2021年06月12日

良心はこんなことまで知っている! 探し物から先祖の歴史まで 《自己牧会プログラム》



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1918年頃内村鑑三と再臨運動メンバー


自己牧会プログラム
今回は、「良心は私の全てを知っている」。

良心はこんなことまでできるのか、という
素晴らしい証しです。

(男性 50代)

2016年に自己牧会プログラムに出合いました。

「自覚を取り戻す」ワークや「心の目で見る」ワークなどを
実践する中で、自分の中でモヤモヤしていたものが
スーッと溶けていく感覚がありました。

それまで道がないように思われていたところに
道が見えてくる、そんな恩恵を受けました。

ただ、同プログラムを実践している人がよく証ししていた
「失くした物を良心に尋ねたら、出てくる」という内容には、
当初、葛藤していました。
「なんと、次元の低い話だろう」と思ったのです。


ところがある時、必要に迫られて、
失くした物を良心に尋ねるはめになったのです。

子供を連れて車で釣りに行った時のこと、
釣り場に着いたら携帯電話が見当たりませんでした。
慌てて車に戻って探したのですが、見つかりません。

諦めて釣り場に向かって歩いている時、
「そういえば、良心に聞いたら、失くした物が
見つかるって言っていたな」と思い出しました。

だまされたと思って、「私の携帯電話はどこに行ったのでしょうか?」
と良心に聞いたところ、ある光景が心の中に映ったのです。

それは私が釣り道具を下ろした場所の光景でした。
あまりにもはっきり映ったので、とても驚きました。

その場所を探してみたら、ちゃんとそこにありました。
朝方で暗かったので、一度探したときには見えにくかったのです。

尋ねたら「ポン」と答えが来たという、衝撃的な体験でした。

 
その後、自己牧会プログラムを学ぶ中で、
「良心との対話を通して、過去について
ひもとかれなかったことがひもとかれることがある」
ということを聞きました。

私は携帯電話の体験を土台に、自分にとって長年、
疑問に思ってきたことを尋ねてみることにしました。

それは、私の曽祖父のことでした。
曽祖父は1918年10月10日に北朝鮮の平安北道で亡くなっています。
どういう経緯でそうなったのか、父も知らないとのことでした。

1918年頃に日本人が北朝鮮に行っているというのは、
あまり良いイメージはないと思います。
何かしら讒訴(ざんそ)されるような出来事が
あったのではないか──。
そういう不安がずっと私の中にありました。

それで、曽祖父の本籍地を訪ねて、同じ姓の人を
探して聞いてみたり、古いお寺に行って尋ねたりと、
いろいろ手を尽くしたのですが、分からずじまいだったのです。

そこで、「曽祖父はなぜ北朝鮮に行ったんでしょうか?」
と良心に尋ねみました。

すると、携帯電話の時と同じような感覚で
「ポン」と浮かんできた答えがあったのです。

それは、「クリスチャンだった」という、
全く予想だにしなかった答えでした。

「本当でしょうか?」と尋ねたら、
今度は「内村鑑三」という言葉が浮かびました。

そこで、曽祖父の本籍地と内村鑑三の関係を
ネットで調べたところ、一発で資料が出てきました。

1905年、内村鑑三は「神の愛による理想共同体の実現」を目指して、
「教友会」という組織を立ち上げていますが、
その出発の場を持ったのが、
まさに曽祖父の本籍地だったことが分かりました。

その立ち上げは、石を投げられるという
厳しい環境の中での船出だったということです。
一般のキリスト教からも理解されない中で、
その運動が進められていったことが伺えました。

教友会の構成メンバーは「18歳から
40歳までの青年と壮年」と書いてあり、
曽祖父の年齢は1905年当時、ちょうど40歳でした。

ここまで分かったとき、長年の疑問が解けたという感覚がありました。
さらに、これによって神氏族メシヤ勝利への道が
一歩前進したように思えたのです。


この体験を通して、私の良心は私について全て知っている、
失くした物から、過去の歴史まで全て知っている
ということを実感しました。

そして、私が天の願いに生きることができるように
応援してくれていることも確信したのです。

自己牧会プログラムは、今後私たちが
新しい時代を築いていくに当たって
必要なものであると実感しています。

私の心の中にいる神様 72
良心は私の全てを知っている

(blessed lifeより)


なんという素晴らしい証しでしょうか。
良心の声に聴き従うと
携帯が見つかっただけでなく、
先祖の家系が由緒あるクリスチャンだった・・・
そんなことまでわかってしまったのです。

私たちに新たな希望を感じさせていただいた
証しでした。
ありがとうございます。

さて、私ももっと低い次元ではありますが、
良心の声に聴き従って感じた体験があります。

先日、教会に出勤して歩いていた時のこと。
前からすれ違う男性と同じ方向に避けてしまい、
危うくぶつかりそうになりました。

その時、その男性は、わざと肘で
私の腹を押しました。

結構な衝撃だったし、突然の行為にびっくりして、
思わず男性を見ると、
彼は私をにらみ返しました。

その時、反発の思いが出てきたので、
すぐさま良心に耳を傾けたのでした。
良心は、「感謝しなさい」と返してきたのです。

ほんのちょっとしたことではありますが、
個人的には、「これで良かったんだ」
という思いになりました。

良心は、私自身が普段思ってもいないようなことまで
すべて知っている、
そして私たちの良さを引き出し
導いてくれると感じるのです。




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posted by ten1ko2 at 08:21 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月11日

私たちみんなが神学者 お父様との熱い神学的問答 《神明先生の信仰エッセイ》最終回



210610-uts.jpg


これまで不定期に紹介してきました
神明(しんみょう)先生の信仰エッセイ、
UTS時代の神体験。
残念ながら(世界家庭での)連載が終わってしまいました。

今日は最終回、
「今まで神学を学んで得たもの」です。


私は、お父様からUTSの第1期生の一人として選ばれて以来、
長年、神学を勉強し、また神学的教育に従事してきました。
それを通して学んだいちばん貴重なものを、
ここに記してみたいと思います。

「神学」という単語そのものは聖書にはなくて、
3世紀頃にオリゲネスというギリシャ語圏の
キリスト教の学者が使い始めた術語です。

ギリシャ語では theologia (英語では theology) といいますが、
これは、theos(神)とlogos(言葉)の
二つを合成してできたものです。

つまり、神学とは、神(theos)について
人間の言葉(logos)で表現したものなのです。

ですから、これはある意味では、
神様と人間が一つになったものとも言えます。


ただ、ここで注意しなければならないのは、
神様は無限で永遠なる絶対者であられても、
それを表現する人間の言葉はあくまでも有限であり、
時間的であり、相対的であるにすぎないということです。

なので、神学というのは大したことないものなのです。
神学で説明する内容は神様なのですが、
その表現は人間の言葉にすぎないのですから。

だから、自分の神学を誇ってはなりません。

例えば、神学者がどんなにすばらしい神学書を書いたとしても、
それは人間の言葉で書いた表現であって
神様そのものではないので、誇ることはできません。

また、説教者が皆を感動させるようなすばらしい説教をしたとしても、
あくまでも説教の言葉は人間の言葉ですから、
決して自分が神様そのもになったかのように
誇ったりしてはならないのです。

同じように、聖書も一つの神学書ですが、
それは無限・永遠・絶対の神様の真理そのものではなく、
それを表現する一つの教科書にすぎない、
ということは、『原理講論』にも述べられてています。


ところが、神学者は自分の神学をとても誇る傾向にあるのです。

無限・永遠・絶対の神様について語るとき、
自分の使う言葉までも無限・永遠・絶対で
あるかのごとき錯覚に陥るのです。

それで、神学者同士は、けんかをするのです。
キリスト教史を見ると、そのようなけんかが非常に多くありました。

私たち統一食口も神様について語るとき、
皆、神学者≠ナすから、この問題に
気をつけなければならないと思います。

今の統一運動の問題も、これで説明がつきます。
そして、問題解決もここにあります。


しかし、神学って大したことないからといって、
がっかりする必要はありません。

自分は人間なので限界があるのだ≠ニ認識して、
神様の前に頭を下げて謙遜になって精誠を尽くすと、
逆説的に、そこには神様の霊的な恵みの力が
無限に顕現するようになるのです。

そして、頭を下げたという条件で、
神様は人間の有限なレベルを神様のレベルに近くなるように
引き上げてくださるのです。

そのようにして、健全で素晴らしい神学ができてくるのです。
そして、神学者同士も神様を中心にして一つになれて、
果てしない醜い論争もなくなるのです。


私は立場上、真のお父様と
神学的問答をさせていただいたことがあります。

私は、「人間自身が作り上げる言葉やロジックが
どんなに素晴らしく見えるものであったとしても、
それによってかえって神様の無限・永遠・絶対の真理を
踏みにじるようなことがあってはならない」という
基本的なアプローチを持っていたせいか、
お父様との話がスムーズに進みました。

そして、当時、私が研究していた内容について、
いささか霊的熱気を帯びて
報告させていただくことになってしまいました。

そのとき、お父様はとても喜んでくださいました。
その喜び方が尋常ではなく、顔をクシャクシャにしながら笑われ、
おなかを抱えて転げ回られ、座布団からはみ出られるほどでした。

そしてそのとき、神様の愛の全能性などについての
お父様の深い洞察に富むお話をお聞きすることもできました。


そのときお父様はあまりにも喜ばれたせいか、
それから間もなく訪米された、当時の日本会長であられた
久保木修己先生に対して、
「神明は、既成教会の神学者が200人ぐらい、束になって
かかってきても、全部やっつける力を持っているんだ」
と言われたそうなのです。

久保木会長が私に対して「神明、おまえ、すごいんだってな。
そんなことができるってお父様が言っておられたぞ」と、
会長独特のユーモアを交えて教えてくださいました。


でも、断っておきますが、言葉が下手な私に
そんな力があるはずはありません。

しかし、人間の言葉の限界性を認め、それを条件にして
神様の無限の愛の力が働くようになる道が可能である
というならば、分からないことはありません。
そして、それは誰にでもできるものだと思います。

神学というものに直接携わってきて、
だいぶん長い年月がたちましたが、以上が自分で悟ったことです。

すなわちち、神学の定義からして、
人間が謙遜になれば神様が大いに働き、
神様のレベルに肉薄するということです。

真の父母様が紹介された統一原理という神学も、
このようにしてできたものだと思います。

現在、私は統一神学に関する本を執筆中なのですが、
このような悟りのもとに書くようにしています。

UTS時代の神体験
:ドクター神明の信仰エッセー
㉑今まで神学を学んで得たもの
神明忠昭
(世界家庭にて連載されました)


今まで語ってくださったエッセイ、
そして、最終回のコメントも含めて、
神明先生は、とても素直な方であり、
とても謙虚な方であることを感じます。

神学は、すなわち神様を研究することですから、
神様は人類の親であるとはいえ、それ自体が
恐れ多いと感じられているのかもしれません。

お父様が神明先生の研究されていることを聞いて、
小躍りされて喜ばれたそうなので、
とても素晴らしい研究なのだと思います。

そういう意味で、統一神学に関する書籍を
執筆しておられる、ということですので、
楽しみに待ちたいと思います。

また、信仰エッセイは終わりましたが、
神明先生の証しなどを紹介できればと考えています。

神明先生、貴重なお話、
本当にありがとうございました。






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2021年06月10日

虹は半分しか見えていない! 天から見れば・・・ 《橘先生》



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橘先生のコラム「夫婦愛を育む」
今回は、『虹は半分しか見えていない』です。


車を走らせていると、ラジオからNHKの
『子ども科学電話相談』が流れてきました。

「虹は本当は丸いけど、半分しか見えない。
残りの半分はどこにあるんですか?」という
小学1年生の男の子の質問に答えているところでした。

理系の知識に乏しい私は、「へー、そうなんだ〜!」と驚きます
(後で主人に話すと、常識だよ、とあきれられましたが)。

下の部分は地球に隠れていて、私たちが平地に立っている時は
上半分しか見えないけれども、飛行機からとか
高いビルの上からなら下の部分も見えますよ、
と解説者が答えていました。

新しい知識に、何とも言えない新鮮な感動を覚えました。


もう一つ、虹がよく見えるのは太陽の位置が低い時、
すなわち朝と夕と話していました
(考えたことはありませんでしたが、言われてみれば…ですね)。

大半の人が、虹を見るとうれしくなったり
祝福を感じたりすると思います。

朝ならば、「あ、今日は何かいいことありそう」と
一日の始まりに励ましてくれているように受け止めるでしょうし、
夕方に見れば、「一日お疲れさま。頑張ったね」
と慰労してくれているように感じるかもしれません。

朝と夕に見せてくださるとは(科学的には光の角度の問題ですが)、
神様の粋な計らいではありませんか。

 
旧約聖書では、虹は人間に対する神からの「契約のしるし」です。

ノアの箱舟で知られる大洪水の後、神がノアとその子孫、
全ての生き物に対して立てた永遠の契約として、
地を滅ぼす洪水を二度と起こさないという約束の証しとして、
虹がかけられたとあります(創世記 第9章)。

この約束の背後にあるのは、神様の愛。

希望・平和・祝福の象徴ともされる虹は、
砂漠以外のほとんど全ての陸地と
ほとんど全ての海で見られるそうです。
神様の愛が全世界に及んでいるんですね。

 
中学の国語教科書に載った吉野弘さんの
『虹の足』という詩では、こんな光景が描かれています。

山路を登るバスの中で現れた虹に感動し、
目を投じると虹の先が眼下の村に届いています。
でもそこに住む人は虹に気付いていません。

その位置では見えないのです。
太陽を背にした位置にいる人にしか虹は見えません。

作者はこの現象を、
“他人には見えて本人には見えない幸福の中で、
格別驚きもせずに生きている”様子に例えています。

太陽を背に、すなわち神様と同じ目線に立たなければ、
恩恵は見えないのかもしれません。

その上、見えたとしても半分しか見えていない…!
どんなに神様の愛に感動していても、
半分しか感じ取れていないのだ、
分かっていないのだ、と思わされました。

つらい中にあっても、大きな大きな愛で覆われている、
まあるい虹の中にすっぽり入っていることを
想像できたならいいかもしれません。

夫婦愛を育む 161
「虹は半分しか見えていない」
ナビゲーター:橘 幸世


昨日、本当にちょっとしたことではありますが、
家計に響く「ある出来事」があり、
気が滅入っている時にこの記事を目にしたので、
載せてみました。

虹も久しく見ていないな、と思った先日、
女性連合で活動していた妻を迎えにいった夕方、
雨上がりの空に虹が見えたのでした。

虹を見ると、何とも言えない感動が押し寄せてきます。
虹は、民族を問わず、時代を問わず、
人々に感動を与えてきたのではないでしょうか。。。

今、生かされていることに感謝して、
毎日を精一杯歩んでいこう。。。
真の万物の日に新たなる出発を期したのでした。



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posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(0) | 夫婦講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする