰するために
「私」を召命されたのです。

篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第二章 主と出会った者の行くべき道
一、召命と責任
なぜ私を先に選ばれたのか

(blessed lifeより)


真の父母様は、
全人類の三分の一をかき抱こうと、
必死の歩みをしておられます。

安穏と生活している自らの歩みが
本当にいたたまれない思いに
苛まれてしまうことがあります。

真の父母様だけを見つめ、
侍る生活をしていきたい・・・
そんな思いにさせられることもあります。

先駆けて導かれたことに感謝して、
私が今、ここにいること自体が
天に愛されているのだ、ということを自覚し、
一歩踏み出せる者になっていきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:40 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする