2021年06月21日

「共産主義の終焉」、画期的な大論文を天に捧げるまでの壮絶な証し 《李相軒先生を偲んで:大谷先生》



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李相軒(イ サンホン)先生の著・「共産主義の終焉」は、
真の父母様の勝共決起大会、興進様の聖和(逝去)、
ダンベリー収監、一勝日に至る
摂理に直結した素晴らしい業績です。

執筆に責任を持たれた大谷先生が、
李相軒先生を偲ばれた寄稿文の後半を紹介します(1997年)。


私が李先生とともに歩んだ中で忘れることのできないのは、
『共産主義の終焉』(1984年)と、
その英語版(1985年)の出版の仕事です。

1980年にアメリカの教会のリーダーが二陣に分かれて
韓国に来て、李先生より統一思想を学びました。

第二陣を率いて来られたのが朴普煕(パク ポウヒ)先生で、
その年に始まったカウサのスタッフたちが参加したのです。

セミナーの後、朴先生は李先生に
「今、南北アメリカは共産主義によって
大変な脅威を受けています。
どうか勝共理論の学術的に完全なものを作ってください」
と依頼されました。

李先生は、それをお父様に報告され、
新しい勝共理論の本
『共産主義の終焉』の執筆を決意されたのです。


ところが当時、韓国は反共政策のため、
マルクス主義の本を持っていると
検挙されるというような状況でした。

そこで李先生は日本に来られ、理論メンバーを集めて
「日本は共産主義の文献がたくさんあるでしょう。
それを整理して提供してください」と語られました。

私はそれまでは統一思想だけで勝共理論には
携わっていませんでしたが、
『これは重要な仕事だ。ぜひともやりたい』
と強く迫ってくるものがありました。

それで何かに押し出されるようにして資料を集め、
整理する仕事を始めました。
そして、いつの間にか私が責任を持つようになっていたのです。

それから85年までの5年間は共産主義との闘いでした。
寝ても覚めても「マルクス 、マルクス」という状態です。
時間のたつのも忘れて没頭した日々でした。


そしてようやく、『共産主義の終焉』の原稿が
出来上がろうとしていた1983年12月、
突然、韓国の八大都市で全国勝共決起大会が開かれたのです。
それは神とサタンの興亡をかけた闘いでした。

12月22日夜、私は李先生とともに
最後の八番目の都市、光州に行きました。

その夜、李先生より烈火のごとく怒られたのです。
「この本(『共産主義の終焉』)は、今この時に
出版されていなければならなかった 。
あなたがたがこの世の学者のように、完全性ばかり追求して、
どんどん時間を延ばしてしまった」と言われたのです。

あまりにも激しく怒られ、私はその夜、
光州の旅館の一室で一睡もできませんでした。

ところがそのとき、アメリカで興進様が事故に遭われたのです。
ソウルに帰る車の中でも、李先生の怒りは治まりませんでした。

そのときのことは、忘れられません。
霊界が大きく揺れ動いた一時であったと思います。


そうして日本に帰る時、李先生から
「日本に帰ったら四十日以内に出版しなさい」と言われました。

李先生は日本語が堪能であり、資料が日本語だったので、
日本語の原稿が最初に出来上がったのです。

そうして、1984年2月に日本語版の
『共産主義の終焉』が出版されました。


ところが、李先生は
「日本語では世界に影響を与えられない。
英語版をつくりなさい」と言われたのです。

そこで、日本の統一思想研究院で英訳し
84年暮れに出来上がりました。

その原稿を持って李先生のところへ行くと
「あなたは、この原稿をもってアメリカへ行き、
40日以内に本を出しなさい」と言われたのです。


私は悲壮な思いで、12月の暮れにアメリカに出発しました。
かつて、1980年に韓国で統一思想を学んだ
メンバーの一人を頼りにして、仕事を始めたのです。

彼は大学院で言語学を専攻していて、忙しい身でしたが、
「これはとても重要な仕事だから、
すべてを犠牲にしてやってほしい」と、彼に訴えました。

李先生からは連夜のように「どこまでやったか。
早くやりなさい!」と電話がかかってきました。

私は謝るばかりで、その兄弟にプレッシャーを
かけるしかありませんでした。
ところが、その兄弟は次第に苦しくなって失踪してしまったのです。

そのときの私の挫折感は、今も忘れることができません。
結局、その兄弟は二度にわたって失踪したのですが、
そのたびに帰ってきました。

40日間の予定が、7か月もかかって
1985年7月の初めに英語版が出来上がったのです。


イーストガーデンのお父様のところにお持ちすると、
「よくやった」 と労をねぎらってくださいました。

後でわかったことですが、1985年8月15日が
40年荒野路程の期限であり、その日までに
共産主義とソ連帝国の崩壊を
世界的に宣言しなければならなかったのです。

辛うじて期限に間に合い、摂理にかなうことができ
李先生の面目を立てることができました。

1983年から85年にかけて、ほんとうに緊張した状態で、
李先生とともに歩ませていただきました。


最後に、李先生が私たちに語ってくださったことで、
今私の心の中に残っていることを挙げると次のようなことです。

「統一思想は、決して私(李相軒)の思想ではありません。
お父様の思想です。
私はただお父様のみ言を整理して体系化しただけです」

「研究をして論文を書くとき、
献祭する気持ちでしなくてはなりません。
天にささげて 、それを用いてくだされば感謝し、
受け入れられなくても不満を持ってはいけません。

自分なりに自信たっぷりに、絶対にこれを認めてください
というような態度ではだめです。
自分というものがあれば、天は絶対に受け入れられません」

「我々は天を高め、真のご父母様の偉大さ、
原理の偉大さを証しするという姿勢で
研究をしなくてはなりません」

「草創期にお父様が『天は地を探し、
地は天を求める』と語られました。
私たちは地の知識を聖別して天につなげる使命を果たすのです」


今、李相軒先生は昇華されました。
私は頼りとする柱を失った思いです。

しかし、李先生の教えを受けた者たちが使命を相続して、
統一思想を世界に輝かせなくてはならないと思っています。

寄稿  大谷明史
統一思想研究院 副院長 777家庭
「李相軒先生を偲んで」
『ファミリー』より


これと全く同じ内容の証しを、済州島修錬会で
直接、大谷先生から伺いました。

大谷先生は、とてもソフトな語り口調でしたが、
内容は、読まれたごとく、壮絶であり、
かつ摂理的にも重要な証しでした。

「共産主義の終焉、ソ連帝国の崩壊」を宣言しなさい
と言われたモートンカプラン教授が
「おそらく(maybe)」をつけてもいいか、
何度もお父様に尋ねられたことが、
お母様の自叙伝にも書かれていますね。

その背後において、この大論文である
「共産主義の終焉」を執筆することに
また一つの重要な摂理的意義があったことを
改めて認識させていただきました。

また、最後に紹介された李相軒先生の教訓の一つひとつが
あまりに素晴らしく、
とても厳しい方であったということですが、
お父様と、天の摂理の前には、
ここまで謙遜に侍られるな方であったのだと
感じ入るものがありました。

李相軒先生、大谷先生、
本当に感謝申し上げます。






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