2011年09月01日

統一教会は拉致監禁・強制改宗を見過ごさない!意識と応援をお願いします


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少し前(8/25)になりますが、
拉致監禁by宮村の裁判記録が更新されていました。

「後藤代表が12年5ヶ月もの間、監禁場所にいたのは、
伝道目的のための居座りであった」
と理解不能な主張を述べる反対派に対して、詭弁である理由を
こと細かく説明しています。

コメント欄に元信者の方が、
この裁判記録に関して、無反応な信者たちを批判していました。
実際、ブログを読んでいる数字を見ても、
毎日、数十人しかいないので、
「無反応」だと思われても仕方がないのかも知れません。

そのコメントにジャーナリストの米本氏がこんな返答をしています。
そのまま転載させていただきます。 

教会が組織する「拉致監禁反対」のデモや集会は、
全国で行なわれてきました。
後藤さんが集会でスピーチすると、
「なんとひどい」「裁判頑張って欲しい」といった声が飛び交います。
しかし、デモや集会が終わると、解離性障害者のように、
頭のスィッチが切り替わるのか、
後藤さんの裁判のことが関心から失せてしまうようです。
そうでなければ、後藤さんが東京地裁に提出した「陳述書」は熟読し、
コメントを投稿せざるを得なくなるはずですから。
長年、ネジ曲がってしまった上意下達の「アベルとカイン」をやってきたから、
上と下には目がいくけど、横と横の関係、
隣人への愛と労りといった雰囲気が完全にといってもいいほど、
この組織から喪失してしまった結果だと思います。
「中心」さんがブログを読め、ブログに反応せよといったら、
ものすごい反応になるでしょう。
そして、ブログはもういいといえば、とたんに引いていく。
いま、日本の社会で「絆」ということが盛んに言われていますが、
絆がより喪失したのは社会ではなく統一教会社会だという印象を強く受けています。
でも、ここの世話人さんたちが地道に継続的にコツコツと努力していけば、
少しずつであっても、連帯の輪は広がっていくものと確信しています。



鋭いご指摘であると思わされます。

ある新興宗教の大幹部が、
統一教会で反対派による拉致監禁が行われていることを聞いたとき、
このようにつぶやいたといいます。
「もし私たちの教団でこのようなことが起こったら、
ただではおかない」
教団をあげて、信者一人の命を守るために、
ありとあらゆることをして、奪還すると宣言していたといいます。

私たちの教義は本当に素晴らしいものであり、
それを実践していけばどれだけ素晴らしい人間関係が築けるでしょうか。
しかし、日本の使命と責任があまりにも大きいので、
責任者の方たちはそれを果たすことに全力投球せざるを得ません。

私自身も拉致監禁被害者であるがゆえに、
ブログを通して、訴えていますが、当事者でなければ、
自分もどうしていただろうか、そう思うこともあります。

(このブログでも拉致監禁の記事と、証しなどの記事を比較すると
アクセス数に歴然とした違いがあります。)

しかし、過去の姿とは違うところ、
すなわちご指摘いただいているところと違う部分も現れてきていることも、
起こり始めているのではないでしょうか。

國進理事長からも折々、メッセージやご指示を頂いていますし、
梶栗会長、宋総会長を始めとして、中心者の方々も篤い思いをもって
責任を持ってくださっています。

地区長は、拉致監禁撲滅プロジェクトの会議に、
時間があれば参加してくださいます。
参加されるだけでなく、具体的なアドバイスをしてくださり、
地区として何が出来るかを考えて、行動に移してくださっています。
本当に感謝です。

さらには、被害者ではない方たちも、
ブログを通して、拉致監禁の不当性を訴えてくださっています。
この場を借りてお礼を申し上げます。

拉致監禁に対する関心と取り組みが、
私たちの過去の負債を埋め合わせることにつながり、
現在の問題解決にもつながっていく、
そう考えてこれからも情報を発信してまいります。
後藤代表の裁判に対しても、今後ともご支援をよろしくお願いいたします。


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posted by ten1ko2 at 09:31 | Comment(5) | TrackBack(0) | *拉致監禁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
毎年、毎年、300人、400人が監禁されてその80%〜90%が落とされてきた時代が10年以上続きました。そしてその監禁から統一教会に逃げ帰った人もボロボロになっていました。

そういうなかでこの問題の解決のために必死に動いてきた人間を統一教会本部は必死に妨害していたのです。

そして一年間で5人とかせいぜい10人くらいしか監禁されなくなったときに、自分たちの手柄を立てるために必死にデモをしています。笑わせるなよといいたいです。

なぜかといえば、拉致監禁の問題を本格的に扱えば、霊感商法の問題をきちんと扱うことになっていくからです。臭いものにはフタをしてごまかそうとしていました。

それが霊感商法がストップして支障がなくなったので、なんとかできるようになったのです。

それでもごまかそうという体質が今でも続いています。だからこの拉致監禁の解放プロジェクトが始まってからでさえ、監禁されるとほとんど落ちるのです。

後藤さんが12年監禁されて逃げてきたときだって、本部は動かなかったし報道もしませんでした。後藤さんが荻窪駅前でハンドマイクを片手に叫ぶようになってからでさえ、動かなかった。報道さえほとんどしませんでした。

国進様の命令ではじめて、本部が動き始めたのです。しかも最初に動いたのが霊感商法の問題での謝罪会見で、統一教会も加害者だけでなく被害者なんだという部分を強調するために使ったわけです。

自分たちこそが見捨ててきたのに、いざ自分たちがピンチになったから、拉致監禁の被害者を前面に立てて、自分たちを守っているわけです。本当に徳野会長が被害者に申し訳ないと思うのならば、本部教会に被害者を集めて謝罪したらいいでしょう。

なぜ一般のマスコミに向けての記者会見で、ひとりの拉致監禁の被害者もいない場で、拉致監禁の被害者に向けて謝るのですか。なぜその記者会見のあとからでも、シックの被害者を集めて謝罪しないのでしょうか。

結局、謝罪するのが目的でなくて、マスコミ攻撃に対しての防波堤として拉致監禁を使っているだけですよね。

本当に汚いやつらだと思います。

反対牧師もひどい、はらわたが煮えくり返るほど憎いですが、それと同時に内部もひどいです。



Posted by じん at 2011年09月01日 12:58
もっともだ。

ただ、日本統一教本部は昔から、上から命令が無ければ何もしない組織だった。

それは信仰が乏しいからだ。

神様は個々人の内に宿るものだ。だから神様と共に生きる人間は、命令などされなくても、常に内発的、自発的に動いて行く。

そう言う風になれば、もうちょっとましな組織になるのだけれど。
Posted by かんご at 2011年09月01日 20:38
じんさん、かんごさんのコメントは非常に分かります。ただじんさんの”汚いやつらだ”、と罵りたい気持ちも分かりますが、それはかんごさんもいわれるように統一教会の昔からの体質ですね。悪気があってそうなってるわけではないと思う。

利用できるときにしておこうというあるねじれた意図を駆使して”そうした”わけでもないように見えます。
ただ良心の中がどこか空洞状態というか、命令待ち状態というか、自分の本心から発動される意思決定が個々人にないのは確かですね。それはリーダーたちにも同じことが言える。
なぜならより下の者は上の地位の者からの、縦的命令によってのみ動くように訓練されてきたからでしょう。それが天の秩序だと教わり叩き込まれてきた結果です。
それがゆえにこの組織が発展するために大いに機能してきたゆえんでもあるけど、それゆえにまた融通のきかない硬直した意思疎通のどこか欠けたがらんどうな組織になっている面も実際あると思うのです。

まあ、全体主義”的”組織の特徴ですね。
個々を重んじていないのは、各人の心が冷たかったり、歪んでいるからではなく、大儀明文を無心に達成することが、個人目的の完遂として、いままで強調されてきたからではないかと・・・

ただ原理では個人と全体の二重目的のために世界は存在すると教えていますから、バランスを取らなければいけないはずですが、昔の時代の信者ほど個人の欲求は犠牲にされ、全体目標のみに生きることをすべてとされていたことは事実です。しかしそれもいたし方がないのでしょう。
どの時代でも平等というわけではないですから。宗教に限らず政治でも経済でもいつの時代でも先駆者は後続する者のために多くの個人的犠牲を払って今日に至っているわけですから。

というわけで統一教会もこの組織に関わっている個々人ももう一回原点に立ち返って総括してゆく局面に立たされているという感じがします。




Posted by 龍丼(ドラゴン・ボウル) at 2011年09月07日 00:14
勘違いしないでいただきたいのですが、組織の中で命令系統は必要です。それは一般の会社なんかでも同じでしょう。「全体主義」とか言うものではない。文師の進む方向に一緒に進む。文師のやろうとすることを助け、侍る・・ために作られた組織です。けれども、例えば「ユガンスン大会」の時には、民団や総連を巻き込んで行く道もあったのだけど、上から命令されないから、何もしなかったし、大会が終わるとすぐに皆忘れて行ったでしょう。なぜその大会が必要で、神様は何を望まれたのか?そこを問い掛ける必要があったのです。そういう問いかけをしないから、信仰的な生長をしないのです。
上から言われないと行動しない・・・人達が「神様と共に生きている」と言えるだろうか?と考えた時に、それは違うのではないかと私は思う。
なぜなら、神様の御意を感じた時、私達は自ら進んでその事をなそうとするからです。
Posted by かんご at 2011年09月08日 09:24

共有すること、共感することが多くあるほうが、人生楽しい。

何が違っているかを探して自分と別け隔てることに自己満足するより、
何が同じなのか探して他人と共感を共有するほうが楽しい。


********************************


教会内部にいる者は、
世間からどう見られているかをもっと具体的に理解(し)らないといけないと思う。
知ることは力なり、でしょう?。
だって原理を知り、真の父母を知って今の自分があるんだから。
そうやって外部がどういう目で見てきたのかを知って知って、知った挙句に
反省もしないといけないんじゃないかと思うな。
自分たちだけが正しいことしてるってうぬぼれるばかりじゃなくて・・
神様は統一教会を知らない人にも働きかけているんだから。

一方、教会外部には私たちは理解(し)ろうと努力し実践している旨を
伝えるということも大事だと思う。
そうやって外側の事情を内側の事情と相互授受作用させながら
世間にいかに認知されやすい方向に向けるか働きかける・・・
そんな意識がこういう世間と統一教会の断絶の関係を修復する近道なんだと思う。

自分の主張をがむしゃらにぶつけるだけでは、かえって反発を助長する。
お互いが共に歩み寄るために、何ができるのか考えたい。
それは相手からではなく、自分から。
相手が変わることを期待するんではなく、
まずは自分たちから変わらなければ。
だって、そもそも自分の価値観が先に変わってしまったのだから。
世界はそんな私たちを奇異な目で見ている。昔から今に至るまで・・・ずっと変わらず。

多少一部の人が受け入れているといって、手放しで喜んではいけない。
時代は変わってきたと無理やり自分の都合で世間をはめ込んで満足している場合じゃない。
敵はまだまだ多いぞ。まだまだ冷たいぞ。このままでは凍え死んでしまうほどだ。
その厳しさに気がつくことだ。どれだけのものかと言う事を。
そしてその寒さは自分の取ってきた態度が原因だったことを知ることだ。

だから環境を変えたければ、まずは自分だ。
自分自身が変わることだ。変わるといっても、変わってみせることとは違う。
それは決して相手におもねることじゃないから。
ゴマを摺ることでもない。
猫なで声を出すのでもない。
棄教することでも当然ない。
それは信仰を捨てることではないんだ。

信仰を持ちながら、相手を拒まず、相手を受け入れていく道があるはずなのだ。
相手を受け入れることから希望が始まるのではないのか。だから愛することが大事ではないのか?
だからお父様の許しの哲学が尊いのではないのか?
芯から変わらないと相手は納得しない。ましてや相手を包むことなど絶対できない。

心を開いて、昔の価値観も取り込んでみよう。確かに新しいそれとは違和感があるかもしれないけど、
融和させてみよう。新しいそれは、過去のそれをつまはじきさせるものじゃないことを知るかもしれない。
それによって新しい発見があるかもしれない。私たちが知らない世界はまだまだ広く深く、謙虚に学ばないといけないものじゃないかと思う。汚いものも、きれいなものも、怖いものも、愉快なものも、すべてあるがままに受ける。
結局吸収されないといけないんだから。それは予防接種だ。最後は吸収したものが昇華されて、本当の毒からその身を守ってくれる。人も同じかな・・と思ったりする。

山に登るのに、一緒に登る兄弟姉妹は力になる。でも見ていたら次々に脱落していく・・・
下界に霞んで見えるのは、かつて登山に挑戦して、夢潰えた兄弟姉妹の屍の後だった・・・
しかし世間は最初から登る気もなく、我々に非難を浴びせる。そんな標高の高い無謀な登山はないといって。
どんな動機でそこに挑戦しているか想像もしないで。

それでもわれらはそんなヤジを飛ばす人と一緒に登っていかないといけないものだと思う。
共にすべての人と山頂に行かないと行けないのが、結局我々が神様から教えられた価値観だから・・・


ウサギと亀の話があるでしょう。
ゴールを頭に入れてなかったウサギは油断して山の中腹で眠ってしまった。結局亀が先に登頂した。
そうじゃないというんです。
ある噺家が言っています。
亀は眠っているウサギを途中で起こしてやったんだというのです。
亀曰く、「一緒にゴールを目指したほうが楽しいからね」
愚かなウサギにならず、
賢い亀になりなさい、という噺なんですね。

賢い亀はきっとみんなから好かれるでしょう。
でも、好かれるためにしたんじゃない。
賢いことを貫いたら好かれていたということなんです。
ただ亀は賢く生きただけ。
それはウサギの得にもなったし、ウサギの反省も促した。

だからつまりは一緒が一番楽しいという話。みんなで楽しさを分け合うことがいいね・・・

最初に言ったけど共有すること。共感すること。
何が正しいか正しくないか、眉間にしわ寄せて吟味しながら生きるより、
できたら何が楽しくて、何が楽しくないかで生きたい。人は結局それを求めているから・・・

夫婦もそれが大事。親子でもそれが大事。友達ともそれが大事。
そういう生き方なら反発する人、反対する人とは縁が遠くなる気がしませんか?
私も賢い亀になりたいと思って努力したい。
Posted by 龍丼(ドラゴン・ボール) at 2011年09月30日 01:49
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